寂静の少女(4)
青年の金色の猫目と目が合って、少女は身を竦ませる。
殆ど逃げ出しかけた少女へ男が気さくに声を掛けた。
「おや、起きて来たんだ。体は大丈夫?」
如何にもいま気が付いた、という素振りで少しだけ目を大きくして、彼は親しげな笑みを口許に刻んだ。片手を上げ、少女へ向けて緩く手を振って来る。締まった腕は張りのある褐色の肌に覆われている。首を傾げた拍子に男の左耳の鈴がしゃらしゃらと鳴った。
友好的な様子の人に失礼な態度を取り続けるのも良くないだろうと思って、とりあえず少女は首を縦に振る。けれど警戒は解けず声は出ない。
男性は調理の手を止めて少女の方へ体を向けた。しかし近づいて来る素振りは見せないので、なんとか少女はここに留まって居られた。彼が一歩でもこちらへ向かって踏み出していたら、怖くて駆け出していただろう。
布巾で粉まみれの手を拭いながら彼は少女へ訊ねた。
「ご飯は食べた? 嫌いな物や食べれない物はなかったかな? 胃に重い内容だったとか――あ、そんなことない? そう、よかった」
首を振り、ようやく搾り出した声で少女は、おいしかった……と呟く。ごく小さな声だったがちゃんと聴こえたようで、青年はにっこり笑った。目を閉じて笑った彼の顔は、猫のような、それでいて犬のような、なんとも不思議な感じだったが、少女はこの笑顔を嫌いじゃないと思った。
男の人が言う。
「“妖精の森”で――あ、キミ倒れてたの覚えてるかな? あの森ね、“妖精の森”って言うんだけど、そこで倒れてたキミをボクが見つけたんだ。で、意識が無いしあちこち怪我してるみたいだったから、とりあえずボクの家に連れて来たんだけど。体調はどうかな? 傷は痛む? 絆創膏、貼りっ放しになっちゃってるけど肌の気触れとかない? そろそろ包帯を変えようか? 自分で出来る?」
少女はまた頷いておいた。本当は自分で出来るかわからなかったが、他人に触られることには躊躇いを覚える。警戒心を丸出しにしていたけれど、男性は気を悪くするでもなくにこにこしている。
いい人なのかもしれない。少なくとも手当てをしてくれたしご飯をくれたからいい人のように思える――“あそこ”の人たちも少女が怪我をしたら治療をしたし食事を出してはくれた。でもあの人たちのことは終ぞ“いい人”とは思えなかった。
この人は、どうなのだろう。どこまで信じていいのだろう。
彼はここを自分の家だと言った。少女は遥か上方の男の顔を窺った。
「…………ここ……、えと……、あなたの、おうち……なの……?」
「うん。上から下までボクのおうち。モテないから一人暮らしだけどねー」
冗談交じりにそう言って、彼は言葉を続けた。
「ボクはゾロ。キミは?」
「……わ、わた……、わたし、は…………ニル、ヴィナ……」
優しい声に促され、おずおずと答える。自分の名前を口にするのなんて随分と久し振りだった。
ゾロと名乗った青年は歌うようにニルヴィナの名を繰り返した。
「Nirvina――寂静。いい名前だね。ニルヴィナ、ニルヴィナ……ニーナ、ニーナはどう?」
どう、の意味がわからなくてニルヴィナが首を傾げるとゾロがにっこりした。
「愛称として、ってこと。あだ名、ニックネーム。“ニーナ”は気に入らない? 馴れ馴れしい? イヤ?」
訊かれ、ニルヴィナは首を振った。特別な名前、識別番号としてではなく親しみを籠めた愛称として人から呼ばれることなど初めてで、うれしかった――昔、だれかがニルヴィナを愛称で呼んでくれていた気がしたが、よく思い出せなかった。
ニルヴィナが遠い記憶を辿る間もなくゾロが続ける。
「じゃあニーナって呼んでもいいかな?」
少しだけ考えて、やがてニルヴィナはこくんと頷いた。嫌な気分はしなかった。
気恥ずかしさに頬を染めた少女へ微笑んで、ゾロは腰を屈めた。上を向き続けるのに疲れて来ていたニルヴィナは、お陰で少し首が楽になった。同時に、顔の高さを合わせながらもゾロが微妙に彼女から視線を外してくれることで、引っ込み思案のニーナはかなり助かった。
ダイニングキッチンの内と外で向かい合い、ゾロがニルヴィナに訊ねた。
「ニーナはどこから来たかわかるかい? どうしてあの森で倒れていたのかな? 行く当てがあったとか?」
「……わか、らない……。いっぱい、走って……、何日も……歩いた、から……。……多分、遠い、とこ……えと……、大きい、白い所……」
つっかえつっかえ話しても、ゾロはニルヴィナの言葉を頷きながら聴いてくれるので、彼女は安心して最後まで喋ることが出来た。
ゾロの問いは続く。
「そこから来たの? そこではなにをしていたの?」
訊かれ、ニルヴィナはぎゅっと眉根を寄せた。唇を噛む。“あそこ”のことは思い出したくなかった。思い出すと体が震えた。
思い出したくない、と思うのに“あいつ”の言葉が脳裏をよぎる。
“……ニルヴィナ、ニルヴィナ……いい子だ……そうだ……私の傑作……!”
あの声を、あの眼を、思い出して、ニーナはぞっとした。
黙り込んで小刻みに震える少女をゾロは静かに見つめた。
「そこで、なにか怖いこと、された?」
ゾロが殊更優しい声で問い掛けた。柔らかい彼の声音に変に泣きそうになって、ニルヴィナは俯きながらようやく小さく頷いた。
彼は無理に答えなくていいよと言ったけれど、なんだか打ち明けたい気分になって、ニーナは吐き出すように口を開いた。
「…………毎日、モ、モンスター、の、いる……お部屋に……つれて、行かれて……その……やっつけ、たり……お薬、のんだり……。……け、“けんさ”とか……した……しゅ、“しゅじゅつ”、も……いっぱい、した……さ、された…………」
本当はモンスターを“やっつける”以外にもしていたことがあったが、それを口にすることだけは躊躇われた。ニルヴィナは人が怖かったしゾロと名乗ったこの青年のこともまだ警戒していたが、これを彼に知られたらどう思われるかが、酷く気に掛かった。この気さくな人に、化け物を見るような目をされることが、怖かった。
視線を落としていた彼女は、ゾロが一瞬怖い顔をしたことには気づかなかった。
「……そこから、どうやって出て来たのかな?」
「…………よく、わから、ない……お、覚えて、ない……。大きい、音、して……えと、人とか、いっぱい、行ったり来たり、してて…………ドアが、開いてて……開いてた、から……だからっ……」
「逃げて来たの?」
ニルヴィナは頷いた。
あの時、なにが起きたのだろう。わけもわからずニルヴィナは走った。ここから逃げられる、それを思ったらただもう夢中で、持てる限りの力で駆けて、駆けて、駆けて――。走れなくなったら歩いて、少しでも“あそこ”から遠ざかりたくて、何日も知らない森をさまよって――。水を飲みたくて、ただもう水が飲みたくて、水のある所をひたすらに探して――そうして、水場へ辿り着く前に、ニルヴィナは意識を失った。
だから、ここが何処だとかいまが何年の何月何日だとか、ニーナには全くわからなかった。どうして“あそこ”に居たのか、いつから居たのかもよく覚えていない。“あそこ”に連れて来られる前の記憶は、霞がかかったように判然としない。
ゾロが確認するように訊いた。
「それじゃあ、行く当ては……」
「……な、ない……」
「そっか」
ゾロはそう言って頷いた。それきり、彼からの質問が止む。
ニルヴィナは急に不安になった。
「…………わ、わたし……、あ、“あそこ”に……か、帰ら、なくちゃ、だめ……? かえっ、帰りたく……、ない……っ」
彼はニルヴィナが怪我をして倒れていたから「とりあえず」自宅へ運んだのだと言った。帰る場所があるとわかったら、ニルヴィナを“あそこ”へ連れ帰すかもしれない。
“あいつ”がいる場所には、あの恐ろしい場所には、帰りたくない。絶対に戻りたくない。
ゾロはニルヴィナの顔をじっと見つめた。青ざめ、震える小さな少女。色の違う眼は、片方は彼女自身のものだろうが、もう片方は明らかに人間のものではない。怯えたその様子から、彼女の言う“あそこ”が決して快い場所ではないことがわかる。
一言一言を区切るようにゆっくりと、ゾロはニルヴィナに語りかけた。
「ボクは、そこがどこだか知らないし、キミが帰りたくないんなら、帰らなくていいよ」
その言葉と安心させるような声音を聴き、怯え切っていたニルヴィナは強張らせていた体から力を抜いた。心底ほっとする。帰らなくていいんだと思ったら涙が出そうになった。
泣きそうな少女を、ゾロが暫し優しい眼差しで見守る。
「そう言えば汗は掻いてない? 体を清めたいならバスルームに行って――ああ、場所を知らないか。おいで、案内してあげる」
話題を変えるようにそう言って、彼がニルヴィナの方へ踏み出す。
一瞬ニーナは身を竦ませたが、するり、と実に鮮やかに彼女の横を擦り抜けて、ゾロが台所から居間へと出る。それがあまりに自然で素早い動きだったので、ニルヴィナが恐怖を感じる暇もない。どこからかまた、花のような香りがした。
彼はニーナを振り返ることも無く、すたすたと気軽に歩いて行く。
逡巡し、やがてニルヴィナは彼から少し距離を置いてその背を追いかけた。