寂静の少女(1)
それは起き上がる前の儀式だ。
覚醒を悟った瞬間から始まる。
目蓋を両の手で覆って数える。
「……345902」
計算する、積み重ねる。
一日も欠かすことなく。一つも欠けることなく。
数える。果てしなく。
数える。目覚める度。
なめらかに回転する頭脳は過たず解を導く。
忌々しいくらい正確に記憶している。なにもかもを。忌々しいくらいに。
繰り返す。呼吸の続く限り。
繰り返す。気の遠くなるほど。
345902
ゆっくりと顔から手を外す。
目を開く。
眼前に広がるのは薄暗い部屋の天井だ。緑の草はらでも白む峰々でもない。
代わり映えのしない壁紙。磨かれ、年季の入った、見馴れた調度。光の進入を遮る小窓のカーテン。染みの数、疵の数まで諳んじられそうに知り尽くした家。
ここは、穴倉だ。
穴倉の中で、今日も独り目を覚ます。
吐息する。深く、深く。安堵と呼ぶにはあまりにも、深く。
「345902」
繰り返し、ようやく彼は身を起こした。
* * *
古の昔、天空の化身にして数多の妖精たちの女王ニーヴの手によりこの世は創造された。
世界を構成する大陸の一つ、フィアナ大陸の西方に位置するアーガトラム王国、更にその東部に存するは“常若の国”ティル・ナ・ノーグである。
四方を堅固な城壁と海に囲まれたこの街は、王都サフィールに次ぐ巨大都市だ。ここでしか実らぬ黄金の林檎と領主たる公爵が整備した港へ揚げられる海産物、方々から集う交易品とで街は潤い、その繁栄に惹かれた人々が行き交ってはまた一層の発展を促している。
美しくも重厚なる城壁と海とに守られるティル・ナ・ノーグは難攻不落であり、一年を通し温暖で住み良い気候であることも相俟って安寧は人心を磊落にし、旅人また人のみならずエルフやドワーフなどの亜人、コボルトなどの獣人と、異種族への往来や受け入れにも寛容だ。他国また国内の他都市と比べても格段に寛大なる街、それがティル・ナ・ノーグだった。
城壁の外に広がるのは林檎を中心とした果樹園や小麦畑で、のどかで豊かな風景を展開していた。高台には公爵の居城、堅牢なるブランネージュ城が白亜の肌を輝かせ城下を遍く見守っている。城を囲む“妖精の森”の緑は深く、整備された石畳の街並みは明るく、ティル・ナ・ノーグの西岸、碧き恵みのエクエス海は広かった。
さて、物語はこの街の一角、商店街のとある装身具店から始まる。
店の名は“ヌエヴェ・コラス”。
ときは赤毛の旅行記者がこの街へ辿り着く半年ほど前。一年の締め括り、十二番目の月ネイリィも上旬が終わろうかというところ。
その日、ゾロ・プラテアードは退屈していた。
正しくは「その日も」退屈していた。仮に他人の目にはそう映らなかったとしても、彼は常日頃から退屈していた。
ゾロは装身具店ヌエヴェ・コラスの主である。住居を兼ねた店は立派な構えの五階建てで、店舗部分は一階のみ。二階から上はすべて彼の自宅として使われている。数家族が一緒に暮らせそうなほど広いこの建物に、彼は独りで暮らしている。
今日も今日とて床を出たのは昼前。宵っ張りな彼が寝付くのは太陽の妖精ソルナが夜明けを告げに訪れる頃で、隣接する店々が早朝の掃除や呼び込みに精を出す最中ぐっすり寝入り、他店の従業員たちがそろそろ交代で昼食を摂ろうかという段になってようやく起き出すのだった。
目覚めた彼の行動は凡そ次の通りである。即ち、身支度を終え育てている花や観葉植物へ水を遣ると、貯蔵室から適当な食材を持ち出して一人分にしては些か――否、かなり――多い分量の食事を作り、ゆっくりたっぷりの朝食を摂る。きちんと後を片付け、家中を軽く掃除し、敷布や衣類などの簡単な洗濯を行っている間に日はすっかり中天である。
ダイニングの壁に掛かる暦へ日課の一つであるバツ印を付け、ゾロは自身の数えに間違いのないことを確認する――本日は十二月十日なり。
そうして、やっと彼は階下の店舗へ降り店を開けるのだ。往来はすっかり賑わっているが特に慌てることもなく、悠々と品出しをし適当に店内の埃をはたく。
ゾロだって自分の店を構える装身具商であるから本来の仕事は実に様々で、接客は勿論のこと在庫管理や商品デザイン、商談や買い付け、荷の注文や職人への依頼、時には得意先へ御用伺いへ出向くことだってある。この街で長く暮らす商人の一員としてはギルド会合への参加も求められる。
業務を数え上げれば決して暇なわけではないのだが、あくせく働く必要がない程度には貯えにゆとりがあるので、ここ近年は専らその日の気分で仕事をしている。その上で暇だ暇だとぼやくゾロに対し生真面目な筆頭組合員たちは頬を引き攣らせるやら呆れるやらだが、退屈なものは退屈なのだから仕方がない。
そう、退屈なのだ。
似たような毎日、同じことの繰り返し。それなりに働きそれなりに遊び、食べて寝てまた起きる。最低ではないが最高でもない。この街で築いた地位と暮らしは平穏と安定をゾロに与えたが、代わりにはっとするような変化も少ない。かと言ってスリルを求めてわざと危ないことをするつもりも無い、彼は賢く用心深いのだ――ひと通りの火遊びは、若い時分に済ませていることだし。
自分以外の誰かと働けば少しは退屈も紛れるだろうかとを店員を探してみたこともあったが、これはと思ったパティ・パイ嬢は藤の湯で求人がかかったことを知るや否やそちらへ飛びついてしまった。以来三年、他に雇いたいと思う人物も居なかったので、結局一人で気ままな商いを続けている。
掃除も終わってしまったので、ゾロは扉を開いて営業中であることを示した。店の奥の勘定台の中へ陣取って客の訪れを待つ。開店してまだ間もないというのに、本日は早々と店番に飽きを感じ始めた。
あくびを噛み殺す。お茶にするにはまだ早いし――なにせ朝食を食べたばかりだ――手慰みに工作でも、という気分にもならない。
ぬるい空気が開け放しの入口からとろとろと流れ込んでくる。晴れているのだろう、射し込む光はまばゆい。年中が春のような気候のティル・ナ・ノーグの昼下がりは、ひたすらに穏やかだ。ブランチからさほど経っていないこともあり、午後の陽気はゾロの眠気を誘った。
カウンターに肘をつきぼんやりする。眠たげに閉じかけた目の代わりに聴覚が鋭さを増す。外から聴こえる音へゾロは耳を傾ける。ヒトならざる彼の聴覚はとても良い。風の音、物音、話し声――会話は天気の話だとかなにを食べるだとか、どれも暇潰しにもならないものばかりだった。つまらない。
日が傾けばそれを口実に店を閉めてしまえるのだが、気だるい正午すぎの空気は緩慢として、まるで永遠に過ぎないかのような錯覚をゾロへ与える。こんなとき、度々彼は苛立ちとも嫌悪ともつかない感情にとらわれる。時の歩みとは、なんと遅いのだろう。
だが、腐っていても仕様が無い。伸びを一つして、ゾロは立ち上がった。棚から取り出した一枚の紙を手に陳列棚を抜け、彼はそのまま店の外へ踏み出した。案の定、快晴だ。空の青が快い。
トラウザーの隠しから取り出した鍵で扉をしっかり施錠する。次いで、持って来た用紙を戸板へ貼り付けた――「只今、外出中」。
こうして、開店早々にして彼は気晴らしの散歩へ繰り出したのだった。
十二月十日。
ゾロ・プラテアードは退屈していた。