ロンベルタの町
姿見に映った自分の姿を見ながら、アレッタはジョアンヌに訊く。
「どうかしら、この格好。どこもおかしくはない?」
「ばっちりですよ、お嬢様。これなら町を出歩いても、誰も貴族のご令嬢だとは思わないでしょう」
ジョアンヌが太鼓判を押した。
アレッタがいま着ているのは、一般市民が身につけるような質素な服だった。おしゃれよりも機能性を重視したデザインで、貴族が着用することを想定した服ではない。ではなぜそのような服をアレッタが選んだのかというと、身分を隠し、市井を歩くためだった。
鏡に映り込んだ自分の姿を見て、普段とはまったく違う身なりにアレッタは違和感をおぼえた。変に思われないかしら、と心配に思うが、優秀な侍女が大丈夫と言うのだから大丈夫なのだろう。
「ではお嬢様。あとのことは私たちにお任せください」
ジョアンヌが一礼し、部屋を出て行く。一人になったアレッタは、いつものように窓辺に腰かけた。
緊張でどくどくと心臓が脈打つ。普段通りでいることに努めようとするが、どうしても顔が強張ってしまった。
――ああ、やっぱりキースの提案なんかに乗らなきゃよかった。
数日前の出来事を思い出す。
直接会いたいとテト様に手紙で伝えるべきです、としつこく勧めてくるキースにとうとう白旗を上げたアレッタは、自分の気持ちを赤裸々に綴った手紙をテトに出してしまったのだ。断られたらまだましなほう、もしかしたら面倒になって返事すらくれないかもしれない。そんなふうに不安に思っていたものだから、ハトが手紙を運んできたときは心の底から安堵した。
手紙には、都合のいい日時を指定してくれれば迎えの者をよこすと書かれていた。どうやら半獣人の知り合いがいるらしく、彼が町まで連れていってくれるということだった。
「半獣人なら、お嬢様の部屋の窓を出入りすることも可能でしょう。町まで送り届ける持久力もあるかと。あとは、ほかの使用人にさえ気がつかなければ問題ありません」とキースは言った。「この部屋の防犯魔法も一時的に切っておきます」
アレッタははやる気持ちを押さえながら、ペンを取り、返事を書いた。
キースとジョアンヌとも打ち合わせをし、あとは決行当日を待つばかりだった。
――そろそろね。
そのとき、こんこんと窓ガラスを叩く音が聞こえた。目を瞑り、呼吸を整えていたアレッタは、音のしたほうを向く。体格のいい少年が、窓にへばりついていた。黄色と黒色の縞々が入った尻尾がゆらゆらと揺れている。彼が、テトからの手紙に書いてあったヤグウェイという名の半獣人だろう。窓を片側だけ開け、中に招き入れる。
「あんたがアレッタ?」
頭の天辺から足の爪先まで、ヤグウェイはアレッタをじっくりと見た。
「ええ、そうよ」
「テトのやつからの頼みで、あんたを迎えに来た。あんまり時間がないから、すぐに行くぞ。もう準備はできてるんだろ?」
思っていた以上に、ぞんざいな口調だった。事前に聞いていたとはいえ、アレッタは面食らう。
テトの話によると、ヤグウェイは自分よりも強い者にしか敬意を示せないらしい。以前、敬語を仕込もうとチャレンジしたそうだが、あまりに物覚えが悪くて断念したそうだ。同じ半獣人のキース曰く、頭を使う作業は苦手である、ということだった。とはいえ、キースは見事に従者の仕事をこなしているから、そこは個人差があるのだろう。
「よろしくお願いするわ。ちなみに、虎になれるって本当なの?」
「本当だ。ただ、ほかのやつには絶対に言うなよ」
ヤグウェイがすごむように言った。彼の迫力に気圧され、アレッタはびくりと身体を震わせた。
獣人や半獣人の中には、本物の獣になれる者が極稀にいるらしい。その希少さから、よく人間たちに捕らえられ、見世物にされることが多いという。これも以前、キースから聞いた話だった。
ヤグウェイに抱えられ、アレッタは二階の窓から飛び降りた。初めて経験する感覚に、悲鳴を上げずにいるだけで精いっぱいだった。気がついたときには、公爵家の屋敷を離れ、近くの森に入っていた。
「ここからはオレの背に乗れ。振り落とされないよう、しっかりつかまっておけよ」
アレッタを下ろしたヤグウェイは一旦木の陰に消え、次に出てきたときには、完全な虎の姿となっていた。
「すごい。本物の虎だ」初めて目にする威容に、アレッタは興奮を隠しきれなかった。「いまさらだけど、よかったの? わたしに獣化のことを教えて」
「あんたは信用できるとあいつが言ったんだ。なら、問題はない」
どうやらテトのことをずいぶんと信頼しているらしい。
どういった繋がりなのかしら、と不思議に思いつつ、アレッタはヤグウェイに騎乗した。
「行くぞ。頭はなるべく下げておけよ」
その直後、四本の足が地面を蹴った。びゅん、と風が顔にぶつかる。
乗馬とはまた違う感覚だ。揺れは多少感じたものの、苦になるほどではない。地面からせり出す木の根や倒れた巨木を、ヤグウェイは軽々と超えていく。がさつな性格とは裏腹に、走りは滑らかだった。アレッタに配慮するような気配りができるとは思えなかったため、単純にヤグウェイの動きが洗練されているのだろう。
最初はおっかなびっくりと虎の背に乗っていたアレッタだったが、慣れてくるとだんだん楽しくなってきた。
森を抜け、開けた草原に出る。うわあ、とアレッタは思わず声を洩らした。虎は緑の大地を駆け抜けていく。雄大な自然を肌で感じ、とても爽快な気分だった。
いくつかの丘を越えると、やがて、前方に町が見えてくる。周囲を石壁に囲まれた、立派な城塞都市だ。歩みを止めたヤグウェイの背から、アレッタはゆっくりと降りる。
「大丈夫か」
人型に戻ったヤグウェイが、気遣いの言葉をかけてくる。
「平気よ。ありがとう」
服装を正したアレッタは、ヤグウェイに連れられてロンベルタの町へ入った。
通りは多くの人でごった返していた。そこにいるのは人間だけではない。ヤグウェイと同じ半獣人をはじめ、エルフやドワーフ、珍しいところではリザードマンもいた。
道の両脇にはいくつもの露店が立ち並ぶ。売られている商品は様々だ。果物や干し肉などの食料品から、異国の珍しい素材を使ったアクセサリーまであった。王都とはまた違った町並みに、アレッタの心は踊る。最後にロンベルタを訪れたのは学園に入学する前だから、数年ぶりの来訪だった。
「こっちだ」
ヤグウェイに先導され、いくつか角を折れ曲がる。通行人にぶつからないように歩くのは、なかなか大変だった。
「着いたぞ」
やって来たのは、小さな宿屋だった。石造りの建物で、こぢんまりとしている。見たところ、看板は出ていないようだった。
一人だったらなかなか入りづらい建物だ。気後れするアレッタにかまわず、ヤグウェイは木製のドアを開くと、さっさと中へ入ってしまった。慌ててあとを追う。
「ここで待ってろ」
壁際に置かれていた椅子をアレッタに勧めると、返事も聞かずにヤグウェイは建物の奥へと消えていった。カウンターの奥には老婆が一人座っていたが、特にこちらを気にした様子もない。
きょろきょろと興味深げにまわりを見まわしていると、ヤグウェイが戻ってきた。彼の大きな身体に、見慣れた蜂蜜色の髪がときどき見え隠れする。アレッタは勢いよく椅子から立ち上がった。
「お久しぶりです、アレッタ様」
にこりとテトに笑いかけられ、アレッタは自分の顔が火照るのがわかった。
「こ、こちらこそ。久しぶり、テト」
声を上擦らせながらも、なんとか返事をする。数週間ぶりに目にする少年冒険者は、前と変わらず美しかった。瞬きするたびに揺れる長い睫毛、整った鼻筋、なにかを話すたびに形を変える艶のある唇。アレッタはぽうっと見惚れてしまう。
「ヤグウェイ、彼女に変なことはしてないだろうね?」
「するわけねえだろ」
ヤグウェイは、心外だと言わんばかりに肩をすくめた。それから手をひらひらと振り、宿の出口に向かって歩き出す。
「これでオレの役目は終わりだな。邪魔者はさっさと消えるから、あとは二人で楽しんでくれ。テト、報酬はあとできっちりと支払えよ。わかったな」
「もちろんだよ。ありがとう、ヤグウェイ」
がちゃんとドアが閉まり、ロビーにいるのはアレッタとテト、それから受付の老婆だけになった。
「それじゃあ、アレッタ様、今日はよろしくお願いします」
「よろしくね。あ、テト」
ドアに向かおうとするテトを、アレッタは呼び止めた。「うん?」と端正な顔が振り返る。
「もしよかったら、普通に話してくれないかしら。敬語は使わずに。あと、できたら呼び捨てで呼んでもらえると」
嬉しいわ、と最後のほうは尻すぼみになった。
テトは目を瞬かせたあと、「いいの?」と訊いてくる。アレッタはこくりと頷いた。
「失礼なことを言っても?」
「よほどひどくなければ、不問にするわ」
「わかった。それじゃあ、お言葉に甘えて、敬語はなしにさせてもらうよ」少し間を置き、テトが微笑む。「これでいい、アレッタ?」
どきん、と心臓が跳ね上がった。古びた宿屋のロビーというなんとも味気ない場所が、一気に華やいだかのように見えた。そんなアレッタにさらなる追い打ちをかけるように、テトが左手を差し出してきた。これは、と問えば、手を繋ごうってことだよ、と笑顔が返ってくる。「え、えっと」とおろおろしていたら、テトが自然な動作で手を握ってきた。
「さ、行こうか」
いまだに茹でだこになっているアレッタを、テトは外の世界へ連れ出した。