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終わりの始まり

 その日、アレッタは二か月ぶりに王都を訪れていた。華やかな町並みとは対照的に、彼女の顔は憂いに沈んでいる。


 思考の大部分を占めるのは、明日の夜に開かれる夜会のことだ。ソルガナンとの婚約破棄の件は、国中の貴族の耳に入っている。第一王子から捨てられた憐れな公爵令嬢として、皆の注目の的になるだろうことは、想像に難くなかった。そしてなにより、自分を断罪したソルガナンとシャーリーと直接顔を合わせなければならないという事実が、アレッタをさらに憂鬱な気分にさせていた。自然とため息の数も多くなる。


 ――見世物にされるとわかっているのに参加しなければならないなんて、生き地獄ね。お父様もなにを考えているのかしら。


 城を中心に円形状に整備された通りを、多くの人や馬車が行き交う。立ち並ぶ建物は、エルランテ王国の首都にふさわしい立派な造りをしている。有名な建築家が手掛けたとされる大聖堂や、町を横断する運河に架かる巨大な橋は、観光地としても有名だった。


 学園に通っていたころと変わらない町並みを目にし、懐かしさと苦々しさが同時に込み上げてくる。


 ――あら、あの通りは。


 アレッタは馬車の窓に顔を近づけた。視線の先にあるのは、学園を卒業する二日前、占い師に占ってもらった場所だ。


 あの少女の言うとおり、婚約者のソルガナンによってアレッタの人生はひっくり返されてしまった。あそこまで的中すると、もはや占い師というより予言者と言っても差し支えないだろう。アレッタは、彼女が告げたほかの占い結果を思い出す。


 ――あきらめなけれな、素敵な人生を取り戻せるっていう話だったけれど。


 自分にとっての素敵な人生とはなんなのか、いまのアレッタにはいまいちぴんとこなかった。


 ロンベルタにいるテトの顔が、脳裏をちらつく。途端、胸が苦しくなった。


 嫌なことがあったときには、いつも彼の顔が思い浮かべて心を落ち着けていた。それほどテトのことが好きだった。しかし、想いを告げようとすると、どうしても言葉が出てこなかった。理由はわかっている。多くの領民たちの命を預かる公爵家の人間として、自分一人の幸せのみを追求するわけにはいかなかったからだ。その責任の重さが、アレッタの口を堅く閉ざさせていた。


 ――きっと、テトもそのことをわかっている。だから、あのときの続きを口にしなかった。


 とはいえ、そうするように仕向けたのはアレッタだ。貴族としての責務があるから一時の恋愛感情に流されることはできない、と彼にわざと聞かせた。もし彼から告白されたら、その魅力に抗える自信がなかったからだ。


 そろそろ答えを出さなければならない、とアレッタは考えていた。最初に彼を引き留めてしまったのは彼女のほうだ。自分たちの間に越えられない壁があることを知りながら、繋がりを作ろうとしてしまった。


 ――これ以上、テトを困らわせるわけにはいかない。


 この宙ぶらりんな想いに決着をつけるためにも、まずは夜会を乗り切らなければ、とアレッタは思った。


 馬車がオルテンシア公爵家別邸にたどり着く。両親と妹は、アレッタよりも先に王都へ移っていた。ヴァイセットは公務、フィルミナは学校、そしてエミリーゼは彼女の保護者として同伴したためだ。王都までの道のりの間、母親や妹と長時間顔を突き合わせずにすんで、アレッタは内心ほっとしていた。


 自室で荷物を整理したあと、キースを連れて屋敷を出る。


「よろしいんですか。外を出歩いて」


「お母様の許可はもらったから平気よ」


「よく認めてもらえましたね」


 最初は難色を示していたが、キースも一緒であることを伝えたらすぐに了承がとれた。よほど半獣人と同じ空間にいたくないらしい。さすがにキースの前でそのことを言うわけにはいかず、アレッタは言葉を濁してごまかした。


 王都は人も多ければ店も多い。ロンベルタとは比べものにならないほどの活気に溢れていた。人の往来が激しく、少し気を抜いただけでキースとはぐれてしまいそうだった。


 あちこち歩き回ったせいで、足が疲れてきた。目聡くそのことに気がついたキースが、屋敷までの馬車を手配しましょうか、と訊いてくる。少し休めば平気よ、とアレッタは答えた。ちょうどすぐそこに、オシャレなカフェがあった。キースに、あの店に入りましょう、と告げ、歩き出す。


 しかし、店に入ることはできなかった。


 通りを横断し、もうすぐで入り口にたどり着くというところで、彼女の名前を呼ぶ声が聞こえたからだ。


「アレッタ・ルド・オルテンシア!」


 それは、とても穏やかとは言えない口調だった。びくりと肩を震わせ、アレッタは声のしたほうを振り返った。


 そこに立っていたのは、ベルベットだった。


 固まるアレッタの前に、キースが躍り出る。普段の柔和な表情は消え、ベルベットを睨みつけていた。彼が警戒するのも無理はない。それほどまでにベルベットの姿は異様だった。


 ぼさぼさの髪の毛から覗く双眸は、まるで人間のものとは思えない狂気を宿していた。着ている紺色のローブは泥であちこち汚れていた。ねじくれた木の杖を持っていなければ、すぐに彼女だと判断することはできなかったかもしれない。


「ようやく見つけたわ。あたしからテトを奪った女」


「お嬢様、お逃げください。ここは私が食い止めますっ」


 キースが叫ぶように言った。しかし、アレッタの足はまるで地面に張りついたかのように動かなかった。


 脳裏に一つの記憶が蘇る。王都から領地へ戻る際に盗賊に襲われたときの記憶だ。命を挺してアレッタを守ろうとした騎士の背中と、キースの背中が重なって見えた。ぞくり、と全身が粟立つのをおぼえた。このままだと彼が死ぬ。ベルベットの放つ雰囲気が、アレッタにそう思わせた。


 あなたも一緒に逃げるのよ、と言おうとしたが、声がうまく出てこなかった。いつもどうやってしゃべっていたっけ、とアレッタはパニックに陥りかける。


「許せない、許せない、許せない。彼を騙し、誘惑し、自分の欲のために利用しているおまえが、許せない!」ベルベットは血走った目でアレッタを見る。


 周囲の人間は、距離を置いて遠巻きにこの光景を眺めていた。彼らは一様に同じ感情を顔に浮かべている。好奇心ではない。恐怖だ。誰もがみな、ベルベットの放つ狂気に釘付けになり、動けないでいた。


「おまえを殺せば、きっと彼も目を覚ましてくれるわ!」


 笑い叫ぶベルベットが、懐からなにかを取り出した。


 それを目にした途端、アレッタの心臓がどくんとひときわ大きく跳ね上がった。背筋に冷たいものが走る。


 ――あれだ。あの匣が、すべての元凶だ。


 ふと前に立つキースを見れば、彼の身体がわずかながら震えていた。尻尾の毛がすべて逆立っている。彼も圧倒的なプレッシャーを感じているのだ。


 ベルベットの手から杖が零れ落ちる。右手が匣にかかった。


 ――あの匣が開かれたら、すべてが終わる。


 わかっているのに、動けなかった。声を出すことができなかった。ただ呆然と、目の前の光景を見つめることしかできなかった。アレッタだけではない。キースも、まわりにいる人間も、全員がなにも行動を起こせずに、ベルベットの行動をなすすべなく見つめていた。


「これで終わりだ!」


 匣が開く。


 次の瞬間、〝絶望〟が飛び出した。

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