寂静の少女(3)
目が覚めたとき、どこに居るのかわからなかった。
天井が見える。最後に居たのは森の中だったはずなのに。天井が見えるということは仰向けになっているということだ。膝から力が抜けて前のめりに倒れた気がしたのだけれど、記憶違いだろうか。
間を置いて、体の上になにか掛けられていることに気づく。薄い布だ、白い、シャボンの香り――ぼんやりとした頭でそれをシーツと判断する。ようやく、ここはベッドの上なのだ、と認識した。
ゆっくり起き上がってみる。体には少しだけ倦怠感があったが、手も足も問題なく動きそうだ。腕には知らぬ間に包帯が巻かれていた。
身を覆う清潔なシーツ、たっぷりした枕、ふかふかのベッド――そのどれもが、見覚えの無いものだった。
寝台から辺りを見回す。部屋は広く明るかった。ベッドの上方から光が射し込んでいる。窓の外は昼間のようだ。クリーム色の地に薄青い小花柄が散った壁紙がぐるりと部屋を囲んでいる。寝台から見て向かって左の壁際に棚、その反対側には出入り口があった。扉は閉まっている。
一体、ここはどこだろう。
少女が首を傾げると同時にノックの音が響いた。びくりと身を竦ませていると、ややあって扉が開かれた。
「やあ、気がついたみたいだね」
声と共に知らない男の人の顔がひょいと覗く。若い男の顔だ。浅黒い肌に柔らかそうな銀色の髪が零れかかっている。短くて太い眉、金色の瞳。彼の耳から垂れ下がる金色の鈴が、しゃらん、と鳴った。扉から顔だけしか出していないが、位置からして背が高そうだ。
男の目が猫のようで、一瞬また“あそこ”へ連れ戻されたのかと思った。
怯える少女を置いて、男は深みのある声を明るく響かせて言葉を続ける。
「いやあ、エイブ以外に客用寝室を使うなんてかなり久し振りだよ。寝心地はどうだった? 一応、シーツは風に晒しておいたんだけど。あちこち怪我してたから勝手に手当てしちゃった、触られるの嫌だったらごめんね。まあもう手当てしちゃった後なんだけど。もし痛むところがあれば言ってね。着替えと包帯の替えはあの棚の上に用意しておいたから好きに使って。ご飯は食べられそうかな? 食事とお水はそこに置いたから、食べられそうなら食べて。もし食べられない物があったら除けていいし、口に合わないようなら残しちゃって。顔を洗いたければ窓の洗面器を使うといいよ。あ、お手洗いはこの部屋の向かいだから。じゃ」
言うだけ言って、その人はぱたんと扉を閉めた。閉じ込められるかと一瞬心配したが、鍵を掛けられた様子は無い。
“きゃくようしんしつ”――青年はそう言った。つまりここは彼の家なのだろうか。
一方的に話して引っ込んだ人。鼓膜にやさしい声。耳が大きい。
すっかり置いてきぼりの少女は暫し沈黙した後、ぽつりと一言、呟いた、
「……だれ?」
部屋は花のような香りがした。
男の言った通り、ベッドサイドのナイトテーブルには食事が用意されていた。
木製の盆の上には深皿、取っ手の付いたスープカップ、小さなデザート皿、水差しとコップが乗っている。
いつ置いて行ったのだろう。料理はまだ仄かに湯気が立ち上り、充分に温かい様子だった。鼻を近づけるといい匂いがして食欲をそそられる。急速に飢えを思い出し、少女はトレーを持ち上げるとベッドに腰掛けたまま自身の膝上に乗せた。
主食は米料理、恐らくリゾットと呼ばれる物だった。添えられていたスプーンを手に取り、恐る恐るリゾットを掬い上げて口元へ運ぶ。ブイヨンで炊かれた米は僅かに芯の残る絶妙な硬さで、久々のまともな食事をゆっくり味わう。
リゾットは鶏肉が入っていて食べ出がある。肉の部位はささみだが驚くほど柔らかく、噛むと肉汁が口に染み出した。白い米の中に転々と浮かぶ枝豆の緑が綺麗だ。バターと共によく炒められた玉葱が甘く、乾燥バジルの葉と微かな黒胡椒が香った。摩り下ろされたチーズが溶けてご飯に絡み、全体をまろやかに仕上げている。リゾットの味の深みと芳醇さはアルコールを飛ばした白ワイン由来だということを、少女は知らない。
スープはコンソメ仕立てのようだ。細長く切られた人参と玉葱、スライスされたマッシュルームが、細かく刻まれたパセリ、ふわふわの溶き卵と共に浮き沈みしていた。味付けはあっさりしているが野菜の甘みが良く出ている。とろみの付けられたスープは唇と喉にやさしい。口当たりがよくて、あっと言う間に飲み干してしまった。
デザートはカットされた黄金林檎だ。少女は金色の林檎を見るのは初めてだった。食べ易いよう小さくされた林檎は、その切り口からも見て取れるほどたっぷりの蜜入りだ。噛り付けば、さわやかな甘さが口いっぱいに広がった。林檎を咀嚼するしゃりしゃりという音が楽しい。
最後に水で喉を潤し、ほっと息をついた。おいしい料理に満たされた気分になる。
お腹がいっぱいになると力が湧いて来た気がする。少女はそろりとベッドを降りた。
円形に編まれたマットの上に立ち、改めて自分の体を確認する。いつの間にか“あそこ”の服ではなく、柔らかい素材で仕立てられた桜色の寝巻きを身に着けていた。ワンピース型のパジャマの胸元や裾の襞が身動ぎするたびふわりと揺れる。手当てをしたと言っていたが、あの男の人が着替えさせてくれたのか。打ち身や擦り傷は丁寧に処置されていた。
寝台の足元に上履きを発見する。これもあの人が用意してくれた物だろうか。ベージュの布製の靴だ。履き口の中央に縫い付けられたワンポイントの白い花が可愛らしい。試しに足を入れるとぴったりだった。
そのまま手足に異常がないことを確かめながら、床を踏み締め扉に向かって歩く。
ドアノブに手を掛ける。扉は、なんの抵抗もなく開いた。
恐る恐る部屋の外を窺う。この部屋の両隣にも部屋が一つずつある。目前を真っ直ぐに廊下が伸びている。廊下の左の突き当たりに扉が一つ、右の突き当たりには窓が見える。廊下を挟んで対岸の壁にも扉が二つ、内一つは大きさからして用具入れのようだ。対面の壁は途中で失せ、その向こうは階段になっているようだった。
この部屋の向かいがお手洗いだと男の人は言っていた。廊下を渡り、相対する部屋の扉を開けてみる。果たして、そこはトイレだった。
鏡の付いた洗面台と、やや間を空けて便器が設えられている。まめに掃除をされているらしく、室内はどこも清潔だった。
爪先立ちで伸び上がって鏡を覗く。確認した自分の顔は多少の擦り傷はあれど変わらない。鏡の中の碧と金のバイアイに見つめ返され、少女は顔を曇らせた。虹彩が細長い金の眼には未だ慣れない。
トイレを出て警戒しながら更に建物の中を歩く。静かだ。光を求め窓のある方へ向かって廊下を進む。この建物の中はなにかの研究所とかいう雰囲気は無く、普通の民家に見える。
突き当たりの窓から外を覗くと階下に庭のような物が見えた。高さからしてここは三階か四階らしい。
きびすを返し、少女は階段の踊り場へ歩を進める。辿り着いたきざはしは上下に続いていた。逡巡し、下へ向かうことを決める。きっと出口は上にない。
慎重に階段を降り切ると、左手に扉があった。踊り場は更に下へ続く階段もその身に繋げている。
どうしようか考えていると、扉の向こうから物音が聞こえた気がした。
耳を澄ます。微かな歌声が聴こえる。誰か居るのだ。あの男の人だろうか。戸口は薄く開いている。
少しだけ迷って、結局そのドアを開いた。
扉の向こうはまた廊下だった。ただ、上の階のそれより短く、右側の壁に一つと突き当たりに一つ、扉が見えるだけだった。突き当たりの部屋から光が染み出している。小さな物音と歌声もそこから洩れ聴こえた。
惹かれるように、廊下を抜けてその部屋を覗いた。
絨毯の敷かれたそこは居間に見えた。入り口のすぐ左手には立派なサイドボードが鎮座している。部屋の突き当たりには暖炉があり、窓が見えた。窓の近く、部屋の隅には観葉植物と鉢植えの花。その隣に書棚がすらりと立っている。
そろりそろりと部屋を進む。最初に目覚めた部屋も一人部屋にしては広かったが、ここはその倍くらい広い。暖炉の前にはローテーブルとソファが置かれている。毛足の長い敷物や清潔そうなソファカバーの手触り、よく手入れされた鉢植えの緑の様子などを見るに、如何にも居心地の良さそうな部屋だった。
居間の中央で扉の方を振り返る。サイドボードには厚い本や見たこともない置物が並べられ、壁を覆っていた。サイドボード横の壁は途中で切れて、更に別の部屋へ続いている。先ほどから気になっていた物音は向こうから聞こえていて、階段で耳にしたときよりずっと鮮明になった歌が香ばしい匂いと共にここまで流れて来ていた。
足音を忍ばせながら隣室への入り口に歩み寄る。そっと覗くと男性の背中があった。さっきの人だ。毛先に向かうほど黒っぽくなる銀髪に覆われた頭部には、同色の毛に覆われた大きな耳が生えている。L字型の調理台からして、どうやらここは台所のようである。オーブンの横にある小窓は開かれ、遠く鳥の鳴き声がした。もう少しよく見ようと覗き込むと、台所の隣にまた扉があることを発見する。
広さの割りに椅子が二脚しかないダイニングテーブルを挟み、青年は鼻歌交じりに調理場を行ったり来たりしている。料理の最中らしい。なんだか楽しげだ。どこの国の言葉だろう。窓から吹き込む風に乗る歌声は、不思議と心地よかった。
男の人は大きかった。大きいと言っても筋骨隆々とか太っているとかいう感じではない。ちょっと踵の高い靴を履いていることもあるが、それを差し引いても充分に背が高い。
襟の高い、肩の出るデザインの黒っぽいインナーはどこか異国の雰囲気がする。その上に着ているのは、上腕部から背中にかけてと腰の両サイドに切り込みが入った変わったプルオーバー。
調理の為に袖を捲くったのだろう、彼は調理台の上で白い物を捏ねているようだった。オーブンから香ばしいバターと小麦の匂いが漂って来るので、パンを焼いているのかもしれない。その傍らでは大きな鍋がぐつぐつと音を立てていた。
こんな日常的な様子、日々の人の営みの様子を眺めることは、少女にとって新鮮なことだった。
興味深く観察していると、不意に彼がこちらを向いた。