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call  作者: 水居
一章:寂静の少女
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寂静の少女(5)

 

 先ほど見たもう一つの扉、廊下を挟んで居間の向かい側の部屋が、(くだん)の“ばするーむ”とやらのようだった。

 洗面、トイレと続けて扉を開くと、タイル張りの浴室が現れた。白とエメラルドグリーンのタイルがチェックになるように貼られている。室内は明るく清潔だった。

 ニルヴィナが物珍しさにきょろきょろしていると、前に居るゾロが彼女を振り返った。

「いまはお湯を沸かしてないから水しか無いんだけど、それでもよければ体を拭うといいよ。もしお湯に浸かりたいなら沸かすけど、どうする? この街が初めてなら藤の湯にも行ったことないでしょ? そうだ、公共浴場に連れて行ってあげようか」

 ニーナは首を振った。“ばするーむ”とやらの使い方はよくわからないし、外に出るのは怖くて嫌だった。“街”と言うことは、人がいっぱい居るのに違いない。こうして親切にしてくれるゾロですらまだ慣れないのに、知らない人が沢山居る街の中なんて恐ろしくて居られない。

 ゾロは、そ、と軽く頷いた。所在無く俯いているニルヴィナを見下ろし、彼はなにを思いついたのか悪戯っぽい顔をした。

「じゃ、代わりにいい所を教えてあげようか。ボクの家の取って置き、その一ね。付いておいで」

 またニーナの横を上手に通り抜けて、ゾロが勝手知ったる彼の家中を進んで行く。不安や警戒は消えなかったが、取り残されるのも心細かったので、ニルヴィナはとことこと彼の背に付いて歩く。

 先を行くゾロがこの街は“ティル・ナ・ノーグ”と言うのだと教えてくれた。ニーナの知らない街の名だった。

 階段を降りるゾロが説明をする。

「ボクはこの家でお店をやってるんだ。一階がお店で、二階から上がおうちね。二階はさっき見た通り、居間と台所と食料庫、バスルームがある。三階はボクの書斎とか客用寝室とか空き部屋とか……四階にも客用寝室と書斎や主寝室があって、五階も客用寝室……って言うかもう使ってない客用寝室なんて全部空き部屋だよね、それと倉庫とか。なにせボク一人だからねぇ、使ってない部屋が多いんだよ。もう掃除が大変なの大変じゃないのって、まったく誰が五階建てなんかにしたんだか、いやボクなんだけどさあ――さ、着いた」

 なめらかに動き続けるゾロの舌をニルヴィナが密かに感心していると、二十七段目で階段は終わった。これより下への階段は無い。一階に着いたようだ。

 少し先にある廊下の曲がり角をゾロが指差す。

「あそこを曲がって行くとお店。で、こっちのドアを開けると、」

 階段を降りてすぐの壁にある扉をゾロは押し開いた。

 途端、眼前に緑が広がる。

 目を(みは)るニルヴィナの横でゾロがにっこりする。

「ボクの庭。おいで」

 導かれるまま、ニーナはおずおずと庭へ降り立った。踏み締めた芝は青々として柔らかい。

 さっき上階の廊下の窓からニルヴィナが見下ろした庭だった。実際に目の当たりにしたそこは、想像よりずっと広かった。

 庭の周囲をぐるりと塀が取り巻いている。高い壁に囲まれてはいるが面積のお陰か緑の園は明るい。上を向いても見えるのは壁の白と、庭を囲むように植えられた木々の緑と、空の澄んだ青さだけだ。

 壁に沿って植えられた樹木の茂った枝葉によって、隣接する建物から見え(にく)くなっているようだった。周囲の建物の高さが三階くらいまでしかないことも、この庭を衆目から隠している一因だろう。そこは、(まさ)しくゾロの私的な庭だった。

 庭の中央は開けて日当たりが良い。その周りはゾロが集めたのであろう種々(くさぐさ)の花や草が茂っている。マーガレットや薔薇のようなニルヴィナでも知っている物もあれば、見たこともない植物も沢山植わっていた。

 森ほど途方のない場所ではなかったが、庭の空気は草木(そうもく)と土の匂いを含み澄んでいた。どこか(こずえ)から鳥の歌が聴こえ、視界の端を蝶が舞った。風に揺れる木々の囁きが心地よい。

 街中の、それも活気に溢れる商店街のど真ん中にあるとは思えないほど、穏やかな場所だった。

「けっこーイイ庭でしょー? この分で余計に税がかかるってるけど、やっぱり緑の無い所には住めないもんねぇ」

 辺りを見回すニーナの後ろでゾロが伸びをしている。

 ふと、庭のどこからか(ほの)かに甘い匂いがしていることにニルヴィナは気づいた。香りの元を探して周囲を窺えば、やがてその視線は一本の樹木へと辿り着く。

  白い花が星のように咲いている木だった。葉が大きいことと咲き方がやや(まば)らなことも相俟(あいま)って、花は少しばかり控え目な印象だ。

「……あの、木……」

「ん? ああ、あれね、銀木犀だよ」

「ギン、モクセイ……?」

「うん。この街に定着させるのはなかなか苦労したよ~。金木犀の方が香りも強いし華やかで素敵だけど、ボクはこっちの方がすき」

 そんなことを語ってから、ゾロはニーナに告げた。

「さて、ボクはそろそろ仕事をするけど、キミはどうする? ここが気に入ったのならここで遊んでてもいいよ。寝てばかりじゃつまらないだろうし、閉じ籠もってても体に悪いだろうしねえ。出来れば植物はあんまり荒らさないで欲しいけど、木登りくらいボクはうるさく言わないよ。ああ、あの辺りの花なら摘んでもいいかな。井戸には近付かないでね、落ちても助けてあげられないよ。鍵は開けておくから飽きたらいつでも中に戻っておいで――あ、そのときは靴が汚れてたらちゃんと泥を落としてね。約束。で、どうする?」

 ()かれ、ニルヴィナはここに居たいと答えた。折角だから庭の中をもっと色々見て回りたい。

 ニーナの返答に頷き、ゾロは屋内に戻って行った。彼は鍵は開けておくと言っていたが、ニルヴィナはついつい扉が閉まった後に耳を澄ましてしまう。彼の言葉通り、鍵を掛けられたような音はしなくてほっとする。

 安心して、彼女は気になっていた銀木犀の木へそっと歩み寄った。近づくと、強烈というわけではないがより濃く、馥郁(ふくいく)たる香りがニルヴィナの身を包んだ。目を閉じる。濃厚で爽やかな、甘い匂い――ニルヴィナは、どこかでこの香りを嗅いだことがあるような気がした。

 ニルヴィナはその木に(もた)れ掛かった。昼下がりの直射日光を遮る枝葉がニーナの頭上でさやさやと内緒話をしている。木洩れ日が若草へ絶えず様々な光の模様を投げ掛ける。暑すぎず寒すぎず、春のような丁度のよい気温が心地よかった。

 そのまま、ニーナはゾロが夕食を告げに来るまでの間、そこで日向ぼっこをしたりてんとう虫を観察したりして過ごした。

 靴はそんなに汚れていなかったが、家の中へ上がるとき念のためマットで底を(ぬぐ)っておいた。

 夕食を一緒に()るか部屋で摂るかをゾロに(たず)ねられ、ニルヴィナは少し迷って部屋と答えた。徐々に慣れて来たとはいえ、彼はまだよく知らない人だ。それを聞いても、やっぱりゾロは気を悪くした素振りも見せず、至って気軽にニーナの返答を了承した。

 三階まで戻り、ニルヴィナはゾロに言われた通り洗面所で手を洗う。ニルヴィナが“きゃくようしんしつ”へ戻ると、またナイトテーブルの上に食事が用意してあった。併せて、昼に目覚めたときには無かった小さな椅子が置いてある。既に部屋にゾロの姿は無い。

 ニルヴィナは本日二度目の食事を摂った。今度は、ちゃんと椅子に座って。

 夕食は熱いホワイトシチューと丸パンだった。盆の上には主食、主菜と共にサラダとデザートが並んでいる。コップと水差しの中の水はよく冷えていた。

 瑞々しい萵苣(ちしゃ)のサラダにはドレッシングが添えられている。瓶を傾け適量をかければ、サラダがあっさりとフルーティな風味になった。その調味料がワインビネガーという名前だとニーナは知らなかったが、葡萄の果実酢のさわやかな酸味は彼女の食欲を大いに刺激した。

 シチューにはクアルンのミルクとチーズがたっぷり使われ、濃厚でまろやかな味わいである。よく煮込んで柔らかくなったクアルン肉と芽キャベツとが、ニルヴィナの舌の上でとろける。

 素朴な丸パンは外が香ばしい狐色で、中は真っ白だった。(かじ)り付けば、歯がふんわり沈んでゆく。パンはシチューとよく合った。さっきゾロが作っていたパンだろうか。

 デザート皿に乗せられた大きなマスカット三粒を食べきって、ニルヴィナは空の食器が載った盆を棚の上へと運んだ。この方がゾロも片付けるのがラクだろうと思ったのだ。

 窓辺に用意されていた洗面器を持って洗面所まで赴くと、ぎこちなく顔を洗った。備え付けのタオルは真白く、肌に優しい柔らかさだった。軽く口を(ゆす)いで部屋へ戻る。

 ベッドに入る頃には日はすっかり空を去り、夜が藍色の衣で世界を(くる)んでいた。危ないから消さなくていいよ、とゾロに言われていたので蝋燭(ろうそく)はそのままにしておく。真っ暗な部屋で眠らなくて良いことに、ニーナは心から安堵した。

 今日はそんなに運動をしたわけではないのだが、お腹が膨れてから強い眠気に襲われている。飲まず食わずで走り通しだった体は、まだまだニルヴィナに休息を求めているのだ。

 ふかふかの枕に頭を預け、夢の世界に攫われてゆくまでの僅かな間、ニーナはあれこれと考え事をする。

 ゾロと名乗ったあの人は普通の人間には見えないが、一体何者なのだろう。最初はニーナと同じ“じっけん”された人なのかと思ったが、“あそこ”のことを知らないようなので違うらしい。この街にはゾロのような人がいっぱい居るのだろうか。そのうち訊いてみたいが、口下手な自分に上手く質問できるだろうか。どうしたら彼のようにすらすら喋れるのだろう。

(……あ……お礼、言ってない……)

 次に会ったら言おう。言えるだろうか。

 そう思ったのを最後に、ニルヴィナの意識は途切れた。

 一番星が笑うのと時を同じくして、少女は眠りの底へ落ち込んで行った。

 

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