妹と母
「今日は、森に入って少し経ったときから、なんだか違和感をおぼえていたんです。第六感って言うのかな。それが警鐘を鳴らしているみたいな感じがして。まさか、盗賊と出くわすことになるなんて思ってもいませんでした」
先ほどの出来事をテトが振り返っていると、別の声が聞こえてきた。アレッタが窓の方向を見ると、窓枠に一羽の小鳥が止まっているのが見えた。
「テト、妹を紹介するわね」
「妹?」
テトが訊き返した直後、客間の扉が勢いよく開いた。
「お姉さま!」
ふわりと、薄いピンク色の髪を波打たせ、妹のフィルミナが飛び込んできた。
「聞きましたよ。お姉さまとソルガナン殿下との婚約が破棄され、た、って」
彼女の目が、部屋の奥に座るテトに吸い寄せられる。目を輝かせ、「そちらの美しい殿方はどなた?」と訊いてくる。わかりやすい、とアレッタは思った。
「彼はアレッタお嬢様の命をお救いくださった冒険者の方です」キースが説明をした。
「冒険者?」
「テトと申します」腰を上げたテトが、フィルミナに一礼した。
フィルミナが怪訝そうにアレッタを見る。命を救ったと聞かされて、なにがあったのかと好奇心をもたげさせたのだろう。ここで隠したところでどうせすぐにばれると考えたアレッタは、盗賊に襲われたことを包み隠さずに話す。見る見るうちに、フィルミナの目が見開かれていった。
「まあ、お姉さま、そんなことがあったのね。なんと恐ろしい」
口元に手をやり、「お身体のほうは大丈夫なの?」と労ってくるが、それが本心からの言葉でないことぐらい、アレッタにはお見通しだった。
「どこも怪我していないわ。暴力を振るわれそうになる前に、テトが助けてくれたから」
「でも、どうしてその冒険者がこの家に? 彼は平民でしょう?」
爵位を持たないテトはこの家にふさわくしない、とフィルミナは暗に言う。
「わたしの命の恩人よ。お礼をするのが当然でしょう。彼が平民だろうと貴族だろうと関係ないわ」
なにかを考え込んでいたフィルミナだったが、やがてぱんと両手のひらを叩く。妹が見せた可憐な笑みに、アレッタは嫌な予感をおぼえる。
「ねえ、テト。あなた、わたしの下で働かない? 平民風情にわたしの世話をさせるなんて言語道断だけど、あなたほどのきれいな顔だったら、特別に許してあげてもいいわ」
「フィルミナ」思わず声が尖る。「彼はわたしの客人よ。おかしなことは言わないで」
「本来なら馬小屋で野垂れ死ぬような平民を、この屋敷に住まわせてあげようって言うのよ。彼にとっては泣いて喜ぶほどのお誘いでしょう? どこがおかしなことなの?」
悪びれた様子もなく、こてんと首を傾げるフィルミナ。黙っていれば花も恥じらう乙女のようだが、中身はまるで違う。彼女は差別意識が激しく、自分よりも地位の低いものを平気で見下す傾向があった。おまけに、それを当然だと思っているのだからなおのことたちが悪い。
呆然とするアレッタが部屋を見まわせば、テトだけではなくキースも顔を引きつらせていた。
――前はもう少し分別がついていたと思ったのに、まさかここまでひどくなっているなんて。
しばらく見ないうちに、悪い方向へ成長してしまっていたようだ。
「フィルミナ、買い物から帰ったばかりなんでしょう? 荷物の整理とかはしなくていいのかしら」
でも、とフィルミナはテトを一瞥する。「まだ彼から返事を聞いていないわ」
「テトは冒険者なの。残念だけど、この家で働くことはできないわ」
「それはお姉さまの意見――」
「いいえ。実はあなたが来る前に、わたしからも訊いてみたのよ。この家で働いてみないかって」アレッタは咄嗟に口から出まかせを言う。「でも、冒険者として大成したいという彼の気持ちは固いらしくて、丁重に断られたわ。だからあきらめなさい。いくら貴族だからって、他人の意思を強引に捻じ曲げることは許されないわ」
テトをこの家に招いたのは自分だ。だからこそ、不始末は自分が処理をしなければならない。
フィルミナはじっとアレッタを見つめていたが、やがてぷいと顔をそむける。
「あーあ、いい掘り出しものを見つけたと思ったんだけどなあ」
テトをもの扱いしたフィルミナは、侍女をともなってさっさと部屋を出ていった。彼女の姿が見えなくなり、嫌な雰囲気が若干和らぐ。
「ごめんなさい。妹が失礼なことを」
「気にしていませんよ」すっかり落ち着きを取り戻したテトが、朗らかに笑う。「ああいう態度をとられることには、僕も慣れていますから」
彼の声は穏やかで、内心どう思っているかは読み取れなかった。大人だわ、とアレッタは感心する。
このままテトを長居させても、あの妹に場を引っ掻き回されるだけだろう。謝礼金を渡してすぐに帰ってもらうほうが得策だと考えた。
ところが間の悪いことに、今度は母親であるエミリーゼがやって来てしまった。フィルミナと同じ薄いピンク色の髪が、視界に入る。
「お母様」
「あらあら、驚いたわ。殿下との婚約を破棄されて、自分の不甲斐なさに打ちひしがれているのかと思ったら、まさかもう別の男に手を出しているだなんて」
粘り気の強い声が、アレッタに纏わりつく。
「誤解を招くような言い方はやめてください。彼はわたしを盗賊の魔の手から守ってくれたので、そのお礼をと思い、家に招待しただけです」
本当かしら、と微笑むエミリーゼの目は笑っていない。
「お母様、お客様の前でそのような態度をとるなんて、あまりに失礼なのではありませんか。それでは貴族としての品位を疑われますよ」
売り言葉に買い言葉、これまでにたまった鬱憤も相まって、アレッタはつい強めの口調で言い返してしまう。案の定、エミリーゼの顔がぐにゃりと歪んだ。
「あなたが私に、貴族の品位を説くつもり? 伯爵家令嬢をいじめ倒したあなたが」
「私はそのような行為に手を染めてはおりません」
「嘘おっしゃい。それならどうして殿下との婚約がなくなったのかしら? あなたが無実であるなら、そんなことにはならないはずでしょう」
真実なんて力があればどうとでも捻じ曲げらます、と喉まで出かかった言葉を呑み込む。
父親でさえ聞く耳を持ってくれなかったのだ。この女に無実を訴えたところで、なんの利益も得られない。むしろ、嫌味を言われるだけだ。
――ばかね、わたしったら。感情に流されて余計なことを言ってしまうなんて。
これ以上、テトの前でみっともない姿を見せたくはなかった。こんな不毛な言い合いは、すぐに終わらせるべきだ。
「お母さま、こちらにいらしたのね」
ちょうどそのとき、フィルミナが戻ってくる。どうやらエミリーゼを探していたらしい。
「どうしたの?」
「ちょっとお願いしたいことがあって。あら、お姉さまもまだいたのね。それならちょうどいいわ」フィルミナは笑顔を作ると、エミリーゼのほうを向いた。「ねえお母さま。せっかくの機会だから、そちらにいる冒険者さんを今日一日泊めてあげましょうよ」
思いもよらない提案が妹の口からなされ、アレッタは顔を強張らせた。「なにを言っているの、フィルミナ」
「さっきお姉さまも言ったじゃない、お礼をしたいって。それなら、お金をあげるだけじゃなくて、最高の食事と最高の寝床を用意してあげましょうよ。お姉さまの命の恩人なのだから、それぐらいのもてなしをするべきだわ」
「あなたは平気なの、フィルミナ? 平民がこの家に泊っても」エミリーゼが心配そうに尋ねた。
「ぜんぜん。私は構わないわ。ねえ、いいでしょう?」
「フィルミナがいいなら、私はなにも言わないわ」
平民にまで手を差し伸べるなんてあなたは優しい子ね、とエミリーゼが言う。
使用人たちに指示を出し、それから客間を出て行く二人の姿を、アレッタはただ呆然と見送った。
「どういった風の吹きまわしですかね、あれは」近づいてきたキースが、小声で訊いてくる。「あのフィルミナ様が、あんなことを言い出すなんて」
「狙いはわかっているわ」ちらりとテトを見やる。「食事の席で、彼をバカにするつもりよ」
貴族の食事にはテーブルマナーが求められる。幼いころから身体に叩きこまれたアレッタたちとは異なり、冒険者であるテトには縁がないものだろう。
「並べられた料理を前に慌てる様子を見て、これだから庶民は、と嫌味を投げつけるつもりでしょうね」
ほかにも狙いがあるのかもしれないけど、と心の中で思う。
「うわあ、えげつない」キースが思わずといった様子で素を見せる。
振り返り、謝罪の言葉を口にしようとするアレッタを、テトは手を上げて制した。
「貴族がみんな、アレッタ様みたいな人ばかりでないことはよく知っています。僕は、それを承知でこの屋敷を訪れたんです」
だから謝らないでください、とテトは言う。
「だけど、このままここにいれば、きっとあの二人からひどいことを言われるわ」
「ご心配なく。さっきも申し上げたでしょう? 母から教養を叩きこまれたって」
「テト、もしかしてあなた」
「テーブルマナーぐらい、朝飯前ですよ。冒険者は何でも屋ですから」
冒険者ってすごいんですね、と変に感心するキースに、普通はできないから、と念のため訂正を入れておく。
そして迎えた夕食。テトは宣言通り、完璧とは言えないが、及第点のテーブルマナーを披露してみせた。ナイフとフォークを器用に使い、ステーキを口に運ぶ彼の姿を見たフィルミナとエミリーゼの顔を、アレッタは一生忘れないだろう。ぽかんと口を開けて固まる二人の間抜けな顔を見られただけで、溜飲が少し下がる。
「あなたって優秀なのね」
ジョアンヌに連れられ寝室に向かおうとしていたテトに、アレッタは声をかけた。
「やられっぱなしは僕の信条に反しますから」それに、といたずらっぽく笑う。「せっかくおいしい食事とふかふかのベッドを用意してくれるんです。これを堪能しないわけにはいきませんよ」
爽やかに言い放ち、テトは階段を上がっていった。
意外としたたかね、とアレッタは思った。そこがまた、魅力的だった。