Mr.Unknown
その男の名を、だれも知らない。
ゾロ・プラテアード。
浅黒い肌、銀色の髪、金色の目。
身長、約一マイスと九十一セルトマイス、ブーツ込み。
種族、狐人、でも尻尾は見えない。
自称「天狐の末裔」。
自称「永遠の二十五歳」。
装身具店“ヌエヴェ・コラス”の主。
どこから来て、いつから住んでいるのか、だれも知らない。
「だーかーらー、ぜってー偽名じゃん」
何度目になるかわからぬ言葉を繰り返して、アールは杯を卓に置いた。グラスの中で茜色の茶が揺らぐ。そこに浮かぶのは摘み立てのミント。
シャーイ・ビ・ナアナア――シャーイは茶、ナアナアとはペパーミント、つまりペパーミント・ティーのことだ。砂漠の町カイスで好まれる飲料である。お好みで砂糖を入れた茶にミントのさわやかさが薫る。飲むと口も気分もすっきりする。
ぼやくアールを見遣って、エフテラームは肩を竦めた。ターバンから覗く黒い前髪がさらりと揺れる。
「なんだよ、短くて覚えやすいだろ。“ゾロ”って」
形のよい唇から零れる声はハスキーだ。ぶっきらぼうな口調と相俟って男らしいが、ふくよかな胸元は男装していても尚エフテラームが女性であることを主張している。
エフテラームが営む「ミザッラ」はカイス風の軽食も提供している雑貨屋である。“日除け”を意味するこの店はさほど広くない。狭い店内には陶器や金属器、布製品に革製品、毛織物などの日用雑貨がひしめき合い、僅かばかりの飲食スペースを取り囲んでいた。
卓を挟みアールと向かい合うエフテラームは、カウファトゥンと呼ばれる飲料が入ったカップを傾けている。藤の湯の琥珀を思わせる香ばしい匂いが湯気と共に辺りを漂う。
アーモンド菓子を齧るアールが目を眇めた。
「いくらなんでも“Zorro”は馬鹿にしすぎだろ」
「わかりやすくていいじゃねーか」
「人間だから“ヒト”って名乗ってるのと一緒だぞ?」
「ゾロの親もひでーよなー」
「いや、だから偽名だろって」
少しばかり疲れた調子でアールが言えば、ああそうだっけ?とまったく気のない返事をエフテラームが寄越す。
溜息を吐くアールの横でレイが木賊色の目を細めて苦笑した。彼もナアナア茶を飲んでいるがアールのものに比べ大分に甘い。ちょっと入れ過ぎではないかと心配するアールを物ともせず、これがカイス風だとたっぷりの砂糖を投入したレイは、実に美味しそうに激甘のミントティーを嚥下している。
互いにカイス出身のレイとエフテラームは仲がいい。姉御肌だがどこか危なっかしいエフテラームと一見は素っ気ないがよく気の付くレイは、まるで姉弟のようである。いまもお茶のお代わりを勧めようとしたエフテラームを押し留め、レイは自らテキパキと茶器を扱っている。
破壊者の異名を持つエフテラームは物を持てば落とし、飲み物を注ごうとすれば零し、なにもない所でつまずく、という特技を持つ――有り体に言うと非常にドジな――女性である。壊れやすい食器類など任せられない。
レイから二杯目のお茶を受け取ったアールは唇を尖らせた。
「なんだよ、全然知らないんじゃねーか」
「仲いいとは言ったがなんでも知ってるとは言ってねーぞ」
このティル・ナ・ノーグの街で装身具店を営むゾロは狐の獣人だが狐っぽいのは耳と目だけ、尻尾は「しまっている」らしい。見た目は若いけれど藤の湯の売り子パティの祖母と長年の友人だと言うから、本人の二十五歳との主張も怪しい。そもそも名前の「ゾロ・プラテアード」からして胡散臭い。
狐人の新しい生態などわかるかもしれない、と調査を始めたアールだが、ゾロ本人に問い質してみても煙に巻かれるばかりでこれといった情報を入手できていない。
本日、定期的にエフテラームを訪ねるレイにくっついてなにとなくミザッラへやって来たアールは、物は試しと彼女にゾロの話を振ってみた。商人ギルドに所属する者同士、なにか知らないかと思ったのだ。
アールが問えば「アタシとアイツはけっこー仲いいぜ。なんでも聞きな」と実に頼もしく請合ったエフテラームだった、の、だが。
「いーだろ別に、偽名だろーがなんだろーが、名前くらい好きに名乗らせてやれよ」
この調子である。
故意に情報を隠匿しているという風でもなく、心から気にしていないようだ。これでは話を訊く意味がない。
期待外れだとアールは頬を膨らませる。エフテラームは目線を彷徨わせながらなにかネタはないかと頭を捻らせる。
ややあって、彼女はなにかを思いついたような顔をした。
「あー、そうだ。アイツの年齢な。アタシと同じ二十五だぜ!」
いい情報だろ?と言いたげなエフテラームを半眼で見つめ、アールは訊き返した。
「あんたさ、ここに住んで何年?」
「あん? そうだな、二十歳くらいのときからだから……五年くらいかな」
それが?と目で問いながらエフテラームはアーモンドの飾られた焼き菓子をひょいと口に放り込む。バスブーサというこのケーキは彼女の契約精霊サディークのお手製だ。来訪者が男とあってはやる気が出ないのか、女好きの彼はマジックアイテムのランプの中へ引っ込んでしまっている。
アールもまた一つカイス風の菓子をつまむ。たっぷりシロップの染みた焼き菓子はねっとりとした不思議な食感である。砂漠の町の住人は甘党が多いのか、ティル・ナ・ノーグ向けにアレンジされているとはいえ、菓子はどれもかなり甘かった。
「そのときゾロの奴はこの街にいた?」
「ああ、いたよ」
「五年前、あいつっていくつだった?」
「そりゃ口癖みてーに言ってるだろ、ボクは二十五だーって」
「二十五足す五は三十だろ」
「……」
「二十五じゃねーじゃん」
アールの指摘を受け一瞬押し黙ったエフテラームだったが、またすぐに口を開く。
「や、でも五年くらいそんな差じゃないし。ってか大人になれば見た目なんて二十も三十も四十も五十も変わんねーよ」
「いや二十と五十はかなり変わるだろ……」
ひらひらと手を振るエフテラームにレイが言う。アールとエフテラームの会話を聞いていた彼だったが、流石に突っ込まずには居られなくなったらしい。
弟分からも呆れた眼差しを向けられたエフテラームはむくれた顔をした。
「あーもーうっせーなー。本人が二十五だっつってんだから二十五でいいだろ!」
「結局テキトーだな!」
やれやれとアールが首を振れば、エフテラームが反撃するように言う。
「大体、年齢のわかんねー奴も名前のわかんねー奴も、この街にはいっぱいいるだろ。クチナシって無口すぎる男とか、賢人の森に棲んでるらしい魔法使いとか。素性の知れねー奴なんてそれこそあちこちにいるっつーの」
別に珍しいことじゃないだろうと言われ、それもそうなのでアールは頭を掻く。
「いや、まあ、そうだけどさぁ……なんでわざわざ誤魔化すのかってのが気になるんだよ。名前は偽名、年齢も出身も不明な奴が何食わぬ顔で商人してるとか、なんか怪しいだろ? 商売は信用第一じゃん?」
「んなこと言ったらお前、ウーホァンなんてどーなるんだよ。怪しさが服着て歩いてるようなもんじゃねーか。すげー青いだろ。アレがうちの筆頭組合員の一人なんだぜ?」
「いや、まあ……それを言われるとそうかも……っつーかこの街の商人ギルド、大丈夫か?」
「あー……まー、なんだ、懐が広くていいんじゃね?」
そんな言葉で片付けていいのかと思わないでもないアールだったが、良くも悪くも大らかなのがティル・ナ・ノーグだ。外部の人間への差別は殆どなく、異種族も割合すんなり受け入れる。お陰で旅人のアールも過ごしやすい――アールがゾロのことを調べているのは、怪しいということ以上に狐人という種族のことを知りたい方が大きいのだが。
他に訊けるとこはないかと考え込むアールの対面で、不意にエフテラームがぽつりと呟く、
「知られたくないことの一つや二つ、誰にだってあるだろ」
それは大きな声ではなかったが、静かにその場に波紋を広げた。思わずアールが言葉を飲み込む。レイは茶の香りを楽しんでいるのか、目を閉じたまま黙っている。
なにか言い返したい気がしたが、アールが逡巡する間にエフテラームが立ち上がった。
「なんか腹へらねーか? ここで出す新作料理の試作があるんだけどさ、良かったら味見してかねー?」
「え? あ、ああ……」
「……皿、俺が持つよ」
「お? わりーな」
レイがエフテラームを手伝いに立ち上がる。雑然とした店の中を慣れた調子で移動するレイは本当にエフテラームと姉弟に見える。
一人取り残されたアールは話の終了を悟り、そっと吐息した。今回も大して収穫はないようだ。
知られたくないことの一つや二つ、誰にだってある――確かにそうだ、アールにだって隠しておきたいことはある。名前も過去もよくわからない奴は沢山いる。それで上手くやれていれば、別に問題はないのだろう。ゾロに対してそんなに思い入れがあるわけでもないのだ、寧ろ特段ない。
けれど。親しいのに名前も知らない、というのは少し寂しい気がするのは、アールだけだろうか。
真の親密さには名前や出自など関係ないのかもしれない。だが、そうではなく、もし芯から他人に心を開いていないゆえなのだとしたら――、
「なんか、それってやっぱ、寂しいよな……」
厨房に入ったエフテラームとレイの声は籠もっている。通りから漏れ入る商店街の喧騒もどこか遠い。
昼下がりのティル・ナ・ノーグの街は底抜けに明るく、眠くなるほどやわらかい。
ひっそりとしたアールの呟きは、だれに届くこともなくミントティーに溶けた。
ゾロ・プラテアード。
その男の名を、だれも知らない。
・マイス:アーガトラム王国における長さの単位。現代における一メートルに相当。
・セルトマイス:長さの単位。マイスの百分の一の長さ。現代における一センチメートルに相当。