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メルセルヴィーテ帝国

メイテル・スティーユが婚約できるまで

作者: 木月橘

少し下品な言葉が出てきます。

主人公の偏った考えがつらつらと語られる場面が出て来ますが、あくまでもこの世界でも主観です。

あらすじの確認お願いします。




「ごめん。この話は無かった事にしてほしい」


 フラれた。

 またフラれた。

 この日メイテル・スティーユは婚約を前提に数度の逢瀬を重ねていたワイマール伯爵子息にフラれた。

 また、と言う事はつまりこれが初めてではないということだ。悲しい。

 悲しいけれどもしかし、メイテルにだってプライドがある。貴族として生まれ育ち誇りを持って生きてきた。

 取り乱してなるものか。

 何食わぬ顔で啜っていた紅茶をソーサーに戻して表情を変えぬよう心掛けながらメイテルは口を開いた。


「そう。一応、訳をお聞かせ願えるかしら」

「泣きもしないんだな。それだけ強ければ僕でなくとも良い相手が見付かるよ」


 訳を言えと言っている。お前の希望的観測は聞いていない。殴ったろか。泣くのを期待していたのか。まだお付き合いにも発展していない女性を泣かせる気だったのか。最あんど低おぶ最あんど悪だな。

 心の中で暴言を吐き散らかしながらメイテルはまたカップを持ち上げて紅茶を啜った。

 こういった言い方をする男が何故お断りを入れてくるのかメイテルは知っている。経験上知っている。知りたくなかったが知っている。


「他の方と上手くいきそうですのね」


 ほら、顔色が変わった。図星だ。

 お見合いを掛け持っていたのか後から理想に出会ったのか知らないけれど、どちらにしろメイテルが強い事とは関係ない。ただの不実だ。まだ婚約前だからギリギリ致し方無いで済ませられる。

 済ませられるけれど、それでもメイテルは悲しかった。


「宜しゅうございましたね。では、私はこれで失礼致しますわ。ごきげんよう」


 二度と会いたくないわちくしょう。

 止めようとするワイマール伯爵子息を無視して、メイテルは自分の分の飲食代をテーブルに置きながら席を立った。奢られてたまるか。

 そして一歩二歩踏み出して、ああでもこうして直接顔を合わせて正直に言ってくれるだけ誠実かも知れないと、そう思い直した。


「……あのね、ワイマール様」

「え……」


 メイテルが振り向くとは思っていなかったのか、気不味そうにメイテルが置いた飲食代を眺めていたワイマール伯爵子息が驚きの声を零した。せめて立ち去るメイテルの後ろ姿を見送れよ、この男。


「確かに私は強いですし、貴方が居なくとも生きてゆけます」

「……そうか」

「けれど、それでも貴方と共に在りたいと思っていましたよ」


 捨て台詞くらい許してくれ。メイテルはこれでもとても傷付いている。


「スティーユ嬢……」


 今度こそ立ち去る。もう振り返らない。

 どうせあいつも庇護欲を唆る愛らしい女性とメイテルを天秤にかけてあちらを選んだのだ。屈辱だ。屈辱である。

 貴方がいないと駄目なの……とでも言われて撓垂れ掛かられて鼻の下を伸ばしたのだろう。

 お生憎様。メイテルはそんな強かさを持ち合わせていない。一人でも生きていける。でも、それでも一緒にいたいと思ったから逢瀬を重ねた。

 向こうはそうではなかったらしいけど。

 そろそろ幸せになりたい。



 メイテルがフラれるのはもう何回目だろうか。六回目だ。悲しくなる。

 一度目は幼い頃に両親が見付けて来た婚約者候補の男の子だった。確か同じ爵位、子爵家の子だったと思う。そうだ、ライル。ライルだった、あいつは。


 幼いとは言え互いに十三。思春期真っ只中。

 それでも家の為となるべくにこやかにしていたメイテルとは対照的に、ライルはずっと不機嫌そうな顔をして絶対にメイテルを見なかった。見ようともしなかった。

 その日はあちらのご両親から謝罪を受けお開きとなり、後日もう一度会ってやってくれと頼まれて今度はあちらの家へ呼ばれて行った。

 そして今、ライルとは婚約していない。だから結果は散々だったとは言うまでもないだろう。


 メイテルは婚約できるまで後何回こんな思いをするのだろう。憂鬱だった。婚約の後には結婚も待っているのにこの様だ。憂鬱でしかない。


 店を出るときに後方に居た男性がメイテルを追い抜かし、出入り口のドアを押さえて軽くエスコートをしてくれた。紳士なら当然の行動でよくある日常の光景だ。メイテルも甘んじて受け入れて会釈をする。

 互いに言葉も発さず店外へ出ると、知り合いでもないのでそれぞれの目的地へと足を向ける。

 けれどたったそれだけの、そんな些細な当たり前の優しさが、この時のメイテルには泣きそうなほど嬉しかった。






「すまない。この話は無かった事にしてほしい」


 フラれた。

 またフラれた。

 この日メイテル・スティーユは婚約を前提に数度の逢瀬を重ねていたホーウェン伯爵子息にフラれた。

 前回フラれてからまだ半年、婚約の打診を受けてからまだ一月である。早い。早過ぎるぞホーウェン。今年は一年で二回もフラれた。悲しい。

 けれど今回だって取り乱してなるものか。

 何食わぬ顔で啜っていた紅茶をソーサーに戻して表情を変えぬよう心掛けながらメイテルは口を開いた。


「理由は……お聞かせ願えますの?」

「私は真実の愛を見付けてしまったんだ」


 出たー。はい、出たー。

 顎を蹴り上げたろか。

 愛に真実やら何やら装飾を付ける奴に限って、己に自信が無くて自分に褒められる所や自慢できる所が無い。だからやたらと凄いものに自分は囲まれてるんだぞという謎アピールをする。友達に凄い奴がいる、あの有名人は知り合いだ、等もこれらの仲間である。

 完全に自己陶酔に浸る痛い奴で決定だおじゃん。精神年齢が十四歳で止まっている人種だ。愚劣の極み。


「あちらは爵位が無くてね。それが故の天真爛漫さが私の心を捕らえて離さないのだよ」


 つまりメイテルは平民の娘に負けたのか。横取りされたのか。それとも二人の愛を盛り上げる当て馬だったのだろうか。

 情けない。

 情けなくて涙が零れそうだ。

 こんな自己陶酔の激しいナルシストとの未来を夢想した己が堪らなく情けなくて恥ずかしい。


 ただし言っておく。

 メイテルは本物の天真爛漫に出会った事が無い。

 ただ単に思うがままに振る舞うのは我儘か非常識の無知であり嫌われるが、無邪気で純真が故の奔放な振る舞いは本来なら反感を買いにくい。

 計算尽くの前者ばかりを見てきた。そして、それに騙されている人も同じくらい。


「そうですか。私には出来ぬ事ですね。承知致しました。では、私はこれで……。ごきげんよう」

「君の想いに応えてやれなくてすまない」


 謝るくらいなら初めから婚約を打診してメイテルを期待させないでほしい。観劇やオペラに誘ってメイテルとお出掛けをして楽しませないでほしい。

 謝るような事をしないでほしかった。

 メイテルのご機嫌は切り立った崖より斜めである。絶壁だ。


「……ここは私に出させてほしい。男の沽券に関わる」

「ホーウェン様……」


 股間を蹴り上げたろか。

 ほしいほしいってさっきからメイテルに求めてばかりである。メイテルの望みは何一つとして叶えられていないのに。

 そちらから婚約を打診してきておいて、よく分からない理由で振っておいて、まだ何か求めるのか。メイテルはとてもとても腹立たしかった。何故そんな奴の外聞を気にしてやらなければならない。

 こんな事でどうにかなる程度のものならば初めから無いようなものだろう。メイテルはもう彼の婚約者候補ではない。奢られる筋合いも借りを作る主義でもない。


 メイテルは立ち上がるとそのままホーウェンから離れ、彼の視界から外れた所で店の者を呼び止めて会計を済ませた。会計はどこででも出来る。席で待つしか脳の無い真実の愛野郎はそのまま座っていればいい。一生。

 ざまあみろである。




 翌日いつも通り学園へ行くと、やはりそこはいつも通りの学園だった。

 メイテルがどんなに落ち込んでも世界には関係ない。常と変わらぬ時間が過ぎていく。解せぬ。解せぬがしかし、その時間がいつかメイテルの心を癒やしてくれる事も知っている。

 知りたくなかった。


 教室へ向かう道すがら、同じ学年の女生徒の集団に行きあった。

 メイテルが婚約の打診を受ける度に彼女らには爵位の事や無いことや無いことと無いことなどを論われて貶され、笑われたものだ。

 だが、それももう過去の話。


「スティーユ様……その、もしかして……」


 毎度毎度あまりにも落ち込むメイテルを見て、何度も何度もあちらからの申込みにも関わらずフラれるメイテルを見て、次第に慰めてくれるようになったのはいつからか。

 意地悪をされなくなるのは嬉しいけれど、優しさも沁みるけれど、それと同時に途方も無く虚しい。


「フラれました……」

「まあ、まあ……。今回はホーウェン伯爵子息でしたかしら?」

「はい……」


 今回って言うな。今回って。


「またお話をお聞きするわ。話したい範囲で構わないから聞かせてちょうだい」

「そうよ、遠慮しないでね。いつもの席を確保しておくわ。昼食の時で良いかしら?」

「あ、今日でも大丈夫かしら? 後日になさる?」

「今日お願いします」


 食い気味に答えた。

 むしろ聞いてくれるのなら、この溜まりに溜まった愚痴を吐き出させてくれるのなら、今からでも聞いてほしいくらいだ。

 メイテルのフラストレーションは溜まり過ぎて爆発しそうだった。


「勿論よ。美味しい物を食べましょうね」


 優しい。

 彼女達はいつも、子爵令嬢であるメイテルではとても手が届かないような豪勢で美味しいデザートを奢ってくれる。これでもかと言う量を奢ってくれるのだ。こういう時は甘い物が一番だと言って。

 そしてメイテルの愚痴を聞いてくれる。

 メイテルがすっきりするまで何日でもかけて聞いてくれる。

 更にメイテルのその愚痴を誰かに言うことなく心に留めておいてくれる。だからメイテルは未だフラれまくっている残念な令嬢として知れ渡っていない。お陰様で一応まだ婚約打診はくる。



 二度目にフラれた相手は彼女達の中の一人、ケリー侯爵令嬢の幼馴染みスティーブ侯爵子息だった。だからこそ絡まれたんだろう。後から知ったけれど、彼女らは婚約こそまだだったものの両想いだったのだから。

 ただの当て馬だと知った時のメイテルのやるせなさは、絡んできたケリー達に遠慮なくぶちまけた。若気の至りだ。


 尚、あれから三年経つがケリーはまだスティーブを許していない。自分達の恋を盛り上げる為に同じ女性を利用したことを許せないと、嘘でも例え一時でも他の女性に愛を囁いた事への拒否反応が消えないとのことだ。

 スティーブは半狂乱になってケリーに謝罪をし、今でも熱烈に彼女を口説いているが、それが出来るなら初めからやってろよとメイテル達はケリーとよく話している。相手を試すようなことをする奴は得てしてクズだ。


 スティーブを未だに信じられないからとケリーは拒否しているが、彼女のこの対応が不満で他に行くなら行けと割り切った上での対応らしい。かっこいい。メイテルはケリーが大好きだ。

 けれど勘違いしないでほしいのだが、メイテルはスティーブに愛など囁かれていない。そこのところ分かってほしい。切実に。

 そしてメイテルもスティーブを許していない。スティーブがメイテルを選んだのは、彼の名前とメイテルの家名が似ているからだなんて、そんなふざけた理由だったのだから。






「すまない。この話は無かった事にしてほしい」


 フラれた。

 またフラれた。

 この日メイテル・スティーユは婚約を前提に数度の逢瀬を重ねていたダント男爵子息にフラれた。

 前回フラれてから一年、婚約の打診を受けてから四ヶ月。今度こそはとゆっくり愛を育んでいたのに、である。

 ダント男爵子息はおっとりとした物腰の柔らかい人物で、メイテルをエスコートする為グローブ越しに手を軽く触れるだけで頬を染めるような、そんな初心な人だ。

 だからゆっくり進めていたのにこの所業。

 あんまりである。


 だけど今回だって取り乱してなるものか。

 公園のベンチに並んで座っていて互いの表情は見えないが、それでも表情を変えぬよう心掛けながらメイテルは口を開いた。


「それは……私に何かご不満がございました?」

「そんな! 君は素晴らしい女性だ。僕には勿体無いくらい、とても」


 じゃあ何故振る。建前はいい。メイテルは本音を言ってほしかった。


「とても……とても、君は素晴らしい。……違うんだ、君がどうこうではなくて僕の……、僕の前の婚約者候補の女性が……」

「その方と話がまとまりそうなのですか?」

「いや、違う。あちらの事情で話が流れたのはもう何年も前の事だ。それから一切連絡は取っていない。だが、僕に新しい婚約者候補が出来たと聞いたようで突撃を受けて……もしかしたら君が嫌がらせを受けるかも知れない。気性の激しい女性なんだ」


 初めてのパターンだった。

 これはもしかしたらメイテルが頑張ればいけるかも知れない。


「都合が良い事を言っているのは分かっている。分かっているんだが、もし可能なら僕がこの問題を解決するのを待ってもらえないだろうか」


 きた。

 メイテルは思わず拳を握り締めて天に突き上げるところだった。主に喜びの表現として。


「勿論です。メイテルはいつまでもダント様をお待ち申し上げております」

「スティーユ嬢……ありがとう。君が学園を卒業するまでには必ず」

「いいえ。正直に打ち明けて下さってありがとうございます」

「これからは演技が必要となるでしょう。ですが、僕は……」

「ダント様!」


 メイテルではない。今ダントを呼んだのはメイテルではない。


「これは、これは……一体どういうことですの!?」

「ビ、ビビアナ嬢……」

「ダント様、私は大丈夫です。演技、演技ですよ」

「あ、ああ。そうだ、しっかりせねば」

「酷いわ! 酷いわダント様……貴方が言うから、あたくし、あたくし……」

「待ってくれ。スティーユ嬢には手を出さな」

「隣国まで行って正しい甚振り方を学んで参りましたのに!!」

「い、で、くれ…………え?」

「えっ」


 メイテルは混乱した。

 今、なんて、言った? このお嬢様、今、なんと?

 い た ぶ り か た !?


「え……ま、まさか……」

「ええ、そう! あたくしはこの二年、貴方好みとなる為に厳しい修行を重ね『グレート・サービス』の称号を得ましたのよ!!」

「まさか僅か二年でG・Sの称号を!? そんな、まさか!」


 なんだそれは。待ってほしい。なんだそれは。なんなんだそれは。


「縄の縛り方から鞭の振るい方、程良い温度の蝋燭の作り方までばっちりですわ!」

「蝋燭まで手作り出来るだと!? なんて素晴らしいんだっ!!」


 凄い! 全く付いていけないしさっぱり意味が分からないけど素人が近寄っちゃいけない事だけは強制的に思い知らされた! 怖い!


「あの! 私は帰りますわ! それからダント様。私ではビビアナ様のようにはなれません。先程のお話、正式にお受け致します。婚約に向けたお話は無かった事に。演技は無しです。本気で!!」

「すまないスティーユ嬢。……ビビアナ嬢は理想なんだ」

「理想との出会い、おめでとうございます!」


 止めてくれ語らないでくれ頼むから。素人は決して耳にして良い話ではない気がする。


「あ、あら? 良いのかしら。あたくし、踏み方で勝敗をと」

「良いのです良いのです良いのです良いのです良いのです!! 良いのです! お幸せに!」

「踏み方……だと?」

「ええ。靴選びから始めようと思っておりますの。ピンヒールは有名ですが、あたくしとしてはやはりここは」

「お幸せにさようなら!!」


 なんだ、踏み方って。靴選びって。




 ダント男爵子息にフラれて数日。他人の性癖をバラすわけにはいかないのでいつものように令嬢の皆さんに愚痴る事も出来ず、悶々としながら落ち込んでいたある日。

 少ないお小遣いを使い尽くして買ったデザートをトレーに乗せ、学生用のオープンガーデンの中でも人気の無い場所へメイテルは向っていた。ヤケ食いである。


 いつになったらメイテルを唯一にしてくれる男性が現れるのだろうか。減る。減っている。確実に減ってきている。心が。

 メイテルの心はすり減ってもうズタボロだ。


 それにしてもあれは何だったのだろうか。どういう世界なのか。いや、考えてはいけない。……でも気になる。

 そんな事を考えながら人気の無い場所へ人気の無い場所へと向かっていると、目的地に辿り着いた瞬間に転けた。それはそれはもう見事に転けた。自分の右足に自分の左足が引っ掛かって転けた。


 でも誰もいない。それはそうだ。人気の無い場所を求めて来たのだから。

 誰もいない。メイテルを助けてくれる人はどこにもいない。

 無様だった。

 加害者は自分。被害者も自分。自分自分で一人加虐被虐か。あの二人と違って今のメイテルは一人二役だ。虚しい。痛い。膝が痛い。心も痛い。


「どうしました?」

「…………」


 一人だと思って油断して泣いていたら声をかけられてしまった。気不味くて恥ずかしい。


「お怪我をされていますね。そこのベンチまで歩けますか? ゆっくりで良いですからね。すぐに救急セットをお持ち致します。ここで休んでいてください」


 めちゃめちゃ紳士だった。制服を着ていたので同じ生徒であるとは分かったが、それにしては所作が奇麗で判断も行動も素早い。凄い。

 泣いているメイテルを首尾よく座らせるとハンカチを貸してくれ、今のメイテルの全財産を注ぎ込んだデザートの残骸をさっと拾うとすぐに何処かへ行ってしまった。言葉通り救急セットを取りに行ってくれたのだろう。

 さようならデザート達よ。メイテルはお前達がメイテルの胃に納まるのを期待していた。けれどその期待をメイテル自身が潰した。

 涙が止まらない。


「お待たせ致しました。……痛そうですね。お怪我は膝ですか? 女性を相手に申し訳無いのですが治療させて頂いても良いでしょうか?」


 先程の紳士がもう戻って来た。

 借りたハンカチに顔を埋めたまま頷くメイテルをそのままに、そっと膝の怪我の治療をしてくれた。なるべく脚を晒さないように、見ないようにと気遣ってくれている。誰もいないのに。

 二人の他誰もいない。救急セットを扱う音が静かな空間に僅かに響くだけだ。


「はい。終わりましたよ。痛みますか?」

「……少し。でも、大丈夫です。何から何までありがとうございます」

「恐縮です。お好みか分かりませんがケーキをお持ちしました。召し上がって下さい」


 差し出されたのはメイテルでは購入不可能なケーキの数々。思わず涎が溢れた。


「いえ、あの……ここまでは流石に……」

「恐れ入りますが、スティーユ子爵家のメイテル嬢ですよね?」

「は……い、そうです」

「先日発表された小論文、拝読しました。もし良ければ話をさせて頂きたいのです。ケーキはその賄賂ということで」

「賄賂って」


 メイテルは思わず笑ってしまった。

 小論文を誰かが読んでメイテルと話したいと思ってくれた事も、ケーキを賄賂だと言ってしまうその言葉選びも、何だか嬉しくておもしろくて自然と笑ってしまった。

 まだ笑えた自分に安堵する。


「はい、分かりました。では今回はお言葉に甘えさせて頂きます。ですが、必ずお礼はさせて下さい」

「お話をさせて頂けるのでしたら、是非」


 それからメイテルはケーキを堪能しつつ、治療してくれた彼、シシアード侯爵子息とメイテルの研究テーマについて議論を戦わせた。

 ずばりテーマは『女性の社会進出について』である。男性側の事情は一切考慮していない。そこまで考えていられるか。

 シシアードが侯爵家の人だと知ったメイテルは飛び上がって驚き、危うくまたケーキを無駄にするところだった。シシアードが支えてくれて本当に良かったと安堵している。

 同じ侯爵令息でもスティーブとは大違いだった。



 それからメイテルはたまにシシアード侯爵令息と話をするようになった。

 人気の無い場所は避けている。論文を広げてあれやこれや話す二人を見て、周囲は浮いた話よりも間もなくやってくる進級・卒業試験を思い浮かべそっと目を反らした。ちょっと今はまだテストの事とか忘れていたい。その内やる。明日とかから考える。その明日がいつ来るかまでは考えられない。


 何度もシシアードと話す内にメイテルは我慢していた愚痴を次第に垂れ流していた。

 しんどい。婚活の傍ら学園に通うのももう本当にしんどい。

 でも通わなければ馬鹿にされる。今時は女性だってある程度は学歴が無ければ底辺とか言われるのだ。言葉が悪過ぎる。言い始めた奴は誰だ。踏み潰したい。


 最初にフラれたライルの話から、二人目のスティーブ、三人目の子爵令息、四人目の商家の嫡男、五人目の騎士、六人目のワイマール、七人目のホーウェン、そして八人目のダント……については詳しくは話せなかったが概要をつらつらと話した。そんな事まで話してしまった。

 その頃には二人ともだいぶ打ち解けていたから油断したのだろうか。メイテルは普段なら口にしないような事まで話していた。



 メイテルは恨んでいる。女性の社会進出を推進したのは誰だ。そいつには地獄を味わってほしいと常々思っている。

 致死率が高いのに妊娠して子供を生んで家を守って夫を立てて、その上で働かねばならないと本気で言ったのだろうか。なんで? の、一言だ。


 もっと医療が発達し定期的に検査を受けられるようになり、母子共に死亡率が今よりもっと低くなって、子育て環境もせめてもう少し楽になってから。まずはそれからだと思っている。スタート地点はまずそこだ。

 それから働きたい人だけ働けば良いのではないか。なんでそう外で働きたいと思っていない人まで、女性ってだけでまとめて一括にしようとするのか納得できない。働かなければ怠け者扱いするつもりだろうか。

 全員揃って右向け右か。軍隊か。皆揃って、皆揃えてってか。腹立つ。


「そうかな? スタート地点としてはそこに男性側の意識も必要だと思います」

「男性の意識?」

「そう。貴女のテーマでは敢えて省いていますが、絶対に外せない条件だと思う。そもそも、どうして幼い子がいる女性が外へ働きに出なければならないのか。その原因は夫だ。夫である男性に妻子を養うだけの稼ぎがあり、肉体的にも精神的にも暴力を振るわず、妻の意思を尊重できれば多くの場合その必要はない。

 それでも働きたい女性がいるのなら、それはその家の自由だ。夫婦で話し合えばいい。逆でもいい。妻が働きに出て夫が子育てをしてもいい。互いに価値観の摺り合わせればいい。だが、どれも不可能だ。何故か。男に受け入れる度量も柔軟さも無いからだ」


 厳しい。

 シシアードの意見は男性に厳しいものだった。

 メイテルとしては、そこに世間の余計な口出しも加えてほしいと思う。世間はすぐに攻撃する。自分と少しでも異なるとすぐに論って攻撃してくる。

 その攻撃に晒されたくなくて皆我慢するのだ。現状で耐える。耐えてしまう。


「シシアード様のご意見は男性に辛辣ですね。ご自身も男性でしょう?」

「辛辣……かなあ。うちの父親、クソでさ。子育ては女の仕事とか言うくせに子供は自分を尊敬するものだと思ってるんだよね。誰が尊敬するか」

「お父様が大嫌いだというのは物凄く伝わってきました」


 綺麗な顔からとんでもない言葉が飛び出して来た。


「大嫌いです。幸い母上は『子育ては私の仕事ではなくて喜びです』と言ってくれている素晴らしい人です。それなのにあれは無い。あの男は無い。だから世の男性陣はもっと女性に感謝して……いや、せめて自分の伴侶くらいは全身全霊で大切にした方が良いと。うん」

「それですよ。女性が少しでも楽しようとすると烈火の如く否定するの、何なんですか。あれ。何なんですか? とにかくひたすらに苦労しなければ気が済まないんですかね。どうしてそこまで自分の伴侶が苦労しないと気が済まないの? 楽をしたら手抜きで、手抜きは愛情が無いって方程式を組み立てたの誰でしょう?」


 少し前に自動で衣類を洗ってくれる道具が開発された。洗濯という重労働からの解放だ。

 しかしこぞって反対する勢力がいた。

 今まで出来ていたんだからこのままで良い、余計な金を使いたくないという男性陣。それから、自分達はちゃんと手で洗っていたという主婦歴の長い女性達だ。

 幸せにすると誓って結婚した相手が楽になるのを余計だと言う。自分が苦労したからと言って自分より楽をするのを許せないと言う。

 この世は地獄か。


「手間暇かけた愛情しか信じられないとか、条件付きで無ければ生きていけない人種だよね。人類を一種類でまとめないでほしいんだ。そう言った輩とは共存したくないからひとまとめにしないでほしい。分けてくれ。チンパンジーとゴリラみたいに」


 なんだ、その例えは。

 意味が分からなくて、でも何となく分かるような気もしてメイテルは思わず笑った。

 ダントもビビアナも異なる人類だった。そう思えば心のしこりも小さくなってあまり気にならなくなった気がする。


「だから僕はまだ見ぬ妻を全力で大事にすると決めている。生涯愛する妻に愛してもらえるよう努力し続けると決めている。父のように浮気なんてしない」

「子種のばら撒きは野糞の垂れ流しと同じだと思っております」

「あっはっはっは! いやー、凄い台詞だ。あーおかしい。こんなに笑ったの久しぶり。ありがとう、スティーユ嬢。こんな話を最後までちゃんと聞いてくれて。ここまで話が合う人も珍しいよ」

「こちらこそ、ありがとうございます。婚活の良い息抜きになりましたわ」

「一瞬で淑女になった、凄い。野糞とか言っていたのに」

「あらまあ、なんのことかしら。おほほほほ。さて、では楽しい一時をありがとうございました。私、これからお見合い相手とお食事ですので失礼致しますわね」

「……は?」

「ん?」


 瞬間、どこからともなく冷気が漂って来てメイテルは身震いした。少し暖かくなってきた気がしたがまだ冷える。今日はコートが必要かも知れない。


「お見合い相手? 誰かと婚約を……?」

「フラれなければ」

「フラれなければ?」

「十三の頃から今まで八回、婚約まで辿り着くことなくフラれております」

「はっ……ち、かい……」

「今回の方にフラれたら九回になりますね。毎回毎回、何度かお会いして多少なりとも仲良くなってからフラれるのです。本当に止めて頂きたい。本当に。切実に」

「それは、いや……なんと言っていいものやら」

「お気になさらず。今回の方は今日初めて会うのです。大丈夫。今度だって誠実に向き合ってみせます」






『ごめんなさい。この話は無かった事にして下さい』


 待ち合わせ場所へ向かうと婚約を打診してきた筈の子爵家の令息はおらず、代わりにそんな手紙を託されたレターボーイが立っていた。

 手紙を受け取ってレターボーイにはチップを渡して帰し、もしかして何かプレゼントでもあるのかしらと開いてみたらこれだ。メイテルはその場に崩れ落ちなかった自分を褒めてやりたかった。


 終わった。フラれた。またフラれた。

 今度は会うことなくフラれた。理由を聞くことすらも出来ないフラれ方だった。

 九回目だ。次で遂に大台だ。

 もう無理。

 メイテルはしばらく婚活は休もうと心に決めて一人とぼとぼと帰宅した。


 けれど、少し歩いた所で皇帝陛下もお気に入りという茶葉専門店からちょうど荷物を抱えたシシアードが出て来て顔を合わせ、思わず涙ぐんでしまって慌てた彼が馬車で家まで送ってくれた。優しい。

 数時間前にお見合いだと言ったのにもうフラれた話も会う事すら無くフラれた話も遂に出来なかったけれど、惨めさは感じないくらいに気遣ってくれてまた泣けた。




 次の日からメイテルは勉学の鬼と化した。

 ケーキの食べ過ぎで少し肥えた気もするのでちょうどいい。頭を使おう。痩せるまで頭を使いまくろうと決めた。

 なるほど。

 結婚をせずに仕事に生きる女性にはこういう理由もあるのかも知れない。結婚はしたくとも出来ない者もいる。それなら初めから女性の社会進出のハードルが低ければ選択肢もより広まるだろう。新発見だ。

 学園卒業後すぐに結婚せずとも働いて、職場で結婚相手を見付けるなり一人で生きてゆく覚悟をするなりしても良い。

 幸い卒業まであと一年ある。今から卒業論文に取りかかれば良いものが書けそうだ。


 大量の資料や本を持って歩きながら考え事をしていたメイテルは、それはそれは見事に壁とぶつかった。ねえ、あなた堅いのだからちょっと避けてくれないかしら、壁。


「ぶっは!」


 見られていた。物凄い笑われた。


「ライル……」

「ははっ! メイテル、お前、何やってふははっ!」


 相変わらず失礼な奴である。池に沈めばいいのに。ここに穴が無くて良かったな、ライル。あったらメイテルはこいつを埋めていた可能性が高い。


「お前さ、お前、またフラれたんだってな」


 何故知っている。そしてどれの事を言っている。何故わざわざこの場でそれを言うんだ。しかも笑いながら。

 人を馬鹿にして楽しめる人間は脳構造からして腐ってると思う。


「やっぱり俺がもらってやろうか? ……なーんてな! 期待したか? 期待したか? 残念だったな〜〜」


 性根が腐ってやがる。期待なんてするわけがない。お断りだ。

 ライルに嫁ぐくらいならメイテルは平民にでもなって一人で生きていくし、何なら修道院に入るか孤児院に就職する。就職先として既にいくつかピックアップしてあるんだ、なめんな。


「なんだ、ライル。やっぱこいつのこと好きなんじゃん!」

「んなわけねーだろ、とっくに振ったって」

「テレるなテレるな」

「ほらほらいけよ、いけるって」


 どこに行くつもりなのか知らないけどどいてほしい。こいつらだけで何やら楽しそうなのは良いが、メイテルは関係無いし大量の荷物を持っているのだ。そろそろ腕が痛い。


「おいおい。逃げんなって」

「お! 通すな通すな! ほら、ライル。早く捕まえろって」

「やー、もう無いって。こんなブス、ありえねーから」


 メイテルだってこんな性悪お断りである。


「スティーユ嬢?」


 奇跡の救世主シシアード様が通りかかってくれた。メイテルは思わず期待の目を向けた。どうにか助けてくれないだろうか。


「あー、僕の大好きなスティーユ嬢が他の男に絡まれてるー! 嫉妬で狂いそう〜〜。でも仕方ない。だってスティーユ嬢はとても愛らしいからー」


 酷い棒読みである。それしか手は無かったのかと問い詰めたい所存。

 シシアードにも出来ない事があったのかと場違いな事をぼんやりと考えた。ぶつけた額が凄く痛い。


「いやあ、僕が憧れて止まないスティーユ嬢にこんな所で会えて嬉しい限りだ。今日もお綺麗で可愛らしい。控えめに言って結婚したい」

「どうしたんですか。気は確かですか」

「おいで」


 ちょいちょいとメイテルを手招きしている。

 男の嫌な所を詰め込んで共食いさせて蠱毒にしたような男達から離れられるので、メイテルは喜んで招かれた。ライルとその友人達には男の良い所を詰め込んだようなシシアードを見習ってほしい。


「なんだ、お前。なんだよ」

「ルートオーリ・シシアードですけど何か?」

「シ、シシアードって……」

「皇子殿下の……?」

「呼んだ?」

「えっ!?」


 まさかの皇子殿下のご登場に一瞬で場の空気が引き締まった。

 皇子殿下お一人ではない。その侍従や護衛である高位貴族達も揃い踏みだ。壮観過ぎて夢なのではないかとすら思えた。

 そう言えば同じ学園に通っていた。

 あまりにも遠い世界の人過ぎて、接点が無いにも程があるので完全に忘れていた。いきなり現実に現れてしまった。夜会で壇上にいらっしゃるお姿しか拝謁したことが無いのに間近にいて同じ大地を踏み締めている。どうしよう。


「なに。呼ばれた?」

「いいえ、話題に出ただけですよ」

「そう。そちらのご令嬢は?」

「メイテル・スティーユ嬢です」

「ああ、ルートオーリが前に話していた子爵家のご令嬢か。じゃあ今日は直帰でいい」

「ありがとうございます」

「じゃあね、スティーユ嬢」

「お、恐れ入ります」


 まさかお声を掛けて頂けるとは露ほども思っていなかったメイテルは震えてろくに言葉も紡げなかった。必死に淑女の礼を形だけはとったが、緊張のあまりとても無様な礼だ。

 けれどアレよりはマシだ。

 ライル達は阿呆のようにぽかんと口を開いて呆然とするばかりで頭の一つも下げられていない。不敬でしょっぴかれろ。



「これは何処へ?」


 問われて気付いた。持っていた筈の資料がいつの間にか全てメイテルの手を離れている。

 何故シシアードが持っているんだ。いつの間に。


「図書室へ返却に向かう所でしたの……」

「ご一緒します。行こうか」

「ありがとうございます。……あの、申し訳ないので一冊くらい持たせて下さい」

「では、一冊」


 シシアードは本当に一冊だけ持たせてくれた。

 もう少し持たせてはもらえないものかと彼の周囲をうろちょろするが、腕力の差と脚の長さの違いのせいで簡単に避けられる。悔しい。

 挙げ句笑われた。いい笑顔だなあ、おい。

 けれど先程より罪悪感は減った。その分、改めて有難さを深く感じる。重い本を持ってくれただけではなく、ライル達から引き離してくれた。彼らの言葉で傷付けられたところを言葉で癒やしてくれた。


「あの、皇子殿下とはどういったご関係かと聞いても大丈夫ですか?」

「侍従……かな。まだ一応。母が皇后陛下の親戚なんだ。その御縁で幼い頃からお仕えしているだけだよ」

「なんてこと……。栄えあるお仕事ですね」

「どうだろう。苦労続きだよ」

「えっ」

「しー」


 内緒だからねと言ってシシアードは人差し指を口に当てて子供のような笑みを浮かべた。


「末っ子だから甘ったれで、未だに『んぴゃー』とか言うんだ」

「まあ。あの皇子殿下が? 殿下をそのように語れるなんて、余程仲が良いのですね」

「悪いとお仕え出来ないからね。見た目だけは成長して皇帝陛下に似てきているけれど、本人としては皇太子殿下に憧れていて真似ているんだよ」

「なるほど」

「なるほど?」

「皇太子殿下とご兄弟でしたら憧れてしまうのも分かります。およそ欠点がありませんもの」

「…………ソウデスネ」


 聞いても構わない程度の皇家のお話を聞かせてもらってご機嫌のメイテルだった。



 だが、その上機嫌も長くは続かなかった。

 アホのライルが無いこと無いこと吹聴して回り、翌日にはメイテルは好奇の目で見られる事となったからだ。最悪である。

 ライル、あいつ、真のクズだ。

 シシアードとメイテルが付き合っているだなんて、そんな嬉しい噂だけならまだいい。けれど、シシアードがいるのにメイテルは見合いをしまくっているという噂は本当に勘弁してほしい。


「スティーユ嬢」

「シシアード様……」

「ごめん。変な噂が流れていると聞いた。何か不都合は?」

「……少し周囲の目が」


 最早苦笑するしか無い。


「昨日君といた子爵家の……ライル殿だったね。あれがやった証拠は掴んだから、すぐに報復する。安心して」

「証拠なんて掴めるものなのですか!? 報復? え、はっや……」


 仕事が早過ぎる。


「これくらい出来ないと殿下の側近は務まらないんだよ」

「側近? 侍従なのでは……?」

「家庭を持つなら四六時中呼び出される可能性があって、泊まり込みも多い身の周りの世話をする侍従ではなくて、ある程度は働く時間の定まった側近にならないかと打診されているんだ。そろそろ皇子殿下も執務を本格的にされる歳だからと」

「お、おめでとうございます。昇進とご結婚ですか。凄いですね」


 頭を鈍器でなぐられたような衝撃だった。

 あんなに優しくされて、あんな助け方をされて、メイテルは簡単に心を奪われてしまっていたのに。シシアードはきちんと自分の道を歩んでいる。


「昇進は卒業してから。結婚は……相手が頷いてくれたら、です。まだ告白も出来ていない」

「そうなのですか? えっと、頑張ってくださいね」

「ありがとう。では、せっかく追い風となるような噂も流れているし君に応援してもらえたし、うん。やるか」

「これからですか?」

「うん。昨日、婚約申し込みの書簡は出したから今頃家には届いてご両親はご存知だと思う。けれど、貴女には僕から直接言いたい」

「貴女……?」


 後ろを振り向く。誰もいない。もしかしてシシアードはメイテルに見えない誰かが見えているのか。

 急な心霊話は止めてほしい。メイテルはちょっと青褪めた。


「何が視えているのですか……?」

「メイテル・スティーユ、貴女です」

「え、私!? え、え、え」

「四年前、あの子爵家の男に絡まれても毅然と対応していた貴女を見掛けてから気になっていました」


 ライルにはやたらと学園で絡まれていた事があった。最初の婚約打診の頃だ。振ったくせにやたらと絡んでくるので口頭でこてんぱんにした。

 見られていたのか。なんてことだ。


「スティーブの愚行の時も見ていた。見ている事しか出来なかったけれど、二度と君に近付かないよう言い含めてある。その次の子爵家の男の時も、商家の跡継ぎや騎士の時も……ワイマールの時も。同じ店内に居た。あの日、せめてと君を店外へエスコートしたのは僕だ」


 なんてことだ。驚きの事実の連続だった。ちょっと言語理解が追い付かない。


「その次のホーウェンも同じ店内に居た。ダントの時は隣のベンチに居た。何故か殿下にお使いを頼まれて城下に出ると君の修羅場と遭遇する」

「偶然なのですか?」

「うん。誓って後を追ったり見掛けたからといって近付いた訳でもない。いつも必ず君達の方が後から僕の近くに来るんだ」


 それはなんていう嫌がらせだろう。少し守護神を恨みたくなった。


「地獄だった。僕は想いを告げる事すら出来ないのに、他の男が君の手を離す場面を見せられる。けれど、希望でもあった。昨日君が絡まれていた時に僕が言った言葉には嘘も冗談も何一つとしてない。全て本心だ。あの時に言う予定では無かったからかなり棒読みになっていた自覚はあるけれど、嘘偽り無い本心だ」

「あれが!? だっ、ちょっ、待って下さい。ちょっと待って……待って下さいちょっと……」


 だって凄い事を言われた。凄まじい口説き文句の数々だった。棒読みでもときめいたくらいには素敵な言葉達だったのに、それが全て本心だったなんて。


「皇家の事情も落ち着いた。好きな者と家庭を持てと殿下からも許可を頂けた。やっと君に想いを告げられる。浮かれて少しずつ仲良くなろうとしていたらアドマ……先日君がフラれたという子爵家の子息に知られて、結果的に怖じ気付いたアドマに君はまた傷付けられた。本当に申し訳ない。……ごめんなさい」

「いえ、あれは……そういう事情でしたらあちらが腰が引けただけと言いますか」

「うん。腰抜けで助かった」

「腰抜け」


 どうやらアドマ子爵子息は、シシアードがメイテルに好意を持っている事に婚約を申し込んでから気付き、皇子殿下の側近候補に喧嘩を売ったと思われたくなくてレターボーイに断りの手紙を託したらしい。

 直接会って正直に言う勇気すら無かったのか。


「メイテル・スティーユ嬢」


 なんて。なんて優しい声で呼ぶのだろうか。


「はい」

「四年間、貴女が好きでした。生涯に渡って大切にします。僕と共に歩んでほしい」


 生まれてきてこれまで、こんなにも胸がときめいた事があっただろうか。


「……私、貴方に言っていない事がありましたわ」

「なに?」

「以前、貴方は世の男性陣は自分の伴侶を大切にすべきだと仰いましたね」

「ああ、そうだね」

「私は……私も、私の全てで私の夫を大切にしたいです。大切に守られるばかりではなく、尊重されるばかりではなく、先回りして願いを叶えてもらうばかりではなくて、手を取り合って共に歩んでいきたいのです。大切にしたい。尊重し合いたい。夫にだって楽をして欲しいし、たまには手を抜かれたって構わない。たくさん、たくさん話をして笑い合いたいわ」

「メイテル……」

「はい」

「理想以上の言葉をありがとう」

「理想論です。続かないかも知れません。でも、始めたい。挑戦する機会がほしいのです」


 本当に手を抜かれたら悲しくて泣いてしまうかも知れない。何か勘違いをして話し合うまでもなく拒絶してしまうかも知れない。

 でも、そんな後ろ向きな事ばかりを考えて向き合う前に諦めたくない。


「うん。僕と婚約してくれますか?」

「もちろんです! 喜んで」


 メイテル・スティーユが婚約できるまで四年かかった。その間に九回もフラれた。

 けれどもうメイテルは過去の九人を振り返らない。

 だってもうメイテルは目の前の彼に夢中だ。

 彼が努力なんてしなくてももう彼を愛しているから、だから愛し愛されてメイテルは今日から幸せ。




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