収束
寒々しい牢屋に、靴音が響く。蝋燭の炎が風で揺れ、影が不気味に蠢いた。次第に大きくなる呪詛のような呟き声が、目的地が近づいてきていることを知らせていた。
「こちらになります」
案内役の魔法師に礼を言い、アレッタは牢屋へ一歩近づいた。鉄格子の隙間から中の様子を覗く。
まるでスラムの掘立小屋のような、みすぼらしい一室だった。古びた机と寝台だけが置いてある。
「許さない許さない許さない許さない」
フィルミナが顔を膝にうずめ、ひたすら怨嗟の声を上げていた。美しかったピンク色の髪はすっかり埃で汚れ、かつての可憐な姿は見る影もない。
すっかり変わり果てた妹を目の当たりにし、アレッタは息を呑んだ。彼女に纏わりつく黒い霧を幻視し、思わず足を引く。小石を蹴飛ばしてしまい、小さな音が牢屋に響く。呪詛の声がぴたりとやんだ。フィルミナがいまにも猛然と襲いかかって来るのではないかという恐怖が、アレッタの心に生まれた。
「ご安心ください。魔法により、こちら側の音はあちら側には伝わりません。もしご気分がすぐれないようでしたら、向こう側の音も遮断しますが」
「いえ、けっこうです。お気遣いありがとうございます」
アレッタは込み上げてきた不安を強引に飲み込み、もう一度フィルミナを見た。
妹に恨まれていることは自覚していたけれど、まさか殺そうと思うほどその憎しみが強かったとは想像すらしていなかった。
「ずっとこんな感じなんですね」
はい、と魔法師が答える。
フィルミナは再び恨み言をひたすら繰り返し始めていた。
取り調べはアレッタたちの謁見が終了してから行われた。彼女はそこですべてを自供したという。
「どうやら黒い匣の影響で、精神をやられてしまったようです。簡単な受け答えすらままならない状態が続いております」
彼女の聴取からわかったことといえば、フィルミナがベルベットに黒い匣を渡したのは、アレッタを亡きものにするためという点だけ。それ以上のことは、彼女からはいまだ訊き出せていないそうだ。
「母親から相当あなたの悪口を吹き込まれていたようだね」男の声が聞こえる。
「ヴィルヘレム殿下!」
アレッタと魔法師の声が重なった。どこからともなく現れた第二王子は、鉄格子の中を一瞥した。
「愛する母親から長年に渡って聞かされ続けた言葉は、やがて呪いとなり、彼女の身も心も支配した。結果、あなたへの悪意を無尽蔵に増大させた」
アレッタは嫌な記憶を思い出し、顔をしかめる。フィルミナが拘束されたことを知ったのち、邸宅に戻り、エミリーゼと顔を合わせたときのことだ。
――どうして泥棒猫の子どもがのうのうと戻ってくるの!? あなたがフィルミナを傷つけたから、あの子は壊れてしまったのよ。こうなったのは、ぜんぶあなたのせい。罰せられるべきなのはあなたでしょ、アレッタ!
愛する娘が罪を犯したと知り、エミリーゼは発狂した。呆然と立ち尽くすアレッタに襲いかかり、絞め殺さんばかりに首に手をかけてきた。もしキースたちが助けに入ってくれなければ、手ひどい傷を負ったかもしれない。すっかり醜悪に歪んでしまった母親の顔は、いまでもはっきりと思い出せる。人間のものとは思えない恐ろしさだった。
「よくご存じなんですね、我が家の事情を」記憶に蓋をしたアレッタは、平静を取り繕ってヴィルヘレムを見る。
「頼んでもいないのに裏事情を報告してくれる人たちは、僕の周りに腐るほどいたからね」
公爵家内でのいざこざは、ソルガナン陣営を追い落とそうとしていたヴィルヘレム陣営の貴族たちにとっては恰好のネタだったのだろう。醜い足の引っ張り合いが宮廷内で繰り広げられていたことは、想像に難くない。そうした者たちの妨害がありながらもいまの地位に君臨し続けたヴァイセットの手腕は、さすがと言うべきだった。
「捜査の進捗状況はどうですか」
「順調だ」ヴィルヘレムはこちらを安心させるように微笑を浮かべる。「あの匣をフィルミナ嬢に売りつけた商人の尻尾も、ようやく捕まえた。身柄を拘束するのは時間の問題だよ」
「そうですか。それを聞いて安心しました」
「王都であんな事件を起こした犯人をいつまでも野放しにしておくことは、この国を導く者として絶対に許すことはできないからね。やつを送り込んだ相手国にも、きっちり制裁を受けてもらわないと」
モノクルの奥で、ヴィルヘレムの瞳がぎらりと光る。
「やはり、他国の工作員ですか」
王子は険しい表情で頷く。「この国の心臓部にダメージを与えるため、あなたの妹に目をつけ、王都であのような騒ぎを起こすように仕向けたんだろう。フィルミナ嬢は最近、骨董品を集めることを趣味にしていたと聞く。工作員はそこを利用し、彼女に近づいた。そして、あの匣を与えた。これを使えば気に食わない相手に痛い目を見させれられるなどと言葉巧みに誘導して」
ヴィルヘレムの話に、アレッタの全身がぞわりと粟立った。
「まあ、彼女自身はあの匣を開けず、別の冒険者を巻き込んだようだけど」
間に一人、他人を挟んで自分に火の粉が及ばないようにしようとしたところは、周到な妹らしいと思った。
ヴィルヘレムはもともと、他国から送り込まれた工作員の内偵を独自に進めていたそうだ。その捜査網に引っ掛かった人物がフィルミナと接触したことを偶然知り、今回の彼女の逮捕のきっかけにつながったのだという。
王子が冒険者組合支援の政策を進めていたのも、偏にそういった他国からの攻撃を防ぐためだ。冒険者はもともと、身元のはっきりしない者が多い。複数の大商会がスポンサーに就くことで成り立っている冒険者組合は、国から独立した組織であり、そうした工作員の隠れ蓑になりやすい。だからこそ、ヴィルヘレムは冒険者組合の透明化、ひいては国による監視および統率をとれるようにと目論んだ。
「先見の明がおありなんですね、殿下は」
「お世辞はいい。それよりも、今回はあなたたちに申し訳ないことをしてしまった」
「え?」
「もっとはやくに敵の尻尾をつかめていれば、フィルミナ嬢をこんな状態にさせることも、なにより、あなたたちを危険な目にさらすこともなかった。すまなかった」
「頭をお上げください、ヴィルヘレム殿下」アレッタは目を瞠り、慌てて声を上げた。「責任はこちらにもあります。私たち家族がもっとはやくに妹の異常に気がついていれば、こんなことにはならなかったんです。ですから、殿下のせいではありません」
ヴィルヘレムが下げた頭を戻したのを見て、アレッタはほっと安堵する。
「ひとつ、うかがってもよろしいですか」
「なんだい?」
「私たちの処遇です」
王都で一般人を巻き込む大規模な襲撃事件を引き起こした実行犯の家族ともなれば、普通は死罪となってもおかしくはない。ヴィルヘレムが真相を告げたとき、ヴァイセットの顔から表情がごっそりと抜け落ちていたのも、身内から犯罪者が出たのだから当然の反応だ。アレッタも、あのときは生きた心地がしなかった。しかし、自分たちはこうしてまだ生きている。ヴァイセットは宰相の地位からは外されてしまったが、宮廷で働き続けることが認められている。エミリーゼも命だけは助かる予定だ。捜査に一区切りつき次第、領地へと戻され、そこで一生を暮らすことが命じられることになるだろうと聞いている。通常からすると、ありえない好待遇だった。
「不満か」
「いえ、そういうわけでは。ただ、本当にこれでよいのかと」アレッタは顔を伏せた。
「異母姉妹のうち、片や怪物を解き放った大罪人、片やその怪物を滅ぼし、かの伝説の大精霊と契約を結んだ救国の聖女。我々も悩んだよ。無罪放免にするわけにはいかないし、かといって国を救った英雄を処刑するわけにもいかない。そこで、その両方のバランスをとることにした。筋書きはこうだ。公爵家の娘が犯した罪を、その家族が命を賭けて止めようとした。うまく脚色すればよい美談になる。一族郎党犯罪人として斬首刑、という結果よりも、はるかに民衆受けするストーリーだ。そう思わないかい?」
「それは、まあ……」
アレッタは言葉を濁した。全面的に肯定するのは気が引ける。
「それがこの国の利益に繋がるということでしたら、私からはなにも申し上げることはございません。このご恩は決して忘れず、今後も国政に身を尽くしていきます」
「うん、それでいい。あなたたち親子が、この国のために身を粉にして働いてくれていたことは十分知っている。そんな優秀な人物を失うわけにはいかない。逆境に屈することなく、あなたたちには強く生きてほしい」
また会おう、と言い、ヴィルヘレムは身を翻した。石畳を踏む革靴の音が聞こえなくなるまで、アレッタは頭を下げ続けた。




