痛恨の一撃
馬車が王城にたどり着いた。降車したアレッタは、兵士に案内されながら城内を進む。
床には赤い絨毯が敷かれていた。上質な素材で作られたそれは、上を歩く者の足音を吸収し、廊下を静謐な雰囲気で満たす。壁には絵画や石膏で作られた像が飾られ、天井からはシャンデリアが吊るされていた。まるでこの国の富を象徴しているかのような豪奢な内装だった。
アレッタの隣を歩くテトが、興味深そうにきょろきょろとあたりを見回す。
彼はいま、幼い子どもの姿をしていた。大精霊ともなると、身体を自由に変えられるらしい。髪の色は黒くなっており、これでは誰が見てもテトだとはわからないだろう。
長い廊下の先に、重厚な扉が見えてくる。その向こうが、謁見の間だ。アレッタはふうと深呼吸をして硬くなった顔をほぐそうとしたが、うまくいかなかった。緊張感を拭えないまま、頭を下げ、謁見の間へ入る。真紅の絨毯を静かに歩き、しばらく進んだところで膝をつく。
「面を上げよ」
国王の許しを得て、アレッタは顔を上げた。
今年で六十になると聞く国王の風貌は、冬の寒空の下で佇む枯れ木を思わせた。瞳には微かな光しか灯っておらず、頬は痩せこけ、肌に艶はない。対立を深める二つの派閥の対応に苦慮し、心労を重ねているのだろうとアレッタは推測した。
玉座の傍らには、ソルガナンとヴィルヘレムが立っていた。さらに、少し離れたところでは、ヴァイセットをはじめこの国の重鎮たちが一堂に顔をそろえている。
シャーリーの姿を認め、アレッタは目を瞬かせた。どうしてここに。
王が言葉を発する。
「アレッタ・ルド・オルテンシア。此度のそなたの働き、実に大義であった。そなたがいなければ、何百、何千という無辜の民が犠牲になったことだろう」飾り立てられた言葉が、長々と続けられる。「そなたは、紛れもないこの国の英雄だ」
英雄だなんて大袈裟な。アレッタは眉を顰めそうになった。
「褒めて遣わす」
「身に余るお言葉を賜り、恐悦至極に存じます」
アレッタは恭しく首を垂れた。
さて、と国王が髭を撫でた。謁見の間の空気が微かに変わるのを、アレッタは肌で感じ取る。視界の隅で、ソルガナンが身じろいだ。
――いよいよ来るのね。
耳にしたくもないソルガナンとの婚約の件が話題にのぼる兆しを受け、アレッタの顔に翳りが差した。
「此度の件で、そなたに褒美を与えようと考えたのだが」
「その前にひとついいかな」
無邪気な声が、国王の言葉をぶった切る。
謁見の間が水を打ったように静まり返った。
国王に向かってこのような命知らずな態度をとれる者は、この場に一人、いや一体しかいない。
冒険者テト改め、大精霊ファラデウスが国王の前に進み出た。
「先ほど彼女の家で、アレッタがこの国の第一王子と婚約するという話を聞いたんだけど、それは事実かな」
テトが謁見の間をぐるりと見まわした。集まった者は対応に窮し、どうしたものかと互いに顔を見合わせた。
「その通りだ」
答えたのは国王だった。
「なるほど。で、そちらの彼が、ソルガナン王子?」
視線を向けられたソルガナンの眉が、ぴくりと動く。
「王子は、アレッタの怪物に立ち向かう姿に心を打たれて、彼女を妻にしたいと思ったんだよね?」
「そうだ。彼女のような強い意思を持つ女こそ、私の伴侶にふさわしい」
ソルガナンの言葉に、近くにいたシャーリーが不満そうな顔をした。しかし、さすがにこの場で口を開くような真似はしない。
「そう。なら、僕がいなくても問題はないよね?」
「は?」
テトの発言に、アレッタをはじめ、謁見の間に集ったほぼ全員が呆然とした。
「彼女の人となりを気に入ったんだったら、僕がいてもいなくても変わらないでしょ?」
「いや、それは」
ソルガナンが口ごもる。彼の表情からは、焦りの色が見て取れた。アレッタと婚約を結び直したのは、彼女を妻にすれば大精霊の力を自分のものにできると考えたからだ。その目論見が外れるとなると、その混乱はいかばかりか。
大精霊という存在は人々にとって大きな意味を持つ。もし彼をエルランテ王家が引き込めたとなれば、この国は周辺諸国から畏怖の目で見られるだろう。ソルガナンたちはそれを狙ったのだ。
言葉を継げないでいるソルガナンに、テトは追い打ちをかけるように言う。
「彼女が君と婚約した暁には、僕は彼女との契約を解除するつもりだから。先に伝えておくね」
これにはアレッタも唖然とするしかなかった。本気なのかどうかを問いただしたかったが、ここはどっしりと構えていたほうが得策だろうと考え、テトを一瞥するだけにとどめた。彼はくるりとこちらを振り返ると、笑顔を浮かべた。
「アレッタ、おめでとう。ちょっと気が早いけど、君と彼との結婚を祝福するよ」
「ちょっと待ってくれ、大精霊様」
「なにを待つの?」
ソルガナンに向かって、テトは首を傾げた。
「本気か。アレッタとの契約を解消するというのは」
「もちろん。なに? なにか不都合でも?」
「いや……もしそうなら、この婚約、少し考え直してもらいたい」
室内にざわめきが広がる。ひそひそと囁き合う声があちこちから聞こえてきた。どこまでも自分勝手なソルガナンの態度に、アレッタは怒りを通り越してあきれ果てる。これがこの国の次期国王だと思うと、気が滅入る。こんな男を好きになろうとしていたのね、わたしは。アレッタは過去の自分の努力をばかばかしく思った。
テトは笑顔を引っ込めると一転、ひどく不快そうに目を細め、国王を見る。
「ねえ、王様、この人が次の王様になるの?」
突然話を振られた国王は、対応が遅れる。「そうなる可能性が高い」
「えー、僕、この人が王様になるのは嫌だなあ」
テトの発言に、謁見の間が揺れた。ソルガナンはすっかり顔を青褪めさせていた。
「理由を申してみよ」
さすがこの国のトップを務めるだけあって、国王の口調は、動揺を微塵も感じさせなかった。
「だって、一度ならず二度までも僕の契約者を愚弄したんだよ。そんな男に、王となる資格があると思う?」
アレッタ、とヴァイセットが娘の名前を呼んだ。精霊が王位継承にまで口を挟んできて、焦りをおぼえているようだった。おまえは契約者なのだからこの精霊をなんとかしろとでも言いたげな様子だった。
テトの採った方法は苛烈とも言えなくはないが、腹に据えかねていたのはアレッタも同じだ。だから、ヴァイセットの合図に無視を決め込む。娘の意思をなにも尊重しようとしてこなかった父親への、ささやかな意趣返しだった。
「ふざけるなっ。貴様、なにを勝手なことを」
このままだと己の立場が危ういと考えたのだろう。ソルガナンが顔を真っ赤にさせて怒鳴った。
「勝手を言っているのはそっちでしょ。王子だからってなにをしても許されると思っているの?」
テトが冷たく笑う。そこに先ほどまでの無邪気な少年の面影はどこにもない。他者を圧倒するほどの怒気が膨れ上がる。完全に大精霊としての顔つきになっていた。
「だったら滑稽だね。もし君が王様になったら、そうだな。この国の人間が結んでいるすべての精霊契約を、破棄するというのはどうだろう?」
「なにを馬鹿なことを。そんなこと、できるはずがない」答えるソルガナンの声は震えていた。
「できるよ。僕を誰だと思っているの?」
テトがシャーリーを睨む。おい、と彼が低い声で言うと、彼女の身体からなにかが飛び出した。
それは、猫の姿をした精霊だった。彼女が契約している上級精霊だろう。
「え、どうして」状況を呑み込めていないシャーリーが、目を丸くした。
「その女との契約を、ファラデウスの名を持って破棄する」
テトが告げた瞬間、猫の姿が掻き消えた。一瞬のことだった。余韻すら残らない。
嘘、とシャーリーが茫然自失する。
「貴様、いったいなにをした」ソルガナンが問う。
「精霊契約を解除してみせたんだ」
「どうして。どうして私の契約を勝手に解除したのよっ?」シャーリーが叫んだ。
「どうしてって、そんなの、僕の契約者を傷つけたからに決まってるじゃん。自分で階段から落ちたくせに、彼女に押されたと嘘をついたりしてさ」
卒業パーティーで、アレッタに着せられた冤罪の一つだ。
シャーリーは目を見開いた。「私、嘘なんてついてないわ。なんでそんなこと言うの」
「僕は彼女と一緒にいたんだ。彼女の行動はすべて見てきた。だから断言できる。彼女は君を突き落としていない。それどころか、指一本触れたことすらない。それともなに? 君は僕がうそをついていると言いたいわけ?」
シャーリーは口をつぐむ。
嘘つき、とアレッタは内心でテトに向かって呟いた。アレッタが学園にいたころ、テトの記憶はまだ戻っておらず、アレッタの側にはいなかった。だから、シャーリーの行動を見ていたはずがない。大した演技ね。アレッタは感心と呆れの入り混じった感情を抱いた。
どうなのだ、と国王の重々しい声が響き、シャーリーはがくりと項垂れた。
「……そうです。階段から落ちたのは、私の自作自演です。それ以外に証言した嫌がらせについても、同様です。あの女――アレッタ様を陥れるために、嘘をつきました」か細い声で、シャーリーは罪を認めた。
「シャーリー、貴様!」
「落ち着いてください、兄上」激昂するソルガナンを、ヴィルヘレムが諫めた。「ここで彼女を責めてもなにも変わりませんよ」
ソルガナンは苦虫をかみつぶしたような顔をした。「この状況で落ち着いていられると思うか、ヴィルヘレム。この女は、私を騙したのだぞ。アレッタ嬢に罪を着せ、さらに婚約を破談に追い込んだ。おかげで私の名誉は傷つけられた!」
「自業自得でしょう、それは」ヴィルヘレムは冷笑を浮かべた。「確かに嘘をついたのはそこにいるシャーリー嬢です。しかし、そんな彼女の言葉を鵜呑みにしたのは、ほかならぬ兄上自身であることをお忘れではありませんか」
正論を突きつけられ、ソルガナンは口を閉ざした。彼の権威は失墜したも同然だった。
「なによ」ゆらりとシャーリーが立ち上がった。「嘘をついたのはあなたも同じじゃない」
「シャーリー?」ソルガナンが言った。
「殿下は私に言ってくれたじゃない! 私を愛してるって! それがなにっ? あの女が私よりもランクの高い精霊と契約していることを知ったら、簡単に私を切り捨てて! どういうつもりよ! 説明しなさいよ! あの言葉は嘘だったのっ?」
突然、豹変したシャーリーが、ソルガナンの胸倉に掴みかかった。それはすごい形相だった。傍で控えていた従士たちが慌てて彼女を引き離す。彼らに取り押さえられながらも、シャーリーはソルガナンへ罵詈雑言を吐き続けた。
――卒業パーティーのとき、一つ間違えていれば、わたしもああなってしまっていたかもしれないのね。
アレッタはシャーリーの醜態を目にしながら、そう思った。彼女はソルガナンから切り捨てられた上、上級精霊まで失ってしまったのだ。心の平穏が崩れるには、充分すぎる仕打ちだっただろう。
シャーリーは従士たちに引きずられるようにして、謁見の間から退場させられた。扉が閉まり、謁見の間には居心地の悪い沈黙が落ちる。
「さてと」その雰囲気を壊したのは、またもやテトだった。「これで僕が精霊契約を解除できることは知ってもらえたと思う。その点を踏まえて、君たちにはこの先どうするか、考えてもらいたい」
彼の漆黒の瞳が、ソルガナンとヴィルヘレム、それから国王へと順番に向けられた。彼らは三者三葉の表情を浮かべていた。
完全に、テトの独壇場だった。誰も言葉を発さない。
「じゃあ、今日の用事はすんだし、僕らはこれで帰らせてもらうね。いくよ、アレッタ」
彼に手を引かれ、アレッタは慌てて立ち上がった。国王陛下へ頭を下げたあと、扉へと向かう。
そのとき、どこからともなく一羽の鷲が飛んできた。王城に鷲? と不審に思ったアレッタだったが、そのシルエット見て納得する。それは二つの頭を持つ、双頭鷲だった。エルランテ王国の紋章にも描かれている国鳥だ。
双頭鷲はまっすぐ玉座のあるほうへ飛んで行く。行きついた先は、ヴィルヘレムだった。ヴィルヘレムの手の上になにかが落とされる。それは、小さな貝のように見えた。
音声を録音する魔法具だ、とその正体にアレッタは思い至る。貝を耳にあてるヴィルヘレムに、皆の注目が集まる。いったい、なにを聞いているのだろうか。
紫の瞳が見開かれる。彼は国王に発言の許可を申し出た。
「許す。どうした」
「ベルベットという女冒険者に、あの匣を渡した人物が判明いたしました。女冒険者を怪物に変えた、悪魔の匣です」
衝撃的な発言に、ざわり、と謁見の間に動揺が広がる。
アレッタたちは足を止め、彼の言葉に聞き入った。
誰だ、と国王が訊いた。
ヴィルヘレムはアレッタたちを見た。
「その人物の名は――」




