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蠢く悪意

 薄暗い路地を、一人の少女が歩いている。


 その目は正気を失い、血走っていた。だらんと腕を垂らして歩く姿は、まるでゾンビのようだった。


 すれ違う人々は、彼女の放つ異様な雰囲気に顔を強張らせ、そそくさと逃げていく。酒に酔った男も、意地汚い目で女を物色していた男も、彼女には決して近づこうとしなかった。


「ぜんぶあの女のせいだわ。あの女が現れたから、彼はおかしくなってしまった。あの女さえいなければ、いまごろ彼の横にはあたしがいたのに」


「ベルベット」


 あてもなくさまよい続ける彼女の耳に、その声は突然届いた。少女は足を止める。目の前に、一人の人間が立っていた。顔には奇妙な面がつけられていたが、声から女性だとわかる。


「あんた、誰」


 ベルベットは言った。大した要件じゃなかったら殺す、と続きそうな声色だった。


「ふふ。そう警戒しないで。わたし、ずっとあなたと話してみたかったの」仮面の女は、胸の前でぱんと両掌を打ちつけた。「あなたのこと、ずっと見ていたわ。今日は高台の公園にいたわよね。そこでなにか揉めているみたいだったけれど、なにがあったの? もしかして、好きだった男にふられちゃった?」


 無邪気な声。


 その瞬間、仮面の女に向かって火球が放たれた。ベルベットが火炎魔法を発動したのだ。闇を切り裂き、対象を焼き殺さんと飛来するそれを見て、しかし、仮面の女は微動だにしなかった。そして。


「あら、怖い」


 火球がぱしゅんと消えた。まるで最初から存在しなかったかのように、跡形もなく。


 ベルベットは瞳を細くした。対抗魔法、と呟いた。


「さすが、よく知っているわね」


 ベルベットはさらに攻撃魔法を打ち込んだ。そのすべてが、ことごとく消え去ってしまう。


「落ち着いて。今日は、あなたに依頼をしに来たのよ」


「依頼?」ベルベットはぎょろりと目玉を動かした。


「そう。あなた、冒険者なんでしょう。だったら、わたしの依頼を受けてくれないかしら」


 胡散臭さしか感じない。


「ほかをあたってちょうだい」


 女の申し出をにべもなくはねつけると、ベルベットはその場を離れようとした。


「あの女が許せないのではなくて?」


 しかし、再び聞こえてきた女の声に、動きを止める。


「あなたの隣から、彼を奪った貴族の女。邪魔だと思っているのでしょう?」


「あんた、なにが目的?」


「言ったでしょう、わたしはあなたに依頼がしたいの。あの貴族の女――アレッタ・ルド・オルテンシアの心を壊してほしい、という依頼を」


 仮面の下で不気味に笑う女の提案に、ベルベットは瞠目した。警戒心は残っていたが、それ以上に、女の話に興味をそそられる。


「心を、壊す?」


「ええ。身体の傷は治せても、心の傷はそう簡単に治せないでしょう? 二度と立ち直れないような、深い絶望を味わわせてやりたいのよ。ああ。もしあなたが望むのなら、別に殺してくれてもかまわないわ。生き地獄に落とすのもいいけど、死んだら死んだできっとせいせいするでしょうし」


 仮面の女は嬉々として言った。狂気を孕んだ声が、じわりじわりとベルベットの身体を侵食する。


「でも、相手は貴族なんでしょ。護衛だってたくさんいる。あたしの魔法だけでは、その中を突破するのは無理だわ」


「ふふ。安心して。いいものがあるの」


 そう言って、仮面の女はなにかを取り出す。


 それは、匣だった。


 闇を凝縮したような、漆黒の匣。


 目にした途端、ぞわりとベルベットは総毛だった。手足が震え、歯がかちかちと音を立てる。蓋がしまっていてもわかった。あの匣の中には、決して人間が触れてはならない邪悪なものが収められている、と。


「これを、アレッタの前で開けなさい。そうすれば、あなたに代わってこの匣が彼女を消してくれるわ」


 仮面の女が、匣を差し出してくる。ベルベットは、ごくりと喉を鳴らし、それを受け取った。手にしただけで、ぶわっと全身から汗が噴き出す。


「この匣を開いた瞬間、絶望が飛び出すわ。あの女が苦悶に打ちひしがれる様子を、あなたは特等席で見ることができるのよ。ふふ、楽しみでしょう?」


 ベルベットは頷いた。仮面の女は満足そうに笑うと、そのまま闇の中へ消えていった。


 雲が途切れ、隠れていた月が顔を出す。青白い光が、ロンベルタの町を照らす。


 もしベルベットが普段の冷静さを失っていなかったら、疑問に思ったことだろう。なぜ仮面の女は、自分で匣を開けずにわざわざベルベットに渡したのか、と。しかし、愛した男から拒絶され、悲しみに狂っていた彼女の思考は、そこまで及ばなかった。


 ベルベットは手元に残った黒い匣の表面をそっと撫でた。先ほどまで見せていた黒い匣への怯えは、すっかり消えてなくなっていた。

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