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スターダムの隣人

作者: しろくま

 





 ……例えば、


 例えば僕が存在しない世界の方が正しいと他者が認めるのならば、その瞬間から僕は消えてしまうのだろう。


 そんなことを考えながらこの十数年間を生きてきた。


 ひどく暑い日だった。僕は夏休みだというのに、窮屈な制服に身を包み、重く圧し掛かる沈黙に耐え続けていた。時々耳に届く誰かの啜り泣きだけが僕をこの世界にとどめてくれた。それがなかったら、僕はいまだにこの現実を受け止められないで、ああこれは悪い夢でも見ているのだと必死に自分を騙そうとしただろう。嫌な汗が背中を伝い、シャツが肌に張り付く。




 先輩が死んだ。

 不幸な交通事故で。




 あまりにも非現実的で突発的な出来事に誰もが戸惑いを隠せないようだった。


 先輩がこんな風に死んでいいはずがない。あの本当に格好良い人が、あれほど周囲に望まれた人が。


 ふと辺りを見渡せば、先輩の遺影を見つめるあの人の姿を見つけてしまった。あの人は落ち着いていた、いや、落ち着いているように見えた。もう見ることは叶わない先輩の笑顔を見つめるその瞳は虚ろで、生気を失ったその顔からはおよそ感情を読み取ることはできない。悲しいのか、苦しいのか、腹立たしいのか……僕にはわからない。あの人はゆるやかに、ひっそりと死んでいくようにも思われた。



 高校一年の夏は、喪失のうちに幕を閉じる。











 スターダムの隣人











 いつもなら笑い声が響き渡るその部室の扉を開くと、その中はまるで数日前の葬式場のように鬱屈とした雰囲気に包まれていた。


「……今年の文化祭、どうなるんだろう」


 誰かがそう言った途端ざわめきが起きた。まさかあんなことが、どうしよう……部員たちは苦悶に満ちた表情で意見を交わす。部長であった先輩を失って、誰もが動揺しているようだ。


「まさか、部長が死んじゃうなんて」

「なんで、なんで先輩が」

「部長がいないとできないよ、文化祭………」



 誰かがまたすすり泣き、会話は途切れた。部員たちはすっかり参って、途方に暮れている。3ヶ月後には文化祭という、この部にとって最も大切な行事が控えているのに。先日亡くなった部長は当然主役だった。


「で、でも」


 そんな時、沈黙を破ったのは本当に意外な人だった。


「でも代理を立てればなんとか……」


 ほとんど消え入りそうな声で言う。部員たちは一斉にあの人……真島優菜先輩の方を見る。すると真島先輩と同じ三年生、副部長の藤川先輩がため息交じりに彼女を諭す。


「そうはいっても優菜、三年男子は部長1人で、二年に男子部員はいない。一年に男子はいるけどまだコンクールにすら出たことがない。この脚本にはどうしても男子が必要なのよね?今から書き直すなんてできないでしょう。どうにもならない」

「でも……」

「洋司が……あの部長がいなくなって、普通にお芝居するなんて私には無理よ、ねぇ、優菜だってそうでしょ」


 あの人はその声に押され、ついに黙ってしまった。

 さらに副部長の意見に賛同するように、部員たちは項垂れた。あまりに衝撃的なことが起こって誰もがそれにうまく対処しきれていなのだ。そんな精神状態で充分に文化祭に臨むことができないのは、僕でも十分理解できることだった。


「……とにかく、文化祭には前のコンクールと同じものをしよう、どうしようもないよ、優菜の脚本には、部長が必要なんだから」


 部員たちは副部長に同意したように顔を伏せた。



 三年生は部長を欠いて3名、二年生は4名、一年生僕を含め3名。大きな部活とは言いがたいが、それなりに活発に活動している。練習は週3回月水金。部室は4階に所在。これが僕の所属する、演劇部だ。



 ここで少し僕について話そう。池田翔、高校一年生。学業は中の下、スポーツは大の苦手、これといった趣味もない、自他ともに認める人見知り……自分で言っていて泣けるのだが、こんなやつがどうして演劇部のような精力的な部活に入ったか、実はいまだによくわからない。いや、理由ははっきりしているのだが。


 4月、高校に入学した数日後に行われた新入生オリエンテーションでのことだった。

 上級生による部活紹介。新入生は体育館に集められ、在校生によって各部活の魅力を伝えられる。運動部も文化部もそれぞれの部の持ち味を発揮して新入生を獲得を目指す。在校生にとって新入生オリエンテーションとはいわば部の存続をかけた戦場なのである。


 そこで、入学する前から部活に入る気など毛頭のなかった僕を揺るがす部活が一つだけあった。




「こんにちは!演劇部です!」


 よく通る大きな声で新入生を圧倒する。運動部に比べてどうしても地味になりやすい文化部が、運動部にも引けを取らない存在感を発揮した瞬間だった。地味な文化部が続いて退屈そうにしていた周囲の一年生も一斉に前を向く。


「いよいよ高校生か~何の部活しようかな」

「そこの君!演劇部に入らないか!」


 演劇部らしく、新入生と先輩という設定で小劇が始まる。


「でも、私演劇なんてしたことないんです……」

「大丈夫!演劇部は初心者歓迎だし、僕だって最初は初心者だったんだ!ここには個性的な仲間が……」


 内容はどうだってよかったのだ。その劇の間、僕はある人から目が離せなくなっていた。それが部長……数日前にこの世から姿を消した西池洋司先輩だった。


「ちょっと演劇部、興味が出てきたかも」

「本当かい?演劇部は仮入部期間、毎日活動しているからぜひぜひ来てくれ!」


 まるで演じることが生きることそのものであるかのように、声を張りあげ、目を輝かせ、笑顔を振りまく。世界にはこんな人がいるのか。こんなに幸せそうな人がいるのか。スポットライトを浴び、観客の視線をほしいままにする人が。


「部室は本館4階の403号室!」


 いままで見てきた部活だって、みんな青春を懸けているのだから、ただ何となく生きている僕にとっては全てまぶしいに違いないのに。なぜだかその先輩だけが本当に別の世界の人のように、神様に愛され過ぎているかのように、きらきら輝くようなオーラをまとっていた。容姿がさほどいいわけでもない、身長が特別高いわけでもない、特別観客を魅了するような声をしているでもない。ただ、心の底から、本当に純粋に演劇を楽しんでいる人だった。


「じゃあまた!演劇部で会おう!」


 たった5分くらいの時間だったのに、その後のことは何も覚えていない。部活動紹介が終わるまで僕はまるで魔法にかかったように動けなくなっていた。





 オリエンテーションが終了し、解散の指示が担任から出て教室に戻ろうとする同級生の姿をぼんやり見つめていた時だった。


「西池くん、すごいでしょ」


 突然声を掛けられて我に返る。そこにはおそらく年長の女子生徒の姿があった。


「えっ……?えっと……」

「きみ、すごく見てたよね。わかるよ。私もあの人の演技、とても好きなの」

「あの……」

「あ、急に話しかけてごめんね。私は演劇部三年の真島優菜。演劇部、体験やってるから君に是非来てほしいな」


 そう言うと、じゃあね、と言ってふらっと去ってしまった。

 西池くん……とはおそらく先ほど舞台に立っていた人のことを言うのだろう。見られていたのか、というか気付かれるほど熱中して見ていたのかと思うと、恥ずかしくなった。


 圧倒的な存在感を僕に知らしめた西池先輩とは対照的に、あの人の最初の印象は、つかみどころのない不思議な人だった。


 ところが僕はあの人の言葉をきっかけに演劇部に入ることになるのだ。



 オリエンテーション翌日、せっかく勧誘してもらったんだからという思いで(というより僕はうまい断り方を知らなかったので)僕は演劇部を訪れることにした。


 そこではもうすでに練習が始まっていた。見学しにきた一年生数人と先輩方が発声練習をしている。

 僕に気付いたあの人はこちらを見てにっこり笑った。来てくれたんだねと彼女は笑う。その時、僕にずんずんと近づく影が一つ。


「君!一年生?」


 ぱっと顔を輝かせた、あの舞台に立っていた人がいた。


「あ、はい、池田と言います、見学に……」

「ありがとう嬉しいよ!演劇部へようこそ!さぁさぁ入って!」

「あの、僕は入部希望じゃなくてただの見学で……」

「まぁまぁそんなこと言わず、ほら!」


 半ば強引に部室に迎え入れられ、その後はひたすら先輩方の練習風景を見学した。


「俺は部長の西池洋司、よろしく、池田くん!」


 結局僕はその後、にっこりと有無を言わせず入部届を突きつける部長に対し、断り切れずその場で入部届を提出することになった。しかし本当にどうしてだか、悪い気はしなかった。きっと先輩があまりに嬉しそうな顔をしたからだろう。


 こんなわけで、ぼくの演劇部生活が幕を開けたのだ。





 ▼






 ある一定のコミュニティーの中で座る場所を見つけられないのは、すなわち死を意味する。というのが僕が十数年かけて積み上げてきた持論だ。何が言いたいのかというと、僕は人付き合いがうまくない。


「お前……えっと、誰だっけ?まぁいいや、部活何に入った?」


 教室。後ろに座っていたやつが僕に声をかけた、大方、クラスの奴と親睦を図ろうとしているのだろう。他愛ない会話が投げかけられる。


「え、演劇部、だけど」

「演劇部?へぇ、なんか意外だな」


 そっけない受け答えに、おおよそつまらないやつだと思われただろうか。きっとこれ以降話しかけられることもないと思うと、ほっとしてしまう自分が悲しい。


 同級生と話すのは得意ではない。僕には、同級生が同級生と思えないのだ。同じ時間を平等に生きてきたはずなのに、人間とはどうしてこんなに違っていくのだろう。僕は、自分が持ちえないものを持つ同級生の姿をたびたび怖がり遠ざける性質を持っていた。いつからかだろうか。他人を違う世界の人間だと考えたら、言葉すらまともに交わせなくなっていった。


 人は自分より格下を見つけて安心するというが、僕にはその格下さえ見つけることはできなかった。底辺の人間はどこを向いて歩けばいいのだろう。そもそも歩くことが許されているのだろうか……


 しかし、僕は一歩を踏み出したのだ。能動的でなかったにしろ、演劇部に所属することを決めたのだ。不安を抱えながら、しかし少し自分の変革に期待していた。僕でも変われるかもしれない、そんな淡い期待を抱いていた。




 そんな矢先に、憧れの先輩が死んでしまったのだ。




「西池先輩……」


 どうしてあの人が。もっとも死とかけ離れているような人が、早々に逝ってしまったのだろうか。少しの間関わった僕でさえこんなにもショックを受けているのだから、数年間一緒に演劇をしてきた先輩方はもっと衝撃を受けているに違いない。これから演劇部はどうなってしまうのだろうか。


 先輩の話だと、文化祭の公演は最悪中止になってしまう。やるにしても新しい試みはせず、以前のコンクールを再演するだけになるという。先輩を偲んでということなのだろうが、どうにも腑に落ちなかった。


 僕にできることなどないのだが、あの息苦しい空間の中に居続けるのは苦行以外の何物でもなかった。どうしたものか……そう考えていた時だった。





『池田くん』




 放課後の通学路、誰かが僕を呼び止めた。高校には今のところ親しい友人はいない筈だから、こんな場所で会うとすれば、中学時代のわずかな旧友くらいだろう。誰だ、と振り返ると、そこには予想外の人の姿があった。











 そこには、先日亡くなったはずの西池先輩の姿があったのだ。









「せ、先輩?!」



 僕は驚愕のあまり、持っていた携帯を地面に落としてしまった。


『悪い、驚かせちゃったな』

「どうして?先輩は……」

『あー、うん。死んじゃってさ』

「知ってますよ!」


 しっかりとこの目で見た。あの日棺の中で動かなくなっていた先輩の、青白い顔を。そうだ、先輩は死んだのだ。


『君、もしかして霊感強い?』


 霊感、ということは、今ぼくが見ている西池先輩は……


「先輩が幽霊に……?」

『そういった類のものかな。俺は数日前塾帰りにトラックに跳ねられ死んだ』

「僕疲れてるんだ、帰って寝よう……」

『待てよ、現実だよ!』


 ……つまりこういうことだ、死んでしまったはずの西池先輩は、まだこの世に留まっていた。幽霊、という形で。嘘だ、僕の頭は混乱を極めてとうに使い物にならなくなっていた。そんな僕を、先輩は神妙な面持ちで見た。



『未練があるんだ』



「……未練、ですか?」

『ああ』


 俺は毎日を精一杯生きているから、いつ死んでも後悔なんてしない、とでも言いそうな、およそ未練などという言葉から縁遠そうに思われる先輩が真剣そうに告げた。


『それはもうこうなってしまった俺は叶えられない』

「……え?」

『お願いだ、俺の願いを叶えてくれないか、これは多分、俺の姿が見える君にしか頼めない!』






 ▼





「えっと、つまり先輩は真島先輩と、引退公演の、つまり文化祭で、真島先輩の脚本で最高の演劇をしようと約束していて、その約束を果たしてほしいと」

『うん、そういうことだ』


 今年の文化祭の脚本は、あの人が書いたものだったのか。だから普段自己主張なんてしなさそうな人が沈んだ部員たちに訴えかけていたのか。


『あの子はあの脚本で最高の演劇をして引退したいってずっとずっと願ってたんだ。それを俺が死んでしまったせいで、できなくなってしまうなんて耐えられない』

「なるほど……」

『でも俺の声はもう君以外届かないみたいだし、未練を残したままじゃ成仏もできそうにない』

「……けれど先輩、あの脚本じゃ、男子がどうしても必要になるんです。ずっと考えてきたものだから今さら台本を変えることもできないですし。先輩方も言ってたんですが、今の部の状況じゃ代役を立てられないんですよ」

『どうしてだ』

「だから男子部員が……」


 西池先輩がまるでお前は何を言っている、とでも言いたげな目でこちらを見た。


『君がいるじゃないか』

「……僕が?」


 まったくからかう意図などないといった風に、まじめに話す先輩に、思わず面食らった。


「冗談ですよね?僕は演劇経験なんてこれっぽっちもないし、それに下っ端の一年生ですよ?!先輩の代役なんて務まるわけないじゃないですか!」

『俺がこれから毎日指導するし』

「いやいやいやいや仮に僕がするって言っても、誰も納得してくれないでしょう!」


 ほんの最近入部した一年が、先輩に向かって急に、先輩方!やりましょう!僕がきっちり代役を務めます!……無理だ、寿命が5年くらい縮んでしまう。


「ごめんなさい先輩、本当に気の毒だと思うのですが、僕では無理です」

『どうしてだ』

「僕は舞台に立てるような人間じゃないです」


 妥協と挫折の連続。それが僕の人生。誇れることなど何もなかった。たとえば中学の部活も1か月でやめてしまった。高校も入れればどこでもよかったから、特段勉強することなく自宅から一番近いところを選んだ。学校ではなんとなく授業を受けて、帰宅すれば何もすることなく眠った。死んではいない、けれど決して生きてはいなかった。


『それならどうして演劇部に入ったんだ』

「それは……」


 それは、先輩が無理矢理入部届を押し付けたからだろう。そう言いたかった。そのはずなのに、どうしてか僕はその言葉を口にできなかった。


『……唐突に死んで、また現れたと思ったら、約束を果たしてくれなんておこがましいことを言ってるのは承知してる。けれど、俺にはもうこうするしかないんだ。頼むよ……』


 結局僕はわかったとも嫌だとも言えずにその場を立ち去ってしまった。路上に立ち尽くす先輩の姿はあの演劇部のスターのものとは思えないほど頼りなかった。




 ▼





 翌日、やはりどこか落ち着かず覇気が感じられない部活を終え帰宅しようとしたところ、教室に忘れ物をしたことに気づき取りに戻った。ああ、最近うっかりしていると自分を戒めていたとき、閉めたはずの部室の扉が開いているのに気づいた。そこにはあの人の姿があった。


「真島先輩、何してるんですか?」

「池田くん」

「もうそろそろ下校時刻ですよ」

「ごめんね、ありがとう」


 部室に佇む彼女の手には、あの脚本……幽霊先輩の言葉を借りるなら、彼女の3年間が詰まった台本があった。


「その脚本、真島先輩が書いたんですね」

「うん、できなくなっちゃたけど、どうしても諦めきれなくて……もしかして、西池くんから聞いたの?」

「はい」

「そっか。西池くん、きみのことすごく気に入ってたみたいだしね」

「僕をですか?」

「うん。自分の演技をすごくきらきらした目で見てくれる奴がいるってすごく嬉しそうだった」


 きらきらした目?僕が?信じられず思わず聞き返した。


「あのオリエンテーションの日もそうだったね」

「……」

「あの時は急に声をかけてごめんね。一年生がいきなり先輩に呼び止められるなんてびっくりしたでしょう」


「でもね、私、西池くんの演劇を、あんなに一生懸命に見ている君を見て、声を掛けずにはいられなかったんだ。西池くんの演劇ファンとしてね」


 あの人は本当に嬉しそうに話し続けていた。西池先輩への並々ならぬ思いが透けて見え、僕も胸が痛い。


「どうしてだろうね、そんな人がどうして死んでしまったんだろう?」


 先輩は悲しそうに笑った。彼女も僕と同様現実を受け止められていないのだ。



『未練があるんだ』



 昨日の先輩の言葉が蘇る。僕が選びとれる選択肢は一つしかなかった。



「先輩、やりましょう」

「え?」

「その脚本、文化祭しましょう、西池先輩だって、自分の死で真島先輩の演劇ができなくなるなんて絶対嫌に決まってます」

「でも……」

「僕、やってみますから」


 僕はその日、生まれて初めての一大決心をしたのだった。しかしながら、越えなければならない壁が僕らの前に立ち塞がる。




 ▼






 翌日の部活はまさに地獄そのものだった。どうしても真島先輩の脚本で文化祭をしたいんです、と主張するも、お前は何を言っているんだ決めたことを覆すな一年とでも言いたげな目で例の副部長に睨まれ、怯みに怯んだ。当然のことで、副部長には責任がある。拙い舞台を一番の晴れ舞台、文化祭でやるわけにはいかないのだ。


 どうすればいいのだろう、と混乱していた、そんな時だった。意外な人から助け船がやってきた。


「いいんじゃない?まだ時間はあるし、やってみたら」


 三年の先輩である、部長、副部長、真島先輩ともう一人……八王子先輩だった。


「王子、ちょっと」

「一年生がこんなにやる気出してるんだからやってみたらいいじゃん。熱意が一番大事って西池のモットーだったでしょ」

「でも」

「まぁだめだったら、もう片方はコンクールの時に完成させてるんだからそれをやればいい。じゃあ西池の役を君、池田くんに、他の役はそのままでいいね?」


 副部長はは押し黙ってしまった……どうやら、この先輩……八王子先輩は僕たちの味方をしてくれたそうだ。


「そんなにやりたいなら勝手にすれば?ねぇ優菜、どこまでその脚本と部長に執着する気なの?」

「そんな言い方……」


 あの人がわずかに反論する。しかし副部長は一切怯まず、真島先輩を睨み続ける。


「第一、一年生に洋司の代役が務まるわけがないでしょう、何考えてるんだか……付き合ってられない」


 そう言って副部長は部室から出ていった。乱暴に閉められた扉の音が鳴り響く。部室の空気は一気に冷え込んだ。


「きっついこというなぁ」

「あの、八王子先輩、ありがとうございます」

「ううん、王子でいいよ。あの子ちょっと最近混乱気味だから。悪い子じゃないんだけど、不器用でね」


 八王子先輩は部員たちに「王子」という愛称で呼ばれ、親しまれている。真島先輩とはまた違う、温かくて安心感のある笑みを浮かべる。それは少し部長に似ている気がした。


「それにしても、本当にやる気なの?池田くん、演劇経験ないって聞いたけど。それに優菜も。二人とも本気で練習する気はある?」

「ある、あるよ王子。私頑張るから、練習付き合ってほしい」

「そう、池田くん、きみは?」

「やります」

「わかった。二人とも声が全然出てないから、まず基本からやる。しっかりついてきて!」

「はい!!」


 僕と真島先輩は王子先輩という心強い味方をつけて、立ち上がる。





 ▼





 その日の放課後のこと、またしても同じ場所に幽霊は現れた。


「……ということになりました」

『ありがとう、本当にありがとう!』


 先輩は本当に嬉しそうに笑った。


「それにしても、王子先輩が味方してくれなかったらまずかったです」

『王子か、やっぱりあいつはいいやつだな』

「王子先輩、僕はあまり関わったことはないんですが、どんな方なんですか」

『うーん、そうだな。普段はおちゃらけたところがあるんだけど、演劇のこととなるとスイッチが入って誰よりも熱心に取り組むやつなんだ』


 確かに王子先輩は部活に結構な頻度で遅刻したり、追認課題に常に追われていたり、普段の姿はとても褒められたものではないけど、舞台に立つ先輩は凛としてとても格好いい。


「俺も王子に負けてられないな。しっかり指導するから頑張れよ」

「え?!家でも練習するんですか?!」

「当たり前だろ、何言ってるんだ」

「ぶ、部活だけで、た、体力が……」

「ほら、やるぞ!台本は覚えたか?」

「まだですって!」


 それからというもの、放課後は王子先輩にこってり絞られ、帰宅後は幽霊に熱血指導を受けることになった僕は、ようやく練習地獄から解放されると数秒も経たないうちに爆睡するすばらしいスキルを身に着けた。体がついていかない。なんせいままで引きこもりのような生活をしていたのだから。しかし、始まった試練の日々は、今までの学生生活の中で、間違いなく、一番充実していた。





 ▼




 こうしているうちに、気が付けば文化祭まであと1か月半というところまでついにやって来た。


「大分よくなってるよ!二人とも!」

「本当ですか?」

「池田くん、よくなってるよ!少し前の固さがが嘘みたい!」

「ありがとうございます」


 部長直々の指導も効いているのだろうか?そうだとすれば素直に嬉しい。


「優菜はもうちょっと……そう、そこのシーン。そこを改善すればもっとよくなる」

「うん!」


 例の副部長も、熱心に練習している姿を見て止めようとはしないようだった。衝突してから一度も言葉を交わしていないが、王子先輩がうまく説得してくれたのだろうか。


 どうかこのまま順調に進んで、文化祭当日が迎えられたら、そう望みながら練習に明け暮れる日々を過ごす。









「だるい……」


 しかし、それにしても最近やけに体の調子が悪い。それだけ懸命に練習に打ち込んでいるといえばそうなのだが、授業で起きていられないほど眠たく、体中がだるくて、頭がふわふわする。おかしい、生活リズムは変えていないし昨日は日付が変わる前に布団に入ったはずだ。


「池田くん大丈夫?なんだかしんどそうだよ」

「王子先輩、大丈夫だと思うんですけど」


 今日の練習を終えた後、王子先輩に一緒に帰ろう、と誘われた。


「そうそう、君に聞きたいことがあって、昨日、夜中の三時くらいに、東公園にいなかった?」


 東公園、高校への通学路にある公園のことだ。うちの生徒がよく放課後にたまる憩いの場と化している。


「え、三時?夜中のですか?」

「いや、やっぱり人違いかな。昨日の夜、あまりにも眠れなくて散歩に行ったら、君らしい人影を見たから」

「それはたぶん見間違いですよ、僕は昨日その時間ぐっすり家で眠ってましたから」

「そっか、そうだよね」

「それより先輩こそこそ大丈夫なんですか?」

「私なら大丈夫。ちょっと色々考えてて」


 西池先輩がいなくなってから数ヶ月経った。王子先輩は他の部員たちのように表面に出さないように努めているのだと思うが、喪失の傷は少しも癒えていないはずだ。考えることもあるのだろう。


 自分ももっと頑張らなくては。体がだるいなんて言っている場合ではない。






 ▼





 体育館を借りての本格的な練習が始まる。体調は改善しない一方だったが、ここで倒れるわけではなかった。普段は週3回の活動だが、この時期は毎日になっていた。本番の足音が迫りつつあるのを感じる、ある放課後のことだった。


 帰宅しようとしたとき、教務室付近で真島先輩の姿を見た。どうやらクラスメイトの友人と話をしているらしい。その会話を僕は耳にしてしまったのだ。


「優菜、大丈夫なの?フラフラじゃない!」

「大丈夫、ちょっと眠れなくて……」

「だからって夜中にであるいちゃダメでしょ!私あなたを見かけて本当びっくりしたんだから」

「大丈夫よ、大事なお話をしていたから」

「隣にいた男の子、あの子演劇部の後輩よね?最近あの辺治安が悪いみたいだし、優菜も後輩くんも危ないわよ、あんな時間に」

「うん、でも大事な話をしているの」





 嫌な予感がした。




 話を要約すると、真島先輩と深夜に誰かが会って、それを友人が見つけたということ。演劇部の後輩とは誰か。真島先輩は僕以外の特定の後輩と親しいというわけではなさそうだった。それに男の子……会話の不穏な雰囲気に、僕は動揺し始めた。




「そういえば昨日、夜中の三時くらいに……」




 先日の王子先輩の言葉が頭をよぎる。


 いや、でも。僕は確かにまいきち12時半にはベッドに入って眠っているはずだ。どう考えてもおかしい。僕であるはずでない。


 ただ、ただ一つ、僕の頭をかすめる可能性。もし、もしそんなことが起こりうるのなら、可能なら。確信はない。でももしかして……僕は真実を確かめるため大急ぎで学校を飛び出した。そして姿を探した。







 もし、真島先輩と会っているのが「僕」ではないなら………?








 その姿になって初めて出会った場所で、僕と先輩は対峙した。


「西池先輩」


「僕の体を使って、真島先輩と会っていたんですね」


 そうだ。先輩は僕に憑りついて操っていたのだ。異常なまでの睡眠欲も疲労感も、おそらくこのせいなのだろう。


 今までの僕は何だったんだ、何のために頑張ってきたのか。先輩の代理として役目を全うするつもりでいたのか。先輩にとって僕は、手段に過ぎなかったというのに。僕の存在を借りて、真島先輩と結託して……なら僕はなんだ。何のためにここに存在するんだ。




『すまなかった』



「先輩」

『翔……』


「いいです、先輩、僕の体を使ってください」

『……』

「先輩、使ってください。僕に乗り移ることができるなら、すべての問題を解決できるでしょう。すみません。せっかく指導してもらったのに、演技は上手くなりませんでした。だから僕を使ってどうか舞台に立ってください、それがいいんです」

『翔、違う、俺は』



 この仕打ちはなんだ。一世一代の勇気は、決心はいとも簡単に裏切られた。僕に希望をもたらしたその存在によって。


「……もう演劇部なんかに、行きません。僕を操るなら勝手にしてください。なにも言いませんから」




 それ以来、演劇部どころか学校まで休むようになった。一日中引きこもって布団に包まる日々は、ひどく自分に似つかわしいような気がした。まるで今までの日常が非日常だったように、僕の世界は安定し始めたのだ。何に期待することもなく、何に期待されることもなく、ただ淡々と単調に、誰にも顔を合わせずに一日が終わるのがこの上なく幸福だった。


 引きこもっているのだから当然だが、あれ以来あの幽霊は自分の前に姿を現さなくなった。


 ひどくすまなさそうに、顔をゆがめた先輩を見るのは初めてだった。いつもニコニコ笑っている人のあんな姿を見ることになるとは思わなかった。見たくもなかった、僕を演劇部に誘ったスターの暗い顔なんて。


 本当は、先輩が僕の存在を否定したなんて思っていない。乗っ取ろうとしているはずがないこともわかっている。

 ただやるせなかった。僕は勘違いしていたのだ、先輩に選ばれたのだと。けれど、約束を果たせるなら、誰でもよかったのだ。自分の姿が見える人物であればそれでよかったのだ。他の一年生でも先輩方の誰でも。それを自分は先輩に見込まれた特別な存在だとうっかり錯覚してしまっただけだ。


 僕ではやはり「役不足」なのだろうか。


 ただ一つだけ気になったのは、僕自身を奪い取るとは到底思えないあの先輩が、そんなことをしてまで何故深夜あの人に会いに行ったのか、何を話したのか、それだけだ。


 そう悶々と考えている時だった。




「翔、お客さんが来ているわよ」

「え?」


 母が戸惑いながら僕を呼ぶ。それもそのはず、玄関に立っていたのは、僕も全く予想もしていなかった人物だった。


「突然押しかけてごめんなさい」


 演劇部副部長、藤川玲香先輩がそこに立っていた。




 ▼







 とりあえず、リビングに案内し、お茶を差し出すと先輩はありがとう、といってじっとこちらを見た。


 いったい何を言われるのか。対立して厳しい言葉を浴びせられてから、僕は副部長と話をしたことがなかった。恐らく啖呵を切っておいて練習から逃げ出した僕を糾弾しにやってきたのだろう。当然、悪いは全てを捨てて逃げた僕の方だ。



 しかし、藤川先輩の発した言葉はその来訪を超えた、予想をしえないものだった。



「今日はね、謝りに来たの」

「えっ」

「ごめんなさい。あの時わたしは池田くんにとても失礼なことを言った」


 副部長が後輩の僕に向かって深々と頭を下げた。


「焦っていたの、ごめんなさい」



 そして先輩は2つも年下の僕に、先輩が抱えてきた痛みを告げてくれた。





「洋司が死んで、私はどうすればいいか分からなかった。副部長という立場をもらいながら、私はいつもどこかで部長だった洋司の後をついていくことしかできなかった。でも、部長がいなくなった今の演劇部をまとめるべきなのは副部長である私の役目」


「気持ちだけが焦って周りのことを考えられなかった。優菜にもきつく当たってしまった。私は必死に洋司の存在を頭から消そうとしていたから、思いおこさせようとする優菜の態度がどうしても許せなかった。洋司に執着してるのは、優菜じゃなくて私なのにね………」


 藤川先輩は話し続ける。


「でも私だって、いや部員全員がわかっていた。洋司が望んでいるのは既存の消極的な演劇じゃない。優菜の台本、何回も読んだ。何回も何回も舞台を描いた。舞台に立つ洋司やみんなの姿を思い描いた」


「池田くんには辛い役回りをさせたね。男子部員がいないからって」


 本当に申し訳なさそうに、先輩は再度僕に頭を下げた。


 一年なんかに、代役ができるわけがない………藤川先輩は確かにそういった。あれは僕を批判した言葉というよりも、西池先輩の喪失を受け止めきれず、取り残された副部長という重い責任に耐えきれなくなっていた悲痛な叫びだったのかもしれない。


 ああ、少しだけ分かった。この人は、真島先輩ほど弱くはないけれど、西池先輩より強くはないのだ。そして不器用だけれどもこの部活の中で一番優しい人なのだ。



「優菜がね、私が池田くんを傷つけてしまった、私のせいだって、ずっとずっと泣いてた。君と優菜の間に、もしくは洋司との間に何があったかはわからないけど、私は戻ってきてほしい、君に」

「藤川先輩……」



 帰らなければ、と思った。

 西池先輩や真島先輩のためにではなく、自分のために。


 もう一度、舞台へ上がらなければ。本当に僕は死んでしまう。




「ありがとうございます、藤川先輩。必ず明日から部活に出ます」


 それを聞いて藤川先輩はホッとしたように笑顔を浮かべた。


「本当にすみませんでした」

「うん、君の演技、ほんとうにひどいよ。もっと練習積まなきゃ」


 先輩が一冊のノートを僕に差し出した。開いてみると、僕が部活を休んでいた期間、どのような練習をしたのか事細かく記されていた。僕はそのノートを握りしめて、先輩の何倍も深く深く頭を下げた。




 役目を終えて帰ろうとする先輩の背に問いかける。誰かに聞いて欲しかった問いを、この先輩なら受け止めてくれると思った。




「先輩、最後に一つ馬鹿な質問をしていいですか」

「うん」

「西池先輩は、今何をしていると思います?」

「洋司が?」


 予測不可能な問いだったのか、藤川先輩は少し驚いて、顔をしかめた。


「……そうね、俺はいつ死んでも後悔しない日々を送るって言ってたから、潔く死を受け入れてどこかで私たちを見守って………いや、」



「……そんなことないかな、あの人、舞台から降りれば普通の高校生だから。おせっかいの心配性で、成仏せずにハラハラしながら演劇部と部員を見てるんじゃないかな」


 そういって笑った。西池先輩がこの場にいたら苦笑いするだろう、それくらいに藤川先輩の予想は的を得たものだった。




「待ってるよ、池田くん、じゃあね」





 ▼






 僕がいなくても世界は勝手に進んでいく。一週間ほど休んでおり、ようやく登校したにも関わらず、担任に一言体調はもういいのか、と聞かれた程度で周囲は自分の不在にすら気づいていないようだった。しかしそんなことを気にしている暇はなかった。とにかく放課後になったら部活に出て、真島先輩と話さなければならない。


 そんなことを考えながら昼ごはんをかきこんでいた時、だった。


「池田くん」



 反射的に名前が呼ばれた方を振り返ると、教室のドアの近くに真島先輩が立っていた。いつもより表情が硬く、緊張しているようだった。


 教室を出て、いつもの部室まで僕たちは無言で移動した。部室に入り、しばらくの沈黙の後、最初に口を開いたのは真島先輩だった。



「ごめんね、池田くん」

「あなたには本当にひどいことをした」



「真島先輩」

「本当にごめんなさい」


 その声は涙をこらえているかのように震えていた。


「もういいんです、先輩、僕こそ急に練習に来なくなってすみませんでした」


「でも一つだけ聞きたいことがあるんです。だから学校に来ました。先輩、西池先輩とは何を話したんですか」



 真島先輩は涙を拭き、決意したように僕の目をまっすぐ見つめた。



「………文化祭の話をしていたの」

「えっ」


「うん。最近よく眠れなくて、いや、あの人を失ってからずっと。外に出てずっと考え事をしていたの」


「そんな時に池田くんが現れてびっくりした。どうしたの?って問いかけたら俺は西池だって告げるものだからもっと驚いちゃって。でも、すぐにあの人だと分かった」


「あの人はあなたのことばかり話していた」


 ぼくのことを、話していた?



「うん。池田くんのことばかり。願いを叶えることを引き受けてくれて本当にうれしかったということ。演技もどんどんうまくなって、まるで自分に弟子ができたみたいで本当に嬉しかったこと。あなたが頑張ってることの喜びをどうしても私に伝えたかったみたい」


 そんな、僕はてっきり、先輩は僕の体を使って真島先輩と約束を無理矢理果たそうとしていると思っていた。僕の演技に限界を感じた先輩が僕抜きで、うまくことを進めようとしているかと思ったのに。先輩は僕の問いを否定しなかったのだからそうだと思ったのに。


「あなたがあんな風に熱心に台本をやろうと言ってくれたのは、あの人に頼まれたからなのね。ごめんね、結局私のせいだものね……」

「そんな……」


 どうして、それならどうしてそういってくれなかったのか。思い込みで先輩を強く批判したことを今さらになって恥じた。


 だったら尚更、舞台から離れるわけにはいかない。



「あのね、池田くん」


「……私はね。一年のとき、あなたのように演劇部に憧れて入ったはいいものの、周囲に比べて演技力はないし、あまり積極的に練習についていけなくてね、それでサボっていると周りの部員に言われて、みんな嫌になって、一時期やめたことがあったの」


 真島先輩が一度部活をやめていた……?先輩は少しバツが悪そうに続ける。


「それでも、あの人だけは何度も、演劇をやろう、まだがんばれると毎日のように言われた。最初はものすごく鬱陶しかった。あなたみたいに明るく振舞えないしって言ってやったの」


 僕と死後の先輩が初めて対峙したあの時と重なった。僕にはできない、無理だ……そんなことを言った。


「それなら脚本だ、なんて言って私に脚本を書くように薦めてきた。演技力がないなら裏方に回ろうって。どうしてそんなに私に執着するのって言ったら、一度演劇部に入ったんだから仲間だろう、演劇は役者だけじゃ絶対に成り立たない。支えが必要なんだ。隣にいてくれる人が必要なんだと熱弁してね」


「どうしても聞かないから、仕方なく一本脚本を書いてみたら、予想外に先輩方にも好評で、うれしくなっちゃって、少しずつだけど演劇部に復帰していった。役者になることはなかったけれど、私は楽しかった」


「それで、彼と約束した。最後の文化祭は、脚本を書いて、役者になろうと」



「一生懸命考えた脚本、それこそ私の高校の、演劇部としての最後だから、どうしても譲れなかった。そんな私の気持ちを、あの人は尊重してくれた……」


「それに私は付け込んで、ただあの人に会えるのが嬉しくて君を傷つけたのごめんね、本当にごめん」


 きっと嬉しかったのは真島先輩だけではない。西池先輩もだ。彼はその気持ちを後ろめたく感じていた。だから僕に言い訳をしなかったのだ。


「本当にごめんなさい。あなたを私の願いに強制的に加担させることになって。そして傷つけてしまって……西池くんにも、もうやめるって言ったから。王子とかみんなには私から説明する」


「先輩……」


 わざわざ僕の家まで訪ねてくれた藤川副部長の悲しそうな笑顔と、新入生オリエンテーション、あの時の西池先輩の顔が浮かんだ。




「ごめんなさい、勝手に不貞腐れて、やめようとして。でももう覚悟を決めました。もう一度やります」

「そんな、でもこれ以上、」

「藤川先輩とも約束をしました。僕はもう、先輩の代わりでも何でもいいです、だから」


「もう一度頑張ります、だからお願いです、真島先輩も頑張ってください」


 気付けば僕の双方の目からはとめどなく涙があふれていた。どこかへ消えてしまった西池先輩にも聞こえるように、心の底から大きな声を出した。


「絶対立ちましょう、文化祭の舞台に」





 ▼






 真島先輩と和解したその日の放課後、当然、王子先輩からは藤川先輩の何倍もこっぴどく叱られた。主役が公然とサボっていたのだから当然だった。それでも僕の目を見て先輩は頷く。


「戻ってきたということは本気になったってことだよね」

「はい」

「もう弱音を吐いている時間はなくなったよ。あと二週間、死ぬ気でやらないと仕上がらないよ。覚悟は?」

「あります。お願いです!もう一度チャンスをください」

「王子お願い、私も絶対に、頑張ってみせる」

「わかった、絶対仕上げよう」



 そして本番までの二週間。ほかの役者との兼ね合い、細かい動き、照明音響の調整に苦心しながらも、完成に近づけていった。


 完全にはないにしても、初心者にしては十分だという藤川先輩の最大級の評価を胸に、リハーサルを終え、本番前日になっても、依然、あの幽霊が現れることはなかった。


 もしかしてもうあの世に行ってしまったのだろうか。そんな一抹の不安を抱えながらも、どこかで見ているだろうという希望を胸に本番を迎えた。


 がちがちに緊張している僕にも増して、真島先輩は緊張していた。僕より二つも先輩だといっても、役者ということに関しては僕と同期、初心者なのだ。


「大丈夫、二人ともがんばってきたんだから」

「はい……」


 王子先輩の激励に、僕らは決意を固めた。





 ▼





 先輩の書いた脚本は……何百年と生きる人魚はある日、溺れている人間の青年を助ける。その青年との出会いが、人魚の凝り固まった心を解かしていき、青年自身も変わっていくというストーリーだ。


 人魚役に真島先輩、青年役に本来は西池先輩、つまり僕が充てられているのだ。監督の藤川先輩や王子先輩、他数人の先輩方の力を借りようやく舞台が成り立つ。



 いよいよ劇が始まる。観客を目にし意識が遠のきそうになるのをギリギリの理性が止める。立ち上がりは上々。僕も先輩も緊張してはいるものの、大きく失敗することはなく、終盤まではトラブルはなく進んだ。





 しかし、終盤に差し掛かる、そんな時だった。真島先輩が震えだしたのだ。観客にはおそらくわからない程度にだが、極度の緊張のあまり口元が震えている。まずい、この後は先輩の見せ場だというのに。


 しばらくの沈黙。聞こえてくるはずの台詞はない。どうしよう、先輩は動かない、静寂が訪れる。不穏な顔をする観客、舞台そでに見える先輩も不安そうな顔を向けた。どうしよう。このままじゃ……


 絶対に成功させなければならない。僕のすべてをかけてでも。西池先輩のために、真島先輩のために、そして弱い自分を打ち破るために。


 どうする、どうすればいい、



「西池先輩」






 あなただ。

 僕と真島先輩にとってのスターはあなたしかいない。





 西池先輩、










『ごめん、もう一度だけ、許してくれ』


 懐かしいあの声が聞こえた瞬間、僕は演者からたった一つしかない特等席の観客になった。




『大丈夫だよ、きみなら』

『きみはぼくを愛してくれた、とまではいかないでも、受け入れてくれた。こんな僕を。どうしようもない僕を。きみは一人なんかじゃない……僕はきみと違って人間だからすぐに死んでしまうけど、必ず生まれ変わって会いにいくさ、だからきみは、きみは一人なんかじゃない』


 僕の口から、言葉がつむぎだされる。もちろんこんなセリフは台本にない。西池先輩自身が、劇に沿って送る真島先輩へのエールだった。


 真島先輩ははっとして僕の中に宿る西池先輩を見つめた。おそらく僕が僕でないことを理解したのだろう、先輩の目から涙が零れ落ちた。


『分かった』

『私は必ず生きる。だからあなたも幸せになって』


 涙を流しながら必死に言葉を紡ぎだす先輩の姿に、観客たちも息をのんで見守る。


『さようなら』


 そう呟いた瞬間、体の中から何かが抜けた。

 青年が立ち去るシーン、そこからは台本通りに進んでいった。そして、幕が下りる、途端今までに聞いたことがないほど盛大な拍手が僕の身を包んだ。



 初めてだった。初めて、初めて生きていてよかったと思えたのだ。薄暗い路地裏から抜け出した瞬間だった。幕が下りきったとき、涙が止まらなくなっていた。崩れ落ち、肩を震わせ、むせび泣いていた。先輩も泣いていた。盛大な拍手の中だというのに、僕たちはこの世界で一番静かな場所にいるように思えた。緊張感から解き放たれ、僕たちは理性を失ってわんわん泣き喚いた。そこに王子先輩も駆け寄り、僕らは抱きしめあって喜び合った。




 そして文化祭もまた、あっという間に幕を下ろしたのだ。






 ▼







「先輩、ここにいたんですか」


 後片づけが終わり、閑散とした体育館に僕らは立っていた。先ほどまでの拍手の海が嘘のように、そこは静まりかえっていた。


「池田くん、本当にありがとう、あなたのおかげよ」


「そんなことないです、僕はただ西池先輩の」

「いいえ、もしあなたがいなかったら、私はこの舞台に立つことはなかった」

「でもそれはやっぱり僕ではなくて……」


 おそらくもう、西池先輩はこの世から姿を消す。約束は果たされた。彼をこの世に縛り付けるものはもうなくなってしまったのだから。


「………先輩、真島先輩にとって、西池先輩はどんな人だったんですか?」



「わかるよ。私もあの人の演技、とても好きなの」

 初めて真島先輩と出会った時のあの言葉を思い出しながら僕は問う。



「私の憧れそのもの」

「憧れ……」

「なんだか変な言い方だね。もうね、好きという感情なんてとっくに飛び越えてるの。尊敬してやまないの」


「だから、あの人が死んで、私はとても悲しかった」


 あの夏の日、表情を亡くした真島先輩の姿を思い出す。僕らは確かにあの日、西池先輩と共に死んだも同然だった。


「でももう、大丈夫みたい」


 そうだ、僕らはもう大丈夫、進んでいけるんだよ、西池先輩。



 西池先輩。



 西池先輩、僕はあなたに、まだ感謝も謝罪も伝えていない。いないじゃないか。





「っ……西池先輩いますか!いますよね!本当にありがとうございました!あの時勝手に勘違いして、勝手に怒って、傷つけてすみませんでした!」


 まだ近くにいることを信じて。僕は体育館の中心で叫び始めた。はたから見れば変質者以上の何者でもない。それでも僕は雄叫び続ける。


「僕はやっぱりまだまだだめな人間です!先輩のようにうまく演技もできないし、誇れるものもありません!」


「でも、あの舞台の後、生まれ変われた気がするんです!先輩のおかげです!!」


 叫び終えて息を切らす。すると、真島先輩まで体育館の中で絶叫を始めた。


「西池くん!私も、私もほんとうにありがとう!死んじゃってまで約束のことを気にかけてくれて!」


「私を演劇部員にしてくれて、私を見捨てないでいてくれて、約束を果たしてくれて、本当にありがとう!絶対に私、忘れないよ、あなたのこと!!」


 ……その時だった。


『ありがとう』


 どこからともなく声が聞こえた。


『俺の見てきた中で最高の舞台だった』


 真島先輩にも聞こえているようで、僕たちは必死に先輩の姿を捕まえようとあたりを見回した。けれどどこにも見当たらない。不思議な声は続く。


『優菜、もっと自信を持って。脚本だけでなく、君は役者としてもやっていける』


『翔、いろいろと迷惑かけた。俺の姿が見えるのが君でよかった』


『君は大丈夫だ。俺が保証する……もし、もしよければ、これからも演劇部を続けて舞台に立ってほしい』


『うん、叶うなら、これからも君たちの演劇を見続けたい』




「西池くん!」

「先輩!!」



『じゃあまた!演劇部で会おう!』



 オリエンテーション、あの時と同じような高揚感が僕を襲った。会いましょう、先輩。何度でも演劇部で。僕らは待っています。



 でももうきっと、二度と会えない。それなのに僕も真島先輩も、不思議とさみしくは感じなかった。







 ▼








 文化祭数日後、真島先輩に話があると言って僕を呼び出された。


「池田くん、私、大学に行っても演劇を続けようと思うの」


 先輩は憑き物が落ちたかのように和やかな笑顔を浮かべた。


「本当ですか」

「うん、今度は西池くんのためだけじゃなく、自分のために。あの人が愛していた演劇を、いつか自分のものにするため……そうだ、池田くんはどうする?演劇部」


 あの舞台を終えてから、西池先輩と最後に言葉を交わしてから、僕の決心は揺らぐことがなくなっていた。


「……続けてみようと思います。まだまだ未熟で、先輩方の足元にも及びませんが」


 西池先輩が僕に残した欠片を拾い集めたい、そう思うようになっていたのだ。


「そっか、ううん、続けてくれると言ってくれたこと、何よりうれしい」


 先輩は僕に何かを手渡すと、志望校の赤本を抱えて去って行った。


「また来るよ、卒業しても部活に来る。だからちょっと待っててね」


 手渡されたのは、真島先輩が数ヶ月間毎日のように握りしめていた舞台の台本だった。どのページもしわくちゃで、大量の書き込みがされていた。







 ……文化祭での劇は概ね好評だった。当然ながら、去年の方がクオリティが高かったと一部では不評だったが、感情を込めた演技や、ストーリー性が評価され最悪の事態にはならなかった。


 僕はというと「一年生なのに主役級に抜擢されたすごい奴」というなんとも迷惑なレッテルを貼られ、その誤解を解くことに必死になっている。三年の先輩方は引退され、本格的な受験勉強に入っている、らしい。時々推薦で大学が決まった王子先輩や勉強の合間に藤川先輩が部室にやってきて後輩に指導している姿を見かける。演劇部では代替わりによって新部長の二年生の元で、次のコンクールの練習が始まっていた。今回はもちろん僕に役は与えられていないが、練習にはほぼ毎日出ていた。






 文化祭終了後、幽霊の姿を見ることはやはりもうなかった。



 先輩が死んで、僕が生きている理由なんてやっぱり分からなかった。


 例えば、僕が存在しない世界の方が正しいとみんなが認めるのならば、その瞬間から僕は消えてしまうのだろう。



 それでも、それでも世界から淘汰されるまでは僕の日常は続いていく。毎日それなりに生きていくのだ。来年、また舞台に立つ真島先輩の姿を楽しみにしながら、僕は僕自身を演じ続けていく。




 先輩を奪った夏を越え、激動の秋を駆け抜け、長い長い冬を乗り切り、新しい春が来る。





 そして僕は高校二年生になる。演劇部平部員をしながら、毎日生きていく。






2014年に部活の部誌用に書いていたものの、載せることはありませんでした。

2016/12/16 加筆修正を行っています。


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