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call  作者: 水居
一章:寂静の少女
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寂静の少女(7)

 

 一瞬、彼の耳がこちらを向いた気がしたがゾロは振り向かない。

 ほっとしたのも束の間、知らない人の顔を見つけてニルヴィナは身を竦ませた。向こうはこちらに気づいていないようだ。耳を澄ませる。

「……そう言えば、最近あなた出歩いていないみたいじゃない」

「今はちょっと家を空けられないんだ。パンだって自分で焼いちゃうヨ」

「あらあら、パンならいつでも届けてあげるのにねえ」

「宅配料を上乗せして?」

「あっはは、いやねえ、あなたってば! どうせ値切る癖に!」

「ふふふふ」

 歳をとった人だった。白い髪を結い上げている老女だ。青い、丸い目は優しげである。

 ゾロと親しげに会話している。この人が“じょうれんさん”なのだろうか。ゾロも楽しそうだ。

 なぜか、ニルヴィナの胸がちくりとした。

 知らず俯く彼女の耳に、店内の様々な音が流れ込んで来る。


「……新作だって」

「かわいいね」

「あ、けっこー安いよ」

「買っちゃう~?」

「え~、でもこっちも気になるー!」

「一つに決めなきゃダメだって~」


「……ほら、これとかどう?」

「俺がこんなの買ってどうするんだよ……」

「そりゃあ、意中のアノ娘へ贈るため、とか?」

「なっ……」

「あ、赤くなった」

「うるさい!」


 お店の中には他にもお客さんがいるようだった。明るい笑い声やなにを買うのか相談する声が微かに聞こえる。

 急に、さみしくなった。ここに居てはいけないような気がした。

 お昼ご飯を届けに来たのに、ニルヴィナは足が竦んでどうにも出て行けない。

 人のざわめきが怖い。知らない人の目が怖い。笑われている気がする。

 耐えられなくなって、ニーナは籠を置いたまま走り出した。廊下を抜け、居間へ駆け戻る。

 ソファに座って暫し息を整えていると、不意に、なぜだろう、暖炉の横の窓に目が向いた。通りに面した窓。曇天の、ぼんやりと鈍い光を投げ入れる窓。

 恐る恐る、けれど吸い寄せられるように、ニルヴィナは窓辺へ歩み寄った。

 見下ろせば、賑わう街がニルヴィナの眼前に広がった。雨上がりの商店街を人が行き交っている。

 売り込みをする人、買い物をする人、露天を冷やかす人。

 先を急ぐ人、連れ立つ人、なにかを捜す人。

 笑う人、怒る人、誰かを呼ぶ人。

 人、人、人。

 街は、ニルヴィナの知らないヒトで満たされている。

 もし、いま、ここから、放り出されたら――。

 想像するだけでひゅっと喉が詰まった。わけもわからぬ恐怖がニルヴィナを襲う。

 苦しくて居間にも居られなくなって、ニルヴィナは三階まで駆け上った。寝泊りしている部屋へ駆け込み、ニルヴィナはベッドへ突っ伏した。

 自分が一人きりな気がした。我が身の寄る辺無さが、じわじわとニルヴィナを(さいな)んだ。鼻の奥がつんとする。

 引き攣れる息を持て余し、ニルヴィナは枕に顔をうずめた。嗚咽を真っ白な寝台が吸い込んでゆく。けれど、無機質なそれらはニーナを慰めてはくれない。涙は後から後から滲んだ。

 それから、どれだけの時間が経ったのだろうか。窓の外はすっかり暗くなっている。

 ゾロが夕食を告げに来てもニルヴィナは返事をしなかった。泣いている顔を見られたくなくて、ニルヴィナは息を殺して眠っている振りをした。棚に食事を置いて行ってくれた気配がしたけれど、食べる気になれない。起き上がりたくなかった。

 なにがこんなにかなしいのか、さみしいのか、ニルヴィナにはよくわからない。

 窓の外では再び雨が降り出したようだ。雨粒が窓を、壁を叩く音に、責められているような気がして、ニルヴィナは一層のこと強く顔を敷布に押し付けた。

 空の泣き声に包まれながら、やがてニルヴィナは眠りに落ちた。




 * * *




 雑音が聞こえた。

 酷く不快な音だ。

 豪雨のような、金属の軋むような、嫌な音。


“戦え! 殺せ、殺せ、殺せ!”


 だれかがニルヴィナを(けしか)ける。

 ニルヴィナは嫌だった。

 でもニルヴィナの中の“なにか”がざわめいている、叫んでいる。

 害せ、と。取り込め、と。殺せ、と。


“アレヲ喰イタイ、喰イタイ、喰イタイ”


 いやだ、と思う。こんなことはしたくない。

 いやだ、いやだ、いやだ。

 ぎゅっと目を瞑る。

 次に目を開けると、いつの間にか冷たい台の上に居た。

 寝かされている体は動かない。声も出ない。

 強い光に目を開けていられなくなる。

 いやだ、蝋燭が多すぎる。

 いやだ、部屋が白すぎる。

 逃げ出したいのに指の一本も動かない。

 これからなにをされるのか、ニルヴィナは知っている。

 いやだ、いやだ、いやだ。

 扉が見える。台に寝かされ首も動かない筈なのに。

 ニルヴィナはこの部屋を知っている。

 あそこからだれが来るのかを知っている。

 いやだ、いやだ、いやだ。

 体が動かない。

 ひたり、ひたり、“あいつ”が近寄って来る。


“お前は人間を超えたんだよ”


 気味の悪い声がそう言う。

 どうしても好きになれない声。

 鼓膜の奥にべったりと貼りつくような声。

 いやだ、いやだ、いやだ。

 そんなこと望んでない、望んでない。


“お前の望みでなくたっていいんだよ。私の、望みなんだから”


 逆光の中で男がわらう。

 にたり、にたり、男がわらう。

 気持ち悪い。

 なにがおかしいの、なんでわらうの。

 わたしはこんなにくるしいのに、わたしはこんなにこわいのに。

 この人は、きっとおかしい。


“お前は一人だ”


 逆光の中で男がわらう。

 わらってそんなことを言う。

 違う、わたしは一人じゃない。

 ニルヴィナは思う。

 けれど声は出ない。


“お前は唯一の存在だから”


 にたり、にたり、男がわらう。

 違う、そんなことない。

 そんなこと望んでない。

 ニルヴィナは言いたかった、叫びたかった。

 もうわらわないで、もうしゃべらないで。


“私以外に誰がお前の傍に居られる? お前は、独りなんだよ”


 いやだ、いやだ、いやだ

 近付かないで。

 そう思うのに、体が動かない。

 ひたり、ひたり、“あいつ”が近寄って来る。

 男の腕が伸びる。

 恐ろしい指、血まみれの手。

 いやだ、いやだ、いやだ。

 触られたくない。

 ニルヴィナはなにをされるのか知っている。

 いやだ、いやだ、いやだ。

 いやだ、いやだいやだいやだ、いやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだ!!!


“さあ、”


 耳元で、男が囁いた、

「また“改良”しようね、ニルヴィナ」

 絶叫が、夜の静寂(しじま)を裂いた。




 深夜、帳簿をつけていたゾロは顔を上げた。

 ニルヴィナの悲鳴だ。

 あの叫び方は尋常ではない。

 書斎を出てゾロは廊下を駆ける。すぐにニルヴィナの眠る客用寝室に辿り着いた。

「ニーナ?」

 ノックをしたが返事は無い。ニーナがノックに返事をしたことはあまりなかったので、ゾロは少し間を置いてからそっと扉を開けた。

 部屋は闇に沈んでいるが夜目の利くゾロには()したる障害ではない。瞳孔の丸く開いた彼の金目はベッドの上で震えている少女の姿を捉えた。彼女の金の左目もまた、闇の中で底光りしている。

 恐怖に顔を引き攣らせたニルヴィナがゾロに向かって叫ぶ。

「……やだ、やだ、やだっ! もうしたくない……もうやりたくない……! 来ないで、来ないで、来ないでっ……!!」

 悪い夢でも見たのだろうか。ゾロを誰かと間違えているようだ。

 ゾロはニルヴィナを刺激しないよう、穏やかに呼び掛けた。

「ニーナ、ボクだよ」

「イヤッ! イヤッ! イヤッ!! もうやりたくないっ……!! 触らないで! 触らないで触らないでさわらないでっ!!」

 滅茶苦茶に頭を振りニルヴィナは喚く。

 錯乱する彼女は腕を前に突き出した。その手が見る間に変形し始める。

 肩から腕の肌色が黒くなる。肉が膨れ上がるように腕の太さが増し、体躯にそぐわぬ長さに伸びる。五指は節くれ立ち、(およ)そ人間のものとは思われぬ爪が先を飾った。同時に、背中を突き破って蔓のような物が幾本も伸び出して来た。

 異形の腕と触手とが、あらゆるものを拒絶するように部屋を荒れ狂う。

 チェストを跳ね飛ばし、椅子を薙ぎ倒す。

 壁紙を引き裂き、棚へ傷跡を残す。

 手をつけていない食事の盆が叩き落とされ、食器が悲鳴を上げた。

 華奢な少女の(あらわ)したヒトならざる姿を、ゾロは見つめた。常人であれば恐れ忌避するであろうその光景を、彼はただ静かに見守る。

 ゾロの胸には恐怖も嫌悪も湧かなかった。この少女がキメラであると知っていたからだけではない。

 ここに居るのは、怯えている、小さなこどもだ。

 ゆっくりと、ゾロは一歩を踏み出した。

「イヤッ!! 来ないで!! 来ないでっ……!!」

「大丈夫」

「イヤッ……!!」

 ゾロへ向かって蔓が伸びた。

 触手が頬を掠めても、血が滲んでも、ゾロは止まらない。

 割れた皿を(また)ぎ、折れた椅子の脚を越え、彼はニルヴィナへ向かって歩み続ける。

 見た目こそ勢いよく縦横無尽に暴れ回る異形の腕だが、ニルヴィナの心が無意識に人を傷つけることを拒んでいる為か、どれも必殺の鋭さは持ち得なかった。

 繰り出された突きを楽々と(かわ)し、ゾロは寝台の傍らに立つ。

 半狂乱の娘は震えながらゾロを見上げた。その泣き濡れた目尻を指先で拭い、ゾロはニルヴィナへ腕を伸ばす。

「怖くない」

「あっ……」

 ふわり、とやさしい力強さで以ってニルヴィナは抱き締められた。

 あたたかい。うで。だれだろう。

 徐々に、夢うつつだったニーナの意識がはっきりしてくる。目の前が暗い。甘やかな匂いがする。脈拍のような音が聞こえる。

 状況がわからなくて、戸惑うように首を上向ければ、煌く金の瞳がニルヴィナを見下ろしていた。猫のような目、闇に浮かぶ銀の髪――ゾロだ。さっきのあれは夢だったんだとニーナは気づく。

 次いで、ゾロの頬になにか滲んでいるのが目に留まる。視界の端で蠢く異形の腕、触手。荒れた部屋。鼻先を掠めた錆びた臭いに、ニルヴィナは自分がなにをしたのかを悟った。

 ゾロに、見られた。

「……あ……あ……、わたっ、わたし…………」

 青ざめ、見る見る目に涙を溜めたニルヴィナへ微笑んで、ゾロは少女の頭を自らの胸に押し付けた。

 震えるニーナをいだく力を柔らかく強め、安心させるように彼は繰り返す、

「大丈夫だよ」

 ゾロの腕に(くる)まれニルヴィナは彼の鼓動を聴いた。とくん、とくん、と脈打つ心臓の音に無性に安堵する。

 深みのある穏やかな声が、ニルヴィナの頭上から降り注ぐ。

「恐くない」

 その声が、その言葉が、ニルヴィナの鼓膜から体中へ染み渡る。

 強張っていた体から、ふっと力が抜けた。魔法の効果が切れるように、ゆるゆると変形が解けてゆく。

 あんなに他人(ひと)に触られることが怖かった筈なのに、ゾロの体温が、鼓動が、心地よい。ニルヴィナの髪を梳く手指は大きくて優しかった。

 目を閉じる。彼からは不思議と甘い、いい香りがした。これまで何度か馨っていた花のような匂いは、彼のものだったのだとニルヴィナは気づく。

「こわくない」

 幼子をあやすようにゾロは言う。

 怖くない、というその言葉が、すとん、とニルヴィナの胸に落ちてゆく。

 怖くない。なんにも恐くない。この人は、こわくない。

 とん、とん、とゾロの掌が軽くニルヴィナの背中を叩く。一定のリズムを刻むそれに、乱れていたニーナの呼吸も凪いでいく。

 ニルヴィナを抱えてゆらゆらと揺れるゾロに、無性に眠気を誘われる。ニーナの四肢から無駄な力が、眠るために必要のない一切の力が、抜けてゆく。

 もう、こわい夢は見ない気がした。

「ゆっくりお休み」

 ゾロが囁く。満月の夜のようにまろやかな声。不思議と懐かしい、甘い匂い。

 とろとろと微睡(まどろ)むニルヴィナの脳裏に一本の樹が浮かぶ。

(……しろい、はな……)

 ああそうだ、とニルヴィナは悟る。彼は、銀木犀の馨りがした。

 やがて部屋は元の静けさを取り戻す。

 安らかに眠る少女をいだき、男は低い声で遠い異国の子守唄を(うた)う。

 いつしか、夜半(やわ)の空は泣き止んでいた。

 

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