Act.3 波
さけられているのかさけているのか、自分でもわからなかった。
ただ、あんなに毎日のように顔を突き合わせていた相手が突然自分の前からその姿を消し・・・、気がつけば、2週間が過ぎようとしていた・・・。
「明日はPVのシューティングですから、朝の8時に迎えに行きます。ちゃんと家にいてくださいよ。僕、ちょっと用事があるんで、ここで待っててください。」
マネージャーは早口でそう言うと、いそいそと、撮影待機場であるワゴンの中から出て行った。俺は、メイクを落としたばかりで突っ張る顔をいまいましく思いながら、窓から目の前に広がる海を見つめてみる。
最新作のジャケット撮影で訪れた海。
快晴の空に見送られて、真赤に染まろうとしている。
血のように赤くなる海が、そこにはあった。
あの日以来、あいつの姿を一度も見ていない。
レコーディングが佳境になって、ずっとスタジオ通いが続いていたということもあるが、たまに事務所に寄っても、あいつの姿だけがそこにはないのだ。
当然なのかもしれない。
あの夜俺たちの間に起こった出来事は、きっと言葉では説明しがたいものだったのだから。
感情に突き動かされて、何の損得もなく、ただ、互いの生身の部分をぶつけあった記憶しかなくて・・・。
そんなの、平気な顔をして“何もなかった”なんて言えるはずがない。
顔をつき合わせれば、それだけで、あの出来事を誰かに悟られるんじゃないかとさえ思える・・・・・。
俺は、だんだんと血の色に染まってゆく海を見つめ、一日陽にあたって火照った身体を冷ますため、ふらふらと車の外に出た。
頬を撫でる秋の風。
高い空を動かしている。
こんな風の中、あいつは今頃どうしているのだろう
そんな想いが、急に俺の心を襲った。
あいつは、秋の風に似ている。
どこかさみしくて、だけど、冷たく心を温めてくれて・・・、不器用に誰かの火照った心を冷ましてくれる。安心させてくれる。
自分の心のことなんて考えないで、自分が誰かを癒せればいいなんて・・・、さみしいとは思わないんだろうか。
そして俺は、そんなあいつの心を感じ取るのに、なんて永い時間をかけてしまったんだろう。
なんてやつだ。
CREWが慌ただしく撤収の用意を進める浜辺を横目で見ながら、砂の上を一歩一歩歩いていく。足を出す度に砂の中に埋もれる自分の体重を足の裏で感じながら、俺はひとり、あてもなく歩き続けた。
どれくらい歩いただろう。
CREWの声さえもが波の音に消されそうになった頃、俺は、砂の上に突然そびえ立った大きな黒い岩を見つけた。辺りにこんなに大きな岩はないのに、この砂の上にひとつだけぽつんとそびえ立っているその岩の形は、どことなく、女の身体を思わせた。俺はその岩陰に腰を下ろし、煙草を取り出しながら、ぼんやり、海を見つめた。
こうしていると、日常のなにもかもが幻想のようにさえ思える。
俺の周りで起きている事は、すべて誰かが考えた物語にすぎなくて、俺は、本当はそいつらに踊らされているだけなんだ。
自分が何かを考えている。唯一それだけが現実で、皮膚の感覚も、視覚も、聴覚も、嗅覚も、味覚も、すべては偽りにすぎない。
人間なんて本当はただの脳だけの怪物で、脳がすべてを感じているだけなんだ。
そんなことを、考える。
そして、そうであって欲しいとも思う。
だって、そうだったら、どんな悲しみも本当は自分のものじゃないから。
誰かが勝手に作っている物語の一部に過ぎないから。
・・・そうだったら、どんなにいいだろう。
あの時。
シャワ-の雨のなかでずぶ濡れになっているあいつの背中を見た時。俺は、そのことを無意識に考えていた。
・・・この女の存在さえもが幻想であればいいと、そう思ったのだ。
あんなに俺の心を乱した女はいない。あんなに、自分が傷つくことを厭わず、それでも傷ついて・・・それにさえも気付かない女なんて、他にはいない。
“あなたを愛してる”と、体中で、心中で表現する女なんて・・・・・。
「・・・・・気付かない罪・・・か・・・。」
逃げている自分は、逃げているからこそ、気付かない。
「大罪だな。」
気付かないふりをしているから当たり前だ。
俺はあいつを抱くことで、あいつから逃げていた。
失うことが怖いから、あいつのかなしさに気付かないふりをして、自分の卑怯なルールの中に閉じ込めようとした。
優しさが怖かった。
自分の身体で俺を包み込むあいつをいつか失わなければいけないという現実が、怖かったんだ。
だから、存在ごと否定しようとした。
人間にとって優しさは致命的だ。自分をも失いかねない。
なのに、あいつは自分の感情を押し殺し、その優しさだけで俺を包もうとしていた。
俺はそんなあいつの存在が怖かった。
狂いそうだった。
あの身体を抱きながら、自分の汚さに発狂しそうだった。
この手であの身体を汚しながら、その心をも・・・、汚しているような気がしていた。
だから、あの優しさから逃げようとしていたんだ。
「あいつより何年多く生きてると思ってんだよ・・・、俺。」
血の色に染まりきった海を見つめ、自分の腕もがその色になっていることを認めながら煙草の灰を落とす。
はらはらと風に舞っていくそれを目の端で追い、その風の吹く先に、俺は・・・、“幻想”を見た・・・・・。
「・・・こんなとこで、何してるんですか。みんな必死で探してましたよ。」
波の音に調和しながら、透き通った声が鼓膜に届く。
海の赤に染まりながら、伏し目がちに俺の視線から逃れながら近寄ってくるその女の姿は、なによりも・・・、綺麗に見えた・・・・・。
俺は何も言うことができずに、その幻想を見つめるばかりだった。
「足跡、たどって来たんです。・・・・・久し振りですね。」
女はそう言い、俺はそれが幻想ではない事を実感する。
少し線の細くなった頬に、俺は言葉を探した。
「・・・今日、来てたんだ。」
口から出てくるのはそんな他愛もない言葉。動揺しているのが自分でもよくわかった。
「ええ・・・、ずっと体調悪くて休暇もらってたんですけど・・・。有給、1年分使いきっちゃいました。」
おどけながらそう言ってみせた女は、静かに俺の横に腰を下ろした。
甘い香り。やっぱりこの女の存在は俺にとって現実なのだと知り、俺は無意識に煙草を吸った。
思った通り、目を合わせられないでいる自分達の空気を持て余すしか方法がない。
「・・・体調は、もういいの?」
漂う苦い空気の中、当たり障りのなさそうな話題が口をつく。
けれど女は、俺のその言葉に少し笑ってみせただけで、ほかには何の返答もしなかった。その笑顔の意味は分からない。
けれど、どこか淋しそうな、そんな笑顔だった。
マネージャーに俺を探しに行ってこいと言われて渋々やって来ただけなら、さっき俺を見つけた時点ですぐに引き返しているだろう。
なのに、こいつはそれをしなかった。
紅く染まる頬を目の端で見つめながら、この女がどうしてここにいるのかを考える。
何も語ろうとはしないその唇に、どうしようもないほどの動揺を感じてしまっても・・・。
波の音に抱かれながら、この女は憂いを含んだその表情で何を考えている?
きっと俺達にとって、この空間はあの日の夜よりもぎこちないはずだ。
なのに、この女はあえてそれを選んだ。
あのとき、俺の腕のなかですすり泣くだけだったあの女が、今は自ら俺の傍にいることを選んでいる。
「放してください。」
そう言って、泣き疲れて眠るまで何度も俺の腕から逃れようとしていた女が・・・。
「・・・・・体調崩してたなんて、半分嘘なんです。」
突然、その声が波の音に割りこんだ。
俺はその横顔を見つめる。
「確かに体調も崩してましたけど、自分のなかでいろいろ整理しないといけないことがたくさんあって・・・、それで・・・・・。」
“整理しないといけないこと”その言葉には、大きな意味が潜んでいる。
つまりこいつがここにいるということは、“心が整理できた”ということなんだろうから・・・。
「・・・そ、う。」
どんなこたえを・・・、俺は期待している?
そして、こいつはどんなこたえを俺に提示しようとしてるんだ・・・?
言葉が見つからない。
いったい何を言えばいいっていうんだろう。
あの時、先に理性を失ったのは俺のほうだった。
そして、俺たちのあの関係を必死で否定しようとしていたのも俺だった。
こんなに情けない話はない。
こんなに惨めな思いは・・・、ない。
「私、人を好きになるってことがよくわからなかったんです。」
うつむいた俺に、女は突然意を決した様子でそう言った。口許に笑みをのせ、真赤に燃える血の太陽を見つめながら、その姿は強く、そして儚かった。
「・・・昔いろいろあって・・・、私、人を好きになる心が理解できなかったんです。誰かを好きになる事が怖くて・・・。もう一生誰も好きになれないと思ってました。」
その瞳が俺を捕える。思いがけなくして出会ってしまったその視線に、俺は動揺を隠せずに、また、うつむく。
・・・・・情けない。
「けど気付くと、あなたのことを求めている自分がいた。駄目だってわかってても毎日会いたくて、一秒でも傍にいたくて・・・。あなたが遊びで私を抱いてるってわかっても、駄目だった。・・・・・やっぱり私もただの女だったんです。誰かを好きにならないと生きていけなかった・・・。」
“誰かを好きにならないと生きていけない”それは、俺が一番忌み嫌おうとしていた言葉。誰かに頼らないと生きていけないなんて、俺はそんなに弱くはない。
そう思って、自分の弱い心を痛めつけようとしていた。
弱いことは悪いことだと、そう信じてそんな自分を隠そうとした。
けれど、この女はそれさえもを認めていて・・・。
「・・・・・どうして・・・、俺なんかを・・・・・。」
遊びだとわかっていて、どうしてそんな俺なんかを好きになれたんだ?
見つめる俺に、女は、ゆっくりと微笑う。
「だってあなたは・・・、」
その口許が、俺に、どうしようもない自己嫌悪を誘うんだ。
「こんな私よりも、人を好きになる事を怖がっている人だったから・・・・・。」
そして、そう言ったその優しい瞳に、俺は、穴があくほどその横顔を見つめた。
「抱かれていると、感じるんです。あなたが一番何を怖がっているのか。・・・私、不謹慎にも“かわいいなー”なんて思っちゃいました。人前じゃあんなに平静としてる人が、こんなに自分と同じことに怯えてるなんてって。」
まっすぐ、俺を見つめる瞳。
「・・・・好きに、ならない方がおかしいですよ・・・。」
俺は、自分が本当に情けなかった。
いくら虚勢を張ったって、こいつには全部わかっていたんだ。
わかっていて、俺に抱かれていたんだ。
そしてわかっていたからこそ、自分の想いを隠し通そうとしていた。
なのに俺のほうが先に我を忘れるなんて。
「だからあの夜、多分私、本当は嬉しかったんだと思うんです。けど、そんなの言えるわけないじゃないですか。今まで必死で我慢してきたものをそう簡単に崩せるわけないし・・・、それに・・・、あの時、一番怯えた表情してたから・・・。」
俺はいてもたってもいられずに、いつの間にか、無意識にその体を抱きしめていた。
あのとき以来、泣きはらした目で俺の腕の中から出ていった朝日のなか以来のその体は、あの時よりも細く感じた。
そして女は、じっとしたまま俺の耳元で続けた。
「あなたは、素直すぎるんです。」
「・・・・・・・おまえは、綺麗すぎる・・・。」
そして、女は俺の背中にしっかりを腕をまわした。
確証のあるその想いを初めて感じて、俺は余計その体をきつく抱きしめる。
なんだか、それだけでいいような気がした。
この汚れた半年間が、今この時で浄化されていくような・・・、そんな気さえもした。
「私は綺麗なんかじゃないですよ。・・・たくさん、嘘をついた。」
俺は何も言わない。言わずに、その言葉を否定したくてより強く抱きしめる。
おまえほど綺麗なおんなはいない。そんなに汚れていない心を持ったにんげんはいない。本当は、そう伝えたかった。
けど、そんな言葉で表現してしまえば、その言葉の信憑性がなくなってしまうようだった。
言葉なんて要らない。言葉なんてなくていい。
「・・・もう、何も言うな。」
そう呟いて、俺は女の髪に鼻をうずめた。
甘い香り。確かな肌の感触、声、髪。
今は、これを現実だと思いたい。
これだけが現実だと、自分はこの世の中に存在しているんだと、そう感じたい。
そして俺はこの女の中にそれを見出している。
どんな風に人を思えば、それは綺麗な愛だというんだろう。
それは、体は必要じゃなくて、心がただ繋がっていればいいと、綺麗な想いだけがそこにあればいいと・・・?
そんなのただの偽善にすぎない。
好きなら、相手のなにもかもが欲しくなるなんて、そんなのどうしようもないことなんだ。
心だけじゃ足りない。確信が欲しい。互いを欲しがる確信が欲しい。
・・・・だから、身体が相手を欲求する。
それの、どこがいけない。
俺たちのこの想いが綺麗じゃないことはわかってる。
綺麗な愛が欲しいわけじゃない。
相手を全部欲しがることがパーフェクトな愛じゃないのなら、そんなものこの世界のどこにだってありゃしないだろう。
心だけじゃたりない、身体だけでもたりない、俺はただ、この女のすべてが欲しいだけだ・・・。
波の音が時間を回している。
紅い血に染められていた体は、いつの間にか薄闇の中に溶け込もうとしていた。
俺はその色にゆっくりと腕の力をゆるめ、女の体を解放した。
「・・・・・ごめん。」
俺の言葉に女はほほえんで、その綺麗な瞳で俺を見つめた。
「私は、あなたが大切なだけです。」
初めてその唇から溢れ出したその言葉に、俺はどうしようもないほどのいとしさを感じた。
これが、ひとをすきになるこころ。
俺が一番嫌っていた感情、一番恐れていた感情、そして、一番求めていた感情・・・・・。
それから笑って、ためらいながら、俺達はまるで初めてのように唇をかさねた。
いや、これが初めてだったのかもしれない。
ゆっくりと溶けていく自分の心が不思議で、同時にいとおしかった。
この女が俺をこんなにもやさしい気持ちにさせてくれるから・・・・・。
今はこの想いを弱いものだとは思わない。
むしろ、ほかのどんな想いよりも強くて、大切なものだと思える。
それを教えてくれたのはおまえだ。
そして、おまえがいてこの想いを共有できるのなら、もう他になにもこわいものはない。
綺麗な愛じゃなくていい、俺はただ、おまえだけが欲しい。
おまえの笑顔が、細い指先が、澄んだ瞳が、心が・・・、すべてが、欲しい・・・・・。
結ばれた想いはどこへ行くのか。
“彼女”と“彼”のお話。
これからも続きます。




