絶望と希望
その話を家庭教師から最初に聞いたとき、幼いアレッタはそれをお伽噺の類だと思った。あるいは、言うことを聞かない子どもを驚かすための作り話だと。
成長し、見聞が広がるにつれ、その話が実は真実だったことを知る。しかし、それでもまだ、どこか他人事のように感じていた。仕方ないだろう。この国ではまだ、一度もそのような事件が起きていなかったのだから。
黒い霧に呑まれた人間が、怪物に変貌するなどという怪奇現象は。
悲鳴を上げ、ベルベットがのたうち回る。全身をかきむしりながら暴れる彼女を、アレッタたちは呆然と見つめる。
匣の中から飛び出したのは、黒い霧だった。まるで意思を持つかのように蠢く霧は、一気にベルベットに群がると、そのまま彼女の全身を覆ってしまった。彼女は抵抗する間も与えられなかった。黒い霧は、口や鼻の孔、瞼と目玉の間、皮膚のほんの小さな隙間など、ありとあらゆる場所から、ベルベットの身体へと侵入した。
やがて、彼女の身体に異変が生じる。
肌が黒く染まった。眼球がどろりと溶けてなくなった。腕や脚が何倍にも膨れ上がった。
見る見るうちに巨大化したベルベットの身体は、もはや人間としての原型をとどめていなかった。脚があったところには六本の腕が生え、腕があったところには顔が生えている。腹や背中からはいくつもの腕が飛び出していた。複数の人間の身体を分解し、できたパーツを適当にくっつけたような、生命を冒涜した形だった。
人々が、脇目も振らず我先にと雪崩を打って逃げ出す。悲鳴が渦を巻き、耳をつんざく暴力となって王都を襲う。
呆然とするアレッタの身体が、ふわりと持ち上がった。我に返ると、キースが自分を抱きかかえていることを知った。
「お嬢様、お叱りはあとで受けますので、いまは我慢してください」
キースが切羽詰まった口調で言った。そのままアレッタの返事を待たずに、空中へと跳躍する。窓枠や看板などありとあらゆるものを足場代わりにし、建物から建物へ飛び移った。
「しっかり私につかまっていてください。振り落とされないように」
言われた通り、彼の腕を掴む手に力を込める。
そのとき、天地を震わすほどの巨大な咆哮が轟いた。
通りを走っていた人々は次々に転倒する。建物の窓ガラスが音を立てて割れていく。
「お嬢様、顔を伏せてください!」
キースの腕が、アレッタの頭を庇うように回された。うっ、とくぐもった呻き声が聞こえてきた。
「ご無事ですか、お嬢様」
「え、ええ。だけどキース、あなたが」
頭上から降ってきたガラスの破片を全身に浴び、キースの身体は傷だらけだった。ぽたぽたと血が滴っている。
「これぐらいどうってことありません。それよりも、ここを速く離れなくては」
「アレッタアアアァァァッ」
地の底から響くような、身の毛のよだつ叫びが鼓膜を震わせた。
「あの怪物の狙いは、わたしだわ」
漆黒の怪物の腹に穿たれた四つの穴から、血の色の瞳がぎょろりと覗いた。その目は正確にアレッタの位置を捉えた。
「キース、わたしを下ろしなさい」
「お嬢様、なに血迷ったことをおっしゃっているのですか」
「あいつの狙いはわたしよ! このままわたしと一緒にいれば、あなたも殺されてしまうわ!」
「だからって、お嬢様一人を置いていくわけには」
そのとき、ひゅん、となにかが空を切る音がした。視界がぐるんと回る。どんっ、と全身に衝撃と痛みが走り、アレッタは自分の身体が地面に投げ出されたことを知った。ちかちかと視界が明滅する中、石畳の上にうずくまる従者の姿が目に入った。
「キース!」
彼に近寄ったアレッタは、ぎょっと目を見開いた。キースの腹が、ごっそり削り取られていた。
「お、嬢様、はや、くお逃げ、ください」
いまにも消え入りそうな声で、キースが言った。アレッタをこの場から逃がそうと、力の入らない腕をわずかに動かして彼女の身体を押そうとしてくる。
「キース、だめよ。あなたを置いていくだなんて、そんな」
怪物がすぐそこまで迫っていた。脚の代わりに生えた六本の足をでたらめに動かし、蛇行しながら周囲の建物をなぎ倒して猛進してくる。地面が絶え間なく揺れ、石畳に走った亀裂はどんどんと広がっていった。
怪物が吠えた。歓喜に満ちた声だった。
逃げられない、とアレッタは悟る。たとえキースを放置して駆け出したところで、出せるスピードなどたかが知れている。
怪物の腕がぐにょんと伸びた。
アレッタは死を覚悟した。
怪物の真っ黒な指先が彼女に触れようとした、そのとき。
紫電が走った。
「アレッタ!」
それは、聞こえるはずのない声だった。空耳か、と一瞬アレッタは自分の耳を疑う。振り返り、先ほどの声が幻聴でないことを知る。
「どうして、あなたがここに」
アレッタは呆然と呟いた。
涙で霞む視界が映したのは、テトの姿だった。
テトの手を借り、アレッタとキースは怪物から距離をとった。建物の陰に身を潜め、様子をうかがう。
「あなた、いまはロンベルタにいるはずでしょう。それなのに、どうしてこの王都に」意識を失った従者の身を案じながら、アレッタは訊いた。
「詳しい説明はあとだ」キースに回復魔法をかけながら、テトは厳しい目で怪物を見る。「まずは、あれをなんとかしないと」
現在、怪物の周りを複数人の魔法師が囲んでいた。おそらく、王国軍の魔法部隊の隊員たちだろう。全員が同じローブを纏い、互いに協力しながら怪物の侵攻を食い止めている。騒ぎを聞きつけて、現場に駆けつけたようだ。
「王国軍が動き出したなら、もう安全なのでは?」
「いや、彼らではあの怪物を止めることはできないと思う」顔をしかめたテトの額から、汗が流れ落ちる。「普通の魔物だったら、なんとかなったかもしれない。だけど、あの程度の魔法じゃあ、あの怪物を倒しきることはできない」
確信に満ちた声だった。冒険者時代に、あれと遭遇したことがあるのだろうか。
大きな火球が怪物の腕を直撃し、槍のように鋭く盛り上がった地面が身体をくし刺しにする。
しかし、怪物は止まらなかった。
「ヤグウェイ」
テトが名前を呼ぶと、背後から虎の半獣人がのそりと現れた。
「彼女たちを安全な場所まで避難させてくれ」
「おまえはどうする気だ」ヤグウェイは双眸を細めて訊いた。
「ここに残って、あの怪物を食い止める」
テトの決意に満ちた声に、アレッタは思わず声を上げる。
「無茶よ。いくらあなたでも、あんな化け物に敵うわけないわ」
一緒に逃げましょう、とアレッタはテトの腕を引いた。しかし、彼は首を横に振った。どうして、と彼の心境を理解できずにアレッタは目に涙を浮かべる。
「ベルベットがああなってしまった責任は、僕にある。僕がもっときちんと対応をしていれば、彼女が怪物になることも、君がこんな危険な目に遭うこともなかったんだ」
「だから、その責任を取るって言うの?」
「そうだ」
バカじゃないの、とアレッタは思わず言ってしまった。
テトは目を逸らした。「話は終わりだ。これ以上、君としゃべっている時間はない」
「待って。あなたが残るなら、わたしも残るわ」
「君こそバカなことを言うな。魔物とはわけが違うんだ。君が出て行ったところで、なにもできやしない」
彼の言っていることは正論だった。しかし、死ぬとわかっていながらこのまま彼を送り出すことなど到底できなかった。
「あなたに責任の一端があると言うなら、わたしにだってあるわ。彼女があそこまで壊れてしまったのは、わたしの存在が原因だもの」
「それは屁理屈だ!」
「あなたの言っていることだって支離滅裂よ!」
「おまえら、痴話喧嘩ならあとにしやがれ。包囲網が崩れた」ヤグウェイが通りに目を向け、舌打ちをした。「怪物がこっちに向かってくる」
「もうそんな」言葉を切り、テトがはっと上を見た。「まずい、伏せろっ」
彼の焦った声が聞こえた次の瞬間、頭上をものすごい風圧が駆け抜ける。怪物の伸ばした触手が、建物の壁を穿ったのだ。支え部分を破壊された建物が、見る見るうちに崩れていく。
「くそっ、通りへ逃げろ。瓦礫に押し潰されるっ」
アレッタはテトに抱えられて狭い路地を転がり出た。キースはヤグウェイが担いでいる。通りに出るや否や、テトが雷撃を前方に放った。激しい轟音とともに、飛来した触手を吹き飛ばした。
「おい、やべえぞ。ここもあいつの射程圏内だ」
「そんなことはわかっているっ」
ヤグウェイに怒鳴りながら、テトは雷魔法を放ち続けた。確実に攻撃は当たっているのに、怪物は怯む様子すら見せなかった。先ほどまで怪物と応戦していた魔法師たちは、皆地面に投げ出されていた。生きてはいるようだが、とても立ち上がれる状態ではなさそうだ。彼らのほとんどが、四肢の一部を欠損していた。
「あの怪物の身体には絶対に触れるなよ。触れた瞬間、肉も骨も、すべて溶かされる」
先ほど目にしたキースの傷を思い出し、アレッタはぞっとした。触手が掠っただけであれほどのダメージを負ったのだ。直撃していたら骨一つ残らなかっただろう。
腕をバネのように使い跳躍してきた怪物に、テトが特大級の雷撃を喰らわす。同時に、ヤグウェイが自分の身体よりも一回りも二回りも大きい建物の瓦礫を掴み、砲弾のように投げ飛ばした。攻撃を受けた腕が地面から離れバランスを崩した怪物は、石造りの建物群に頭から突っ込んだ。激しい衝撃音がまき散らされる。
「おまえ、そんなに魔法をぶっ放して平気か。さっきの回復にもごっそり魔力を使っていただろ」
「平気さ。まだまだやれる」
ヤグウェイの問いに笑みを返すテト。無理に作ったような表情から、言葉とは裏腹に余裕はほとんどないように感じられた。
「怪物は?」
「向こうもまだまだやれそうだ」
ヤグウェイが勘弁してくれとでも言いたげに顔をしかめた。
建物の残骸を吹き飛ばした怪物が、ぶるりと身体を揺らす。背中から、無数の触手が空に向かって飛び出した。その数は、おそらく百本近くあるだろう。
「おいおい、嘘だろ」
ヤグウェイが呆然と呟いた。
怪物が吠え、まっすぐに伸びていた触手が向きを変えて急降下してきた。雨のように降り注ぐそれを、アレッタたちは防ぐ術を持ち合わせていなかった。テトが雷魔法で応戦したが、焼け石に水だった。
「アレッタ」
テトが頭上を睨んだまま、唐突に名前を呼んだ。アレッタは弾けるように彼を見た。
その瞬間、記憶が走馬灯のように頭を駆け巡った。
盗賊の魔の手から自分を助け出してくれたこと、二人でロンベルタの町を散策したこと、馬を走らせヤグウェイの救出に向かったこと。
これまで彼と過ごしてきた日々の思い出が、一気に蘇る。
――やっぱり、自分の想いを言葉にしておけばよかった。
後悔が苦く心を刺した。
悲しみが涙となり、頬を流れ落ちる。
死にたくないと思った。奇跡が起きてほしいと願った。叶うなら、もう一度彼とゆっくり話をしたかった。
目を瞑る。
死が降り注ぐ瞬間、アレッタの脳裏に声が響いた。
――君のことは僕が守る。




