寂静の少女(6)
翌日もニルヴィナは一日の大半を部屋と庭で過ごした。
食事は都度ゾロが届けてくれた。毎回、ニルヴィナが少し部屋を空けている間に料理は用意され、空になった皿は魔法のように片付けられた。食事はどの献立もおいしく、丁度よい量だった。
ゾロはいつもにこにこしていた。彼は話上手で、ニーナに色々な事柄を聞かせてくれた。
けれど、どんなに気さくな調子で話しかけて来ても、彼はニルヴィナに必要最低限の距離しか近づかない。それは彼がニーナを嫌ったり怖がって避けているという風ではなく、寧ろ彼女が怯えたり嫌な思いをしないよう上手に気を配ってくれている感じだった。そのことがニルヴィナのゾロへの好感に繋がった。
客用寝室のチェストの中には色々な服が入れられていたが、ニルヴィナは未だに寝巻き姿である。女児用のスカートもブラウスも、知識としては判別できるのだが着方がよくわからないし、着替える必要性もあまり感じなかった。貫頭衣型のパジャマは着脱がラクだ。
ニーナはゾロに何度かお礼を言おうとしたが、口籠もって上手く言えないまま一日が過ぎ、また新しい日が始まった。
ニルヴィナが意識を取り戻してから三日目の朝、朝食を摂り終わった彼女はベッドに腰掛け、足をぶらぶらさせていた。窓の外には灰色の曇り空が広がっている。
庭は夜来の雨に打たれすっかり濡れそぼっていた。天の恵みに洗われた草葉は青々として目に楽しいが、外に出ることは叶わない。雨はいま止んでいるのだけれど、水浸しの庭へ降りたらきっと靴も服も汚してしまう。それがわかるから、ニーナは大人しく部屋に居るのだった。
“あそこ”に居たときは閉じ込められていた部屋と“らぼ”を往復するだけの毎日だった。“らぼ”に居るくらいなら部屋に居た方が遥かに増しだったので、ゾロが用意してくれた部屋で一人で過ごすことは苦痛ではなかった。そもそも、ここには閉じ込められているわけではないし――庭への扉も一階から外へ出る扉も夜間の施錠以外で鍵を掛けられていたことは無く、暗にゾロはいつでも出て行っていいよとニルヴィナへ示していた――、居心地の良さと来たら比べ物にならない。
そうは言ってもすることが無い。ニルヴィナは無心に自分の脚が前後する様を眺めている。臆病で物静かな少女の中に「退屈」という感覚が芽生え始めていた。あの銀木犀の樹が、ニーナはなんだか恋しい。
不意にノック音が響きニルヴィナは顔を上げた。
やや間を置いて予想通りの顔が覗く。ゾロだ。この金色の眼にもニルヴィナは大分に慣れて来た。
「や。見せたい物があるんだけど起きて来れるかな?」
ゾロの声は今日も柔らかくよく通る。
問われ、ニーナはこくんと頷いた。彼の“見せたい物”がなにか気になる。ゾロはにこにこしている。この人はいつも楽しそうにしているなあとニルヴィナは思う。
彼の後に付いて二階へ降りた。赴いた居間でゾロにソファを勧められる。腰掛けると同時にローテーブルの上を指し示された。そこにはなにやら色々置かれている。
「退屈してるだろうと思って、キミの遊べそうな物をあれこれ探してみたんだ。気に入るかわからないけど――そうだな、まずこれなんかどうかな」
ニーナから一定の距離を置いてゾロが別のソファに腰を下ろす。はい、と手渡されたのは筒状の品だ。ニルヴィナは手中の物体をしげしげと眺めた。
東国風の綺麗な紙が貼ってある筒だ。両端に蓋のような物が填めてあり、一端には穴が開いていた。軽く振ると微かにぱらぱらと音がする。小さくて軽い物が入っているようだ。
用途がわからず首を傾げるニルヴィナにゾロが筒の穴を指差した。
「……?」
「窓の方を向いて。首を上向けて……そう。その穴から、覗いてごらん」
「……!」
ニルヴィナは言われた通りに窓を向き、筒を両手で持って下から覗き込むように穴に目を近づける。と、中にきらきらした石のような物が見えた。上下左右が対象になった、なにかの結晶のような、花のような、そんな文様が幾つも現れる。
魅入るニルヴィナへゾロが続ける。
「そのままゆーっくり回してごらん」
そうっと筒を回せば、回転に合わせて中の石が崩れ落ちるように転がり、次々に模様が変わった。
「……わあ……!」
「きれいでしょ。万華鏡、って言うんだよ。別名、百色眼鏡。東国じゃ錦眼鏡とも言うかなぁ。筒の中にね、鏡が三枚と小ちゃなビーズや色紙が入ってるんだ」
感嘆の声を上げるニルヴィナの傍らでゾロが説明する。
回せば回すほど現れては消える、煌びやかな色の世界。同じ形は二つと無いように思われる。
その後もゾロは舶来物の様々な飾り物や玩具を見せてくれた。
「これはカイスで見つけた置物、これは長空製のパズル、こっちはシラハナのカードゲームで、その隣はレーヴェの波玉。この玉を弾いてぶつけ合う遊びがあるよ。ぶつけて当たった玉は自分の物になるんだ」
つやつやした陶器の人形、木で組まれた判じ物、金属の輪の繋がったパズル、ミニチュアの家、綺麗な布で包まれたボール、どうやって組まれたのかわからない瓶の中の船。
ボードゲームは何種類もあった。賽を振ってゴールを目指す物、互いの駒を奪い合う物、相手の領地を囲んでしまう物。ルールの難しそうな対戦ゲームは、駒に見事な装飾が施してあって、それを眺めているだけでもニルヴィナは面白かった。
「このぬいぐるみ可愛いでしょ。ガートとラミナと――Ay、グールちゃん人形は要らないね。……うん? ああ、これね、知り合いに押し付けられたんだ。面白い店だよ。今度連れて行ってあげる。ほら、これはブリタニアのからくり人形、これはヴァルハラのハンドベル――」
蓋を開けると独りでに音楽を奏でる箱、柄を捻ればくるくると回る木製の栗鼠、小さな球を転がして遊ぶ迷路、占いにも使うという西方諸国の札遊び、突つくとゆらゆら揺れ続ける人形、開くと絵が飛び出す仕掛け絵本。
一つ一つ指差し名前を挙げるゾロの長い指、鼓膜にやさしく響く声、ゆったりした語り口、風変わりな品々と遠い異国の摩訶不思議な遊び――少しばかり気だるい、雨上がりの家中に漂うおとぎの国の気配が、ニルヴィナの心を弾ませた。
白地に薔薇模様のティーセットは玩具には見えない精巧さだったが、とても小さい。つまみ上げた茶碗はこどものニルヴィナの片手よりもまだ小さい。
ニーナが不思議がっていると、それは小人のティーセットだとゾロが教えてくれた。
「見て、ポットもミルク入れも金縁。装飾も細かいでしょ。これちゃんと白磁なんだよ。昔、金明鳥の羽と交換したんだ。ミゼットのトトはミディルカ一の職人で――ああ、このお話は今度してあげようね。このティーセットはおままごとに使うといいんじゃないかな」
どの品にもなにかしらのちょっとした謂れが――ときには曰くも――付いているようだったが、その全てをゾロは語ってくれない。ニルヴィナは不満を覚えないでもなかったが、次に待ち構えている品の名前や物語を聴きたくもあったから、ただただゾロの言葉を享受する。
これらの品々が持つ逸話についてゾロの口から語られるのは、いつのことだろう。どんな冒険を経てこれらは彼の手元へやって来たのだろう。ゾロの言う“今度”がニルヴィナは待ち遠しい。彼の唇からさらさらと紡がれる物語を、いつまでも聴いていたかった。
ゾロが書棚から本を抜き取る。
「この部屋にある本は好きに読んでいいよ。読めるかな。学校に行ったことは? ない? Vola、そのうち文字を教えてあげようね。大丈夫、ボク教えるの上手だよ。そら、この辺の本なら絵付きだし、キミも見てて楽しいんじゃないかな。あ、しないとは思うけど念のため、本には落書きをしないでくれると嬉しいなあ。お絵かきしたくなったらこっちの帳面を使ってね。じゃーん、インクは八色あるよ」
美しい装丁の大型本、精密な挿絵が添えられた物語本、遠い異国の絵巻物。ニルヴィナが初めて見るような書物が山と積まれ、その隣に羊皮紙を束にした冊子とインク壷が並べられた。
真っ白な鳥の羽根を使ったペン、とろりとした風合いの琥珀の文鎮――ゾロが気軽に取り出したそれらが高価であることをニーナは知らなかったが、その上質な質感から無意識にいい物なのだろうと感じた。
インクで手を汚したときの為にと手拭いまで準備よく揃えて、ゾロは立ち上がった。
「じゃあボクはそろそろ下で仕事するよ。今日は常連さんが来るから悪いけどお昼は自分で取りに来てくれるかな。台所のテーブルの上に置いておくから。このままここで遊んでてもいいし、気に入った物を部屋に持って行ってもいいよ」
ニルヴィナが頷くとゾロは居間を出て行った。
後にはニルヴィナと、ゾロのコレクション達。部屋に静寂が戻る。
居間でニルヴィナは遊び始めた。万華鏡を覗き、波玉を弾き、絵札を並べた。
崩してみたが解けそうに無い木のパズルを積んでみたり、独楽を回してみたり。
ぬいぐるみを抱き締めながら読めない本のページを繰り、帳面へ適当に筆を走らせ“お勉強ごっこ”をした。
やがて、ニルヴィナの手が止まる。
珍しくて面白い品々に囲まれているはずなのに、あまり楽しくないような気がするのはなぜだろう。さっきまでは賑やかに歌っていたオルゴールも、いまは寂しげに鳴いているような気がする。
ぱったりゾロの声が止んでしまった居間は、やけに広く、やけに静かに感じられた。
ニーナはオルゴールの蓋を閉じて居間から台所へ移動した。きっとお腹が空いているからこんな気分になるのだろう。
テーブルの上には布巾の掛かった皿がある。椅子によじ登って布巾を外すとサンドイッチが顔を出した。皿には付け合せとしてトマト、パセリ、ベーコンで巻いたアスパラが乗っている。近くには水差しとお茶の入ったポット。ココット皿の中にはオレンジとクリームチーズのケーキが収まっていた。
三角形のレタスとチーズのサンドイッチも、四角いきゅうりと卵のサンドイッチも、切り口から覗く具材がパンの白に映えてきれいだ。ちょっとだけ舐めてみたデザートは、クリーミーで甘酸っぱい。
そのまま椅子へ腰掛けて、ニルヴィナは一人きりの昼食を摂る。宛がわれている部屋以外で食事をするのは初めてだった。
ダイニングテーブルが茫洋として感じられる。時折、流しから聞こえる水音が妙に耳につく。おいしいはずのサーモンサンドがなぜか味気ない。パンを飲み込むのが億劫な気すらする。香ばしいお茶を苦く感じる。部屋は広すぎ、椅子は高すぎた。
なにがこんなにつまらないのか、わからない。
ふと上げた視線の先、調理台の上に布巾の掛けられた籠を見つけた。椅子を降りて近付く。背伸びして中を覗けば、サンドイッチが入っていた。ゾロのお昼ご飯だろうか。とても量が多い。大人はこんなにいっぱい食べるのかしら。
ゾロはどうしているのだろう。思えば彼がなんの仕事をしているのかニルヴィナは知らない。一階にお店があると言っていたがなにを売っているのだろう。ゾロはお腹を空かせていないだろうか。
ご飯を持って行ってあげよう、とニルヴィナは思いついた。それはいい考えのように思われた。普段のお礼になるかもしれない。
ニルヴィナは籠を掴んだ。水筒の入ったそれは少し重かったが、両手でしっかり握って歩き出す。
台所から居間を通り、ニルヴィナは廊下を抜ける。階段を下りて更に廊下を進む。一階の廊下は建物を囲むようにぐるりと巡っている。庭へ向かう以外に一階へ降りたことはなかったのでどきどきする。
角を二度曲がると突き当りと右手に扉を見つけた。右手のドアはぴったり閉ざされているが正面のドアは微かに開いている。
ニルヴィナは正面の扉へ近付くと籠を床に置き、そうっと戸板を押して中を覗いた。
すぐ近くに、ゾロの背中を見つけた。