噂メーカーとの遭遇
レジで会計をして、思った以上の出費のせいで随分と痩せてしまった財布を見つめながら、もう家へ帰ろうか、と出口の方へ向かう。一応親からバイトをしなくとも大丈夫なだけの生活費を貰っているとはいえ、この出費で更に食費を出すほどの金銭的余裕は流石にない。
「あれ? 内藤?」
もうファッションビルから出ようかという辺りで声をかけられ、晴海は首を捻って声の主を探す。少し離れたところに、クラスメイトの男子が立っている。余り親しくもなく、晴海は相手の男子を名字でしか知らないし、向こうも同様だろうことが察せられた。八坂という名前のその男子の顔には驚愕が張り付けられている。晴海が繁華街に買い物に出るのがそんなに意外なのだろうか。
「何?」
暗にそんなに驚くことでもあるまい、というニュアンスを滲ませて晴海が問えば、八坂はぶんぶんと首を振った。
「いや別にただ内藤が見えたから声をかけてみただけだけど! お前彼氏いたんだ、って思って」
その言葉に晴海は首を傾げてから、ふと自分の手が未だにロトをしっかりと拘束していることに気がついた。ロトがふらふらとどこかに行かないように押さえているそれも、傍から見れば、ちょうど仲良く腕を絡めているようにしか見えないかもしれない。そして男女で腕を組んでファッションビルから出ようとしていれば、昼をレストランで一緒に食べてこれからまたどこかへ遊びに行こうとしている、だなんてデートコースも簡単に思い描くことが出来るだろう。
晴海が冷静に分析している間にも八坂は、まさかガリ勉の内藤が、だとか、男に興味なんてないと思っていた、だとか、ごちゃごちゃ思ったことを好き勝手に述べている。余程八坂の抱いている晴海のイメージからすると、晴海が男性と腕を組んで休日に繁華街にいるというのが異様に見えるらしい。
そのことについては女として屈辱を感じないでもないが、だからといってこの口の軽そうな男子にあることないこと言いふらされるのも困る。確かクラスの立つ嘘か本当か分からない噂の発信源は、大抵の場合八坂であったような気がする。年上と付き合っているのどうの、と噂を立てられれば、巡り巡ってそれがどうなることか分かりやしない。
だとしたら、余計な面倒の芽は今ここで摘んでおくべきだろう。
「っていうか彼氏年上?」
その言葉を締めに八坂が黙ったところで漸く、晴海は弁解をすることが叶う。
「……この人は私のお隣さんの高木亮人。ただ買い物に付き合っただけよ」
「へぇ」
晴海の説明に、しかし八坂が全然信じていない声を出した。晴海の声が言い訳がましいものになってしまったせいで、全く信用できないらしかった。或いは、そうと決めつけてしまっているのかもしれない。晴海も、友人にそういう紹介を受けたら信用しないだろうとは思うが、事実なのだから仕方がない。
晴海がロトの腕を引く。自分で言え、という合図だ。ロトにも自分のこの日本での身分を覚えてもらうために、自分の口から言わせている。特に思うこともないのか、ロトは素直に晴海が伝えたままを口にする。
「つい昨日まで旅をしていたもので、帰ってきたはいいけど服がなくてついてきてもらったんだ」
既に出かけに近所のご婦人がたにもさせた説明と一言一句同じものをロトが口にするのを聞きながら、晴海はふと思う。今朝がた同じ言葉を投げかけた噂好きの近所の主婦達は、一人旅に出ていた『亮人』の帰還をあっという間に噂話として広めてくれることだろう。彼女達は退屈な日常のスパイスになるような話を求めているからだ。こうして本物の亮人の帰る場所はなくなってしまうのだ。
淡々としたロトの声は、晴海の説明に比べてずっと真実のように聞こえる。八坂もそう思ったようで、納得のいかない表情をしながらも、本当にそうなのかもしれない、と思い始めたらしかった。晴海が男と付き合っていたら驚くくせに、付き合っていなくともがっかりする辺り面倒な男だ。
また休み明けに、と言いながら八坂と別れて家路を辿る。今更食事に向かう気も起こらなかった。これ以上誰かと出会っても面倒事にまた巻き込まれるだけだろう。どうやら晴海が異性と歩いているというのは晴海が思う以上に周囲を驚かせるものであるらしいからだ。ロトは食事を取らなかったことに特に不満も何も述べなかった。この世界ではそれが当たり前、くらいにしか思っていないのだろう。
代わりに相変わらずロトの視線は高層ビルだとかそういったものに吸い寄せられていたが、やがて家が近付くにつれて住宅ばかりになってくると関心を引くものもないためかぼんやりとしていた。
途中で自動販売機にも興味を持って離れなくなったので、飲み物を買った。紙コップが出てくるタイプだ。紙コップに飲み物が注がれる様を食い入るように見つめる成年男性というのは何とも言葉にしがたい違和感があり、晴海は努めて他人のふりをした。子供の頃晴海自身もそうして紙コップに飲み物が注がれる様をじろじろ眺めていた記憶はあるが、いざ他人がしているのを見ると恥ずかしい。とはいえ、明らかに金を晴海が出しているので全く努力の甲斐はなかったが。
家のすぐ傍まで戻ってくると、近所のおばさま方が集まっている。出かける前にも集まっていたからずっと話しこんでいたのか、それとも一度家に帰ってからまた井戸端会議をしにきたのかは分からないが、どちらにしてもよく話がもつものだ。女子たちの話し合いにあまり参加しない晴海は自分にはないそのバイタリティに感服する。