密やかな文通
「手紙?」
屋敷の前に止まった馬車に乗り込もうとしたテトが、足を止め、振り返る。アレッタはこくこくと首を縦に振った。
「そう、手紙。冒険者の人と仲良くなる機会がこれまで一度もなかったから、なんだか新鮮で。本当はもっといろいろなお話を聞きたかったんだけど、あんなことがあって、それもできなかったでしょう。だから、手紙でテトの冒険を聞かせてほしいな、と思ったの」
だめかしら、とアレッタはテトに問う。
自分でも正直、なぜこんな申し出をしたのかよくわからなかった。ただ、いざ彼と別れるとなると、なぜだか無性に寂しさを感じたのだ。このまま二度と会えなくなると思うと、胸がぎゅうっと締めつけられた。なんとかして関係を持ったままでいられないかと頭を悩ませた結果、たどり着いたのが手紙という方法だった。
「一応、ロンベルタの町を活動拠点にはしていますけど、常にそこにいるわけじゃありません。そうなると、手紙のやり取りは難しいんじゃないですか」
「それについては、問題ないわ」すぐに拒絶されなかったことに安堵しつつ、アレッタは胸を張る。
「うちには優秀な伝書鳩がいるもの。確実に手紙を届けてくれるわ」
「伝書鳩」テトはなにかを考え込むそぶりを見せた。「それってもしかして、アレッタ様の異能となにか関係してるんですか」
えっ、とアレッタは驚いた。その反応を見て、テトがにやりと笑う。
「やっぱり。そうなんですね」
鎌をかけてきたのだ、と気がついたときには、もう手遅れだった。ばれてしまったら仕方がない、と開き直る。
「どうしてわかったの?」
「おかしいなと最初に思ったのは、昨日、客間で話をしていたときです。あのときアレッタ様、フィルミナ様が部屋に来る前に、彼女の到来を予測していましたよね。いったいどうやって知ったんだろうと不思議に思っていましたが、今日のあなたを見て確信しました」
「今日?」
「ええ。フィルミナ様の部屋で、猫に話しかけていたでしょう?」
あそこから見ていたの、とアレッタは上擦った声を上げた。
「気配を消すのは得意ですから」
ぜんぜん気がつかなかった、とアレッタは唖然とする。
「ふざけているにしてはずいぶんと真剣に猫の鳴き声に聞き入っていたので、違和感をおぼえたんです。そこで、昨日のことを思い出しました。フィルミナ様が部屋に来る前、アレッタ様が、窓のところに止まっていた小鳥を見ていたことを。それでぴんときたんです。もしかしたらこの人は、動物の声を理解できるんじゃないかって」
「たったそれだけのことから、よくわかったわね」
感心を通り越して呆れるしかない。これまで長く一緒にいたジョアンヌやキースでさえ、アレッタから告げるまでは気がつかなかったのだ。
「じゃあ、当たりなんですか」
「ええ、そうよ。わたしは、動物と会話ができるの。彼らの言っていることがなぜかわかるし、わたしの言った言葉がなぜか彼らに伝わる。幼いころは、これが当たり前だと思っていたわ。成長するにつれて、わたし以外の人間は猫やネズミと話せないと知って、ようやく自分の力に気がついたの」
宝石紛失騒ぎが、フィルミナの自作自演であることに確信を持てたのも、あの猫がすべてを教えてくれたからだった。
「ご家族はそのことを」
「たぶん、知らないわ。わたしは話してないし、あの人たちは動物に話しかけているわたしを、かわいそうな子としか見ていなかったから」
でなければ、不用心にあの猫をアレッタに近づけるはずがない。
この家で冷遇されていたアレッタにとって、部屋に遊びに来てくれる鳥やネズミはよき話し相手だった。彼らがいなければ、もっと歪んだ性格になっていたかもしれないと思う。
「手紙、いいですよ」
「え」
「手紙のやり取りです。僕に文才はぜんぜんないですけど、それでもよければ、手紙を書きますよ」
「いいの?」
テトの返事が信じられずに、アレッタは訊き返してしまう。冷静になって考えてみれば、テトが自分たちに良い印象を抱いているとは到底思えない。昨日今日の出来事は、彼からしてみれば恩を仇で返されたようなものだろう。自分の感情を優先して後先考えずに手紙のやり取りを提案してしまったが、ひどく図々しいお願いだったことに今更ながら気がついた。
テトはきょとんとしたあと、それから破顔する。
「はい。アレッタ様個人とだったら、全然問題ありません。僕もあなたに、興味が出ましたから」
一瞬、テトの目が、まるで獲物を捉えた猛禽類のそれに見え、アレッタはどきっとする。
――気のせい、かしら。
「それじゃあ、手紙、待っていますね」
「え、ええ」
馬車に乗り込む直前、最後にテトの見せた笑顔が目に焼きつく。馬車が遠ざかり、屋敷に戻ってからも、しばらくその笑顔が消えることはなかった。
テトが屋敷を去ってから二週間が経った。
自室の窓辺に置かれた椅子に腰かけ、アレッタは窓の外を見やる。
空は快晴だった。抜けるような青空に、白い雲が斑のように浮かんでいる。うららかな日差しが差し込み、室内を明るく照らす。
アレッタの部屋のすぐ近くには、一本の大きな木が生えていた。アレッタが生まれる前からこの地に根を下ろし、いつも枝や幹に小さな動物たちを乗せている。幼いアレッタは、それを見るのが大好きだった。天気がいい日には、木陰で読書に耽ったこともある。本を読むことに夢中になりすぎて、時間が経つのを忘れていると、決まってジョアンヌが呼びに来てくれたものだ。
――そういえば、あの子に会ったのも、この木の下だったわね。
アレッタはふと過去の記憶を思い出す。
ある日、いつもと同じように木陰で本を読んでいると、突然誰かに声をかけられたのだ。弾けるように顔を上げれば、見たこともない黒髪の少年がアレッタを覗きこんでいた。
――そのとき、どんな話をしたんだっけ。
思い出そうとするが、ずいぶん昔のことだからか、ぼんやりとした映像しか浮かんでこない。
――あれは誰だったのだろう。どうしていまさら。
じっと木の根元を見ながら考え込んだが、やがて諦める。両手を天井に向け、大きく伸びをした。
風が吹き、葉擦れの音が耳朶を震わせた。枝が揺れ、影が躍る。
「今日も魔物をどこかで狩っているのかしら」
少年のことはすっかり忘れ、代わりにテトの顔が思い浮かんだ。
手紙のやり取りはあれからずっと続いていた。冒険者の仕事で忙しいだろうに、彼は間を置かずに返事を書いて送ってくれた。表現や格式ばかりにこだわった貴族の手紙とは違い、テトの書く文面は非常にシンプルで、だからこそ彼が経験したこと感じたことがダイレクトに伝わってきてとても心地が良かった。何度も読み返しては、誰もいない部屋でアレッタはふふっと笑みを零した。
窓辺にはいつの間にか、たくさんの動物たちが集まってきていた。ネズミに小鳥、猫、それからカラス。皆、アレッタの友達だ。彼らの中にはテトの様子を見てきてくれる者もいて、その報告を聞くのも、アレッタの楽しみの一つだった。
「そう。やっぱりテトってすごいのね」膝の上にやって来たリスの話を聞いて、アレッタは微笑む。「たった一人でグリフォンを倒すなんて」
剣を振るい、雷魔法を打ち出し、空を縦横無尽に飛び回るグリフォンを相手に一歩も引かない少年冒険者の姿を想像する。大鷲の上半身と獅子の下半身を持つグリフォンは図鑑の中でしか見たことがなかったが、その威容はすさまじく、とても人間が太刀打ちできる相手だとは思えなかった。それを倒してしまったのだから、テトの強さはやっぱりとんでもないと言わざるを得ないだろう。
――お金を積んだら、わたし専属の護衛になってくれたかしら。
そこまで考え、すぐにかぶりを振った。お金でなんでも解決してしまおうというところがいかにも貴族っぽくて嫌だった。それに、自分が望んでいるのは金銭に縛られた主従関係ではない。
「会いたいな、もう一度」
外の景色に目を向け、ぽつりと呟いた。
アレッタは現在、軟禁に近い状態に置かれていた。オルテンシア公爵家当主ヴァイセットの命令により、屋敷の外に出ることが禁じられているのだ。彼に忠誠を誓う使用人が常に目を光らせており、アレッタは限られた範囲でしか行動できずにいた。気が向いたときにロンベルタの町へ買い物に出かけるフィルミナが、このときばかりはうらやましかった。
ドアをノックする音が聞こえる。アレッタが応じると、キースが入室してきた。彼の姿を認めた途端、動物たちは蜘蛛の子を散らすように窓から逃げていった。
「申し訳ありません。お邪魔だったでしょうか」
「いいのよ、キース。気にしないで。紅茶が飲みたくなったところだから、ちょうどよかったわ」
彼の淹れてくれた紅茶を飲み、一息入れる。
「テト様のことを考えていらしたんですか」キースは、テーブルの上に広げられた手紙の束を一瞥した。「意外でしたね。冒険者は、こういった作業が苦手だと思っていましたが」
「それは偏見よ、キース」アレッタは苦笑して、従者を軽く窘める。「まあ、わたしもここまで律儀に返してきてくれるとは、正直あまり期待していなかったけれど」
「お嬢様、顔がにやけていますよ」
アレッタは恨みがましく従者を睨みつけた。彼はまったく応えた様子を見せず、嬉しそうに尻尾をぱたぱたと揺らしていた。
キースは宝石紛失騒動の顛末を、あとでテトから聞いたらしい。テトを乗せた馬車を見送ったあと、いきなり部屋を訪れたかと思ったら、私の無実を証明してくださってありがとうございます、と涙ながらに感謝の言葉を述べてきた。それ以来、彼は以前にも増してアレッタに忠誠を誓ってくれている。
――狼というより、これじゃあただの犬ね。
そんな失礼な感想を、アレッタは抱いた。
「返事に書いたらどうですか。また家に遊びに来てもらえませんかって」
キースの唐突な発言に、口に含んでいた紅茶を危うく噴き出すところだった。すんでのところで悲劇を回避すると、顔を上げた。
「冗談でしょう」
「本気です。いつも窓の外を見ているのは、ここから連れ出してくれる王子様を待っているからではないんですか」
「王子様って。もう少しほかの表現はなかったのかしら」
アレッタはティーカップを置く。すぐわきに置かれていた手紙が視界に入り、慌てて目を背けた。
「窓の外を見ていたのは、テトからの返事を待っていたからよ」
「そこまで彼のことを想っているんです。そろそろ手紙だけでは満足できずに、本物を拝みたくなってはいるのではありませんか」
従者の言葉に、アレッタは反論が思いつかない。図星だったからだ。手紙のやり取りが続き、繋がりが切れていないことは喜ばしかったが、彼の几帳面な字を見ているだけではやはり物足りなさをおぼえていた。彼の声を聞きたい。彼の笑顔を見たい。そんな思いが、アレッタの胸中をぐるぐると渦巻いていた。
「テトをこの家に呼ぶわけにはいかないわ。またきっとあの二人に邪魔される。今度は、公爵家令嬢誘拐の罪をでっちあげて、彼を監獄に放り込もうとするかも」
「またずいぶんと突拍子もないことを考えつきますね」キースはいささか呆れた口調だ。
「あの二人ならやりかねないわ。特にフィルミナは」
「では、お嬢様がテト様に会いに行くというのは?」
「お父様からの言いつけを忘れたの? この屋敷から出ようとしたら、問答無用に部屋へ連れ戻されるわ。おまけに彼のいるロンベルタは、馬車でも一時間以上かかるのよ。抜け出せたとしても、移動手段がなければとてもたどり着けないわ」
馬車を使おうものなら、一発で家の者にばれてしまう。
「テト様なら、それでもなんとかしてくれそうですか」
キースはなかなか諦められないようだ。どうしてそこまで考えてくれるの、と訊こうとして、やめた。なんとなく答えは予想できた。
――いくら頑張っても、この関係はいつか終わりを迎えるわ。
アレッタは再びカップに口をつけ、紅茶を啜った。
自分は公爵令嬢。そして相手はただの冒険者。本来ならば、出会うことのなかった二人だ。手紙の交換でさえ、かなり危険な橋を渡っている。もしヴァイセットあたりにこのことが知られれば、公爵家にはふさわしくない行為だとかなんとか言われ、今度は窓のない部屋に移されてしまうだろう。どれだけアレッタがテトの隣にいたいと望んでも、周囲が許すことは絶対にない。