告げられた婚約破棄
「アレッタ・ルド・オルテンシア。この場をもって、あなたとの婚約を破棄させてもらう」
シャンデリアの光が照らす豪華絢爛な大広間に、凛とした声が響き渡った。声の主は、エルランテ王国第一王子ソルガナンだ。精悍な顔は怒りに満ち、紅の双眸には侮蔑と嫌悪の色が載っている。
突然の宣言に、学園の卒業パーティーで盛り上がっていた会場が一気に静まり返った。それまでの華やかな雰囲気は霧散し、集まっていた卒業生たちの顔に困惑の表情が浮かぶ。
「理由をお聞かせいただいてもよろしいでしょうか」
いまだ混乱しているアレッタは、内面の動揺を悟られまいと拳をぎゅっと握りしめ、毅然とした態度で問いかけた。ブラウンの長髪とエメラルドグリーンの瞳を持つ彼女は、オルテンシア公爵家の令嬢として、そして未来の王妃として、これまで厳しい教育を受けてきた。ポーカーフェイスを作ることぐらい、造作もないことだった。
「理由? それはあなたが一番よくわかっているはずだ」ソルガナンは傍らに立っていた一人の令嬢の肩を抱き寄せる。「こちらのシャーリー嬢に、ずいぶんと悪質な嫌がらせを行ったそうだな」
シャーリー、とアレッタは心の中で呟く。彼女の顔には見覚えがあった。ノゼシュタイン伯爵家令嬢で、学年はアレッタの一つ下だ。学園に入学して以来、なにかとソルガナン王子に纏わりついていたものだから、嫌でも記憶に残っている。
「ソルガナン殿下、いったいなんのことをおっしゃっているのでしょう。私にはまるで身に覚えがありませんわ」
「この期に及んでまだ白を切るか、見苦しい。あなたも貴族であるならば、素直に自分の過ちを認めるべきだろう」
「ですから、私は間違ったことをしておりません。どのような根拠を持って、殿下はそのようにおっしゃるのですか」婚約者の鋭い視線に、アレッタは真っ向から立ち向かう。
ソルガナンは鬱陶しそうに鼻を鳴らした。それから愛おしそうにシャーリーをちらりと一瞥すると、すぐに表情を引き締めてアレッタに居直る。
「学園であなたがシャーリー嬢に辛く当たっていたと、多くの報告が上がってきている。彼女が抵抗できないのをいいことに、暴言を浴びせ、大事なドレスを破り、挙句の果てには階段から突き落としたそうだな。これをあなたは正しいことと言うのか」
「暴言を浴びせた、という言い方には語弊があります。確かに、彼女に対して厳しいことを口にした覚えはあります。しかしそれは、貴族として至らない点を注意したにすぎません。王太子であらせられる殿下に、幾度となく礼を欠いた振る舞いを見せる彼女の行為は、目に余るものでした。何度注意をしてもなかなか改善が見られなかったので口調が強くなってしまい、それがシャーリー様には暴言を吐かれたように聞こえたのでしょう」
「私のせいだとおっしゃるんですか!」
シャーリーが目尻に涙を浮かべ、噛みついてくる。アレッタは端的に、はい、と答えた。彼女がきちんと節度を守っていれば、自分が口酸っぱく注意する必要などなかったのだ。感謝されこそすれ、恨まれる筋合いはない。シャーリーは唖然とした表情を見せる。
「それから、ドレスを破られたという件と階段から突き落とされたという件ですが、私はどちらにも関与をしておりません」きっぱりと言い切った。
「うそよ! どちらもあなたの差し金でしょう! ソルガナン殿下のお心が自分から離れていくことに焦ったあなたが、友人たちに命令して、無理やりやらせたんです!」
「証拠はありますの?」
「あなたに命令されたと、数人のご令嬢が名乗り出てくださりましたわ!」
「それだけですか? ほかには?」
えっ、とシャーリーが目を瞠る。
「私が命令したという物的証拠があるんでしょう。まさか根拠の乏しい証言だけで、公爵家の人間を犯罪者呼ばわりするおつもりはありませんわよね? 証言など、その気になればいくらでも捏造できるんですから」
「勇気を出して名乗り出てくれた者たちを愚弄するつもりか」ソルガナンの目が怒りで燃え上がる。
「私は、言い逃れができぬほどの確固たる証拠を提示してほしいと申し上げているだけです。どこかおかしな点がございましたでしょうか」
アレッタの反論に、ソルガナンは黙り込んだ。オルテンシア公爵家は建国当初からこの国を支えてきた名門貴族だ。どこの馬の骨ともわからない貴族の子息令嬢の証言だけで崩せるほど、公爵家は甘くない。
「ソルガナン殿下?」
急に勢いを失った王子を、シャーリーが不安そうに見つめる。大丈夫だよ、と返すソルガナンの瞳には、彼女への愛情が零れんばかりに溢れていた。
重症ね、とアレッタは思う。彼の心は、いまやすっかりあの伯爵令嬢のものだ。アレッタが入る隙間は欠片も残っていない。
――わたしはいったい殿下のどこが好きだったのかしら。
もともとアレッタとソルガナンの婚約は、親同士の政治的判断により決まったものだ。そこに子どもの意思は反映されない。とはいえ、少なくともアレッタは、ソルガナンのことが好きだった。絹のような美しい銀色の髪も、自信に満ちた赤い目も、凛々しく整った顔立ちも、すべてが愛おしいと思った。しかし、それはもう過去の話だ。シャーリーとの恋愛にかまけ、目が曇ってしまったいまの王子を見ていたら、百年の恋も冷めてしまった。
「恐れながら殿下、国王陛下と私の父は、この婚約破棄のことをご存じなのでしょうか」
アレッタは扇を広げ、口元を隠した。彼女の問いに、ソルガナンは眉間の皺を濃くした。
「父上たちにはあとから私が伝える。なにも問題はなかろう?」
問題大ありだ。いったいどこを巡れば、事後報告で大丈夫だろうなどという考えにたどり着くのか。理解に苦しむ。
――まあ、相手があのシャーリーだからこそ、ソルガナン殿下もここまで強気な行動をとれたのでしょうけど。彼女を新たな婚約者とするならば、国王陛下も強くは反対なさらないと踏んだのね。
シャーリーには特別な力がある。それこそ、公爵家令嬢との縁談を破綻に追い込んでも、つり合いがとれてしまうほどの。その証拠に、アレッタへ同情するような視線をよこす者はいたが、このような場で婚約破棄を行うという非常識な行動をとったソルガナンやシャーリーに不快感をあらわにする者はほとんどいなかった。あのシャーリーなら仕方がない、そんな空気が流れていた。
「殿下のおっしゃった悪質な嫌がらせにつきましては、改めて否定させていただきます。そして、もし私の身の潔白が証明された暁には、シャーリー様に私を侮辱したことへの謝罪を要求します」
「彼女をまだ苦しめる気か!」
吠えるように叫ぶソルガナンを、アレッタは冷めた目で見つめる。
「根拠もなしに私を犯罪者呼ばわりしたのです、当然の要求でしょう。むしろ、謝罪だけですます私の恩情に感謝してもらいたいぐらいですわ」
「そんな、ひどい」
目を潤ませ、ソルガナンに抱き着くシャーリー。どちらがひどいのだ、と言ってやりたいのを、必死にこらえた。大勢の人間の前で信頼を貶められ、婚約を破棄される。これがどれほどの屈辱か、あの二人はわかっているのだろうか。
アレッタは扇をぱちんと閉じた。こんな茶番にこれ以上付き合うのは、もう耐えられなかった。
「婚約破棄の件につきましては、承りました。それが殿下のお決めになったことでしたら、私はそれに従うまでです。もうこれでよろしいでしょうか。ほかに用件がないのでしたら、私は失礼させていただきます」
優雅に一礼をすると、アレッタはソルガナンとシャーリーに背を向ける。
「楽しい時間に水を差してしまい、申し訳ございません。邪魔者はさっさと退席しますので、皆様はこのままごゆるりとパーティーをお楽しみください。では、ごきげんよう」
アレッタは身を翻し、大広間をあとにする。
背後でソルガナンがなにかを叫んでいたが、足を止めることはしない。
ひと気のない通路を歩きながら、これからのことをアレッタは考えた。
――ソルガナン殿下との婚約を破棄されたことを知ったら、お父様はどうなさるかしら。一緒に憤ってくれる? いいえ、それはないわね。むしろ、由緒ある公爵家に泥を塗ったとして、わたしに幻滅するでしょう。さすがに、勘当までされることはないと信じたいけれど。
これから待ち受けているであろう未来を想像し、アレッタの心中はどんよりと曇った。
あの占い師の言う通りになってしまった、と思った。