異世界にぽつん
第三章、異世界編です。
呆然と晴海は自分の手を見る。先程伸ばして、しかし遊園地の中でとは違って掴み返されなかったその手。行き場なく伸ばされた手を、ただ太陽の光が照らしている。周囲には黒髪の男はおろか、ただ一人の人すらいない。
「ロト?」
口に出して先程まで隣にいたはずのその人の名を呼んでみるも、今この場には確かに晴海しか存在していなかった。
ついさっきまで一緒にいたのに。今まで行ったことがなかった遊園地に昼間から出かけて、一日遊び通した後で地元の駅に帰ってきたところなのに。既に夜になっていて、電灯の灯った繁華街も一歩出れば真っ暗だったのに。
「ロト、ちょっと、どこ行ったの?」
言いながら、立ってきょろきょろと辺りを見渡す。だがそこにあるのは晴海の足の大部分を覆い隠すほどの一面の草原に、雲一つない青い空。ただそれだけだ。
風が草を揺すって、ざわざわと音がする。何でもないはずのその音に妙に不安になるのは、何故だろうか。
「隠れるとか子供みたいだからやめてよ」
そんなことをする相手ではないのに。そんなことは分かっているが、ロトが子供のようにどこかに隠れているだけなのでは、と期待してしまう。
勿論そう声を張り上げてみたところで、ただの一人からも返答は得られない。まるで映画の中にでも出てきそうなそこは、現代日本の、特に先程まで晴海がいた繁華街だとはとても思えなかった。ここは一体どこなのだろう。近場にはこんなところはなかったはずなのだが。
現在地がどこなのか検討もつかない。何か案内板があったら良かったのに、と思ったところでふと気が付いて晴海は携帯を取り出した。ウェブに繋いでGPSで 地図でも見られればと思ったのだが、開いた携帯は無情にも左上の電波マークは圏外の二文字を示していた。画面に示された時刻は二時を少し回った辺りだが、 はっきりと『AM』の文字が一緒に現れている。だが、午前二時がこんなに明るいはずがない。
ならばここは日本ではない――?
晴海の背筋を冷たいものが滑る。どこか夢心地で現実味のなかった周囲が、急に本物の顔をして晴海に向き直る。
晴海は何か不気味な場所に紛れ込んでしまったのではないか。
「夢、よね……」
晴海は目の前に広がるそれが信じられず、一縷の望みを懸けて自身の頬を力を込めて抓ってみた。痛くなければきっと夢だとそう言える。
日頃痛覚ですら思い込みでごまかすことはできるだろうと思っている晴海は、そもそもこういう方法、というか民間伝承的なものを基本的に余り信用していない。だというのにそんなことをするのだから、人間混乱すると誰しも取る行動は同じらしい。
勿論強めに抓ったそれが痛くないわけもなかったし、抓った途端に目が覚めて見慣れた自宅の中に登場するというわけもなかった。
その辺りは薄々分かっていはしたが、実際にそうなるとそこはかとなく凹むものだ。これが夢ではないと思い知らされるということでもあるのだから。いっそ自分の頭がいかれていれば、などとすら思ってしまう。
しゃがみ込んで、自身の額に手をやる。気のせいか痛みすら覚え始めてしまった。
これは夢幻ではない。自分が正気かどうかは分からないが、正気と信じなければやっていられない。
「どうなってるのよ……」
いたはずの街から離れ、時は昼間へと変わり、そしてロトは消えた。どれもこれも晴海の理解が及ばない話だ。
ぽつりと呟いてみるも、それに答える者は当たり前ながらどこにもいない。現状から何らかの推測をして真実に迫るにしろ、情報が少な過ぎる今は逆効果だ。ほとんど何も分からないのだから、それは推測ではなく単なる妄想だ。それに早々見切りをつけて、晴海はきっと前を睨む。
このままそこに座り込んでいるわけにもいかなかった。どこに迷い込んだのかは相変わらず分からないが、ここからはぱっと見た限り人が生きていくのに最低限 必要な食料も水も何もないのだ。ここが日本ではないとしても、こんな見るからにド田舎のしかも草原に人通りがろくにないのは、火を見るよりも明らか。来る 確証もない誰かを永劫待ち続けるわけにもいかない。
最悪食料は草が毒草でないことを祈りながら食べるという選択肢もなくはないのだが、水はどうにもならない。まさか草の露を掬って飲むわけにもいかないし、それをしたところで一日の必要量には流石に足りやしないだろう。
元々人類の歴史は大部分が餓えの歴史。飽食だ何だと騒がれ始めたのは人類史からすれば本当にごく最近なのだ。それでも生き延びられるよう数日食事を取らな くたって死なない機構が人間の身体には備わっている。だがそれにも関わらず、水はとかく補充しなければならない。何せ体の七割以上を構成しているのは水な のだ。
ならば動けるうちに、せめて水だけは見つけ出さなければ。はぐれたロトを探すのも、ここがいつでどこなのか考えるのも後でも出来る。それこそ生き残ることが出来さえすれば。だからまずは命の確保をしなければならない。
晴海は決意して、立ち上がる。方位など当然分からないから空を見る。かなり高い位置に日があり、足元の影は随分と短い。季節は夏だろう。となればこの伸びきった草も単純に夏の大成長を遂げているだけか。
ならば今はちょうど昼くらいだろうと判断して、頭に方位を思い描く。日本ならそちらが南の方向だ。尤もここが南半球だったら北なのだが、右も左も分からない今は正直南北どちらでも構わない。ただ基準となる一方向が大切なのだ。
とにかく太陽に向かって左へ一歩目を踏み出した。左を選んだのはただの直感だ。まっすぐその方向へ歩んでいれば、何かしらに当たるだろうし、山の中にでも行ってしまったら真っ直ぐ折り返せばいい。
今この場は端から道がないものの、こういうときには下手に道なりに歩いて同じところをぐるぐる回りでもしたら、目も当てられない。体力は有限なのだから。その上晴海はお世辞にも体力のある方ではないのだ。
そう考えて歩きだしたところまでは、恐らくよかったのだが。
歩けども歩けども草原は続く。半袖の黄色いプリントTシャツに青のキュロットとスニーカー、遊園地に行った恰好そのままの晴海だ。遊園地は散々歩き回るだろうから、と選んだ恰好は歩きにくいというほどでもないが、草原を歩くには些か役不足であることは否定できない。
歩く度に腕や足の露出している部分に草が触れて、むず痒い感触を生んでいく。今はまだ被害がないが、いずれ虫にだって噛まれることだろう。こんなに布地が少ない服なのだ。その被害の大きさは推して知るべし、である。
想像するだけでぞわっとして、晴海は頭を横に振る。まだ刺されてはいないし、そんな最悪の事態は気づかなかったことにすればいい。
心を持ち直して歩く。どこまでも続く草原はもしかすると自分は初めの場所からただの一歩も歩いていないのでは、という気持ちにすらさせられる。まるで代わり映えのない景色、太陽の位置だけが少しずつ変わって時間の経過を教えてくれる。
ただひたすらに歩いていく。無心に歩いていって、どんな小さな音にも耳を澄ませた。晴海の耳が万が一川のせせらぎでもキャッチすれば、或いは人の話し声で もいい、そうしたら晴海の命は最悪繋ぐことが出来るかもしれない。或いは生き残るという意味では獣からも素早く逃げなければならないかもしれない。何にし ろ、どんな音も聞き逃せない状況だった。
疲れただとか何だだとかは不思議と思わなかった。いつだかには空気を読めやしなかった腹の虫すら、今日は不思議と沈黙している。晴海の体力がそこまでもつわけはないのにだ。
後から思えば、そのときには既に晴海はきっと気力だけで身体を動かしていたのだろう。疲労を一度でも覚えてしまったら、もう歩き出せる気がしなかったから。
そうして、転機。
晴海の耳は小さな音を拾う。まだ遠くてはっきりとは分からないが、これは――大勢の人の声?
そう思った途端に身体に気力が漲って、晴海は駆け出した。足がもつれるが、転びはしない。走り出せば段々にはっきりと聞こえてくるその声に、晴海は高揚する。
人だ、人がいる。この先に確かに人が――。
だが高揚していられるのは初めのうちだけだった。それまでただの大声としか感知できていなかったその声に込められた響きが、はっきり聞こえだしたからだ。
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「っ」
まだ内容は聞き取れない。それでも耳に入る、声にならない悲鳴と罵倒はとてもではないが手放しで喜べるような状況ではない。
何だ、何が起こっている。どうしてそんな悲鳴が聞こえる。
焦燥感に駆られながら駆け抜けた先、草原は突然に終わる。少し険しい丘の頂上のようにそこから先は行き止まり。崖というほど険しくはなかったから下れないこともないだろうが、生憎晴海にはそういう運動のセンスはない。どこかで足を踏み外して転がり落ちるのが関の山だ。
そうして立ち止まり、草の絶えたそこから見えたのは。
「何よこれ……」
燃え盛る村だった。村の周りに立てられた囲いから逃げ出す人々、倒壊していく建物。見知らぬ人々だとはいえ、余りにも恐ろしい光景に恐怖を覚える。当たり前だ。平和な日本に存在していて、こんなものを直に目にする機会があるはずはなかった。
そんなものは晴海にとっては飽くまでニュースや映画、本の中だけだった。世界のどこかでまだ紛争が続いているのは知っているし、休戦中であるだけで戦争の 終わっていない国だって存在している。けれど、自分の周りには決してないものだからつい晴海はそれを頭から追い出してしまっていたのだ。
まさかそれをいつか目の当たりにするだなんて、今日まで到底思わなかったから。
逃げ出した人々の中には途中で倒れ、動かなくなる者もいる。意識がないだけか、命そのものがないのかは一目では判断しかねた。
勿論、逃げ延びた人の中でも遅れがちな人間は当然出る。老人、妊婦、怪我人。平和な世界なら僅かに手を貸す人がいるだろう/平和な世界でも僅かしか手を伸ばす人のいないだろう彼等に、互いに切羽詰まった今誰も手を伸ばしはしない。
恐らくあの場に晴海がいたところで多分同じことをする。助けることが出来ないと分かってしまうから。残酷だとかどうとかではなく、助けられない。助けるには彼等は余りにも無力過ぎた。力なき者が彼等を助けに行っても、結局共倒れになるだけだ。
だから、人々は勇者だとか英雄だとか、そういう自分にはない力を持つものに憧れるのかもしれない。この状況を覆してくれるほどの力を持つ誰かに。
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思い思いに自分を助けてくれるだろう人の名前を叫ぶ彼等の許へ戻る人間はない。見捨てる側もきっと辛い。けれど、声こそまだ出せているがその命はもう亡いものだと言い聞かせて先に行くのだろう。
そうして焼け落ちる村から逃れる人々の塊から逸れた人間の後を追うように、炎がうねる。まるで意志を持つかのように蠢いた炎の蛇が彼等を頭から飲み込むのを見て、晴海は息を呑んだ。
何だ今のは。
風に煽られただとか、燃えるものがあるから引き付けられただとか、そんな説明では到底間に合わないような何かだった。
今の蛇は確かに意志を持って、彼等を飲み込んで燃やし尽くして消える。後に残った消し炭は何の残骸かなど知れている。骨すら焼け崩れ、完全な形を残してい ないそれに晴海は思わず己の口を覆った。そうでもなければ込み上げた衝動そのままに身体の中のものを戻してしまいそうだった。
あれは魔法だ、と晴海の中の冷静な部分が告げる。
そんなもの、あるわけないと否定する理性に、くすくすと笑う。
魔法があるのは、誰かが使うのを見てもう知っているではないか。言葉を通じさせる魔法、水を、炎をどうにかする魔法。全部見てきたではないか。
その指摘に、晴海はそうだと思い出す。常識を覚えてからは余り目にしなかったからすっかり忘れてしまっていたが、ロトはあの家で魔法を使っていた。魔法は実在するものなのだ。少なくともそれを扱える者ならば。
やがて村から人が十二分に追い出された頃になって、炎の蛇は姿を見せなくなった。その頃には難を逃れ得た人々はどこかに姿を隠してしまって晴海の位置からは見えなくなっていたが、あれだけの人数が村にいたことは確かに覚えている。
廃墟となった村が濛々と煙を上げて、破壊の跡をこれでもかと見せ付けている。それらの火を放ったであろう敵は村の中から出てこない。既に姿を消したのか、それとも近付く誰かを屠るために息を殺しているのか。判別がつかずに村人も誰も近寄れない。
村ごと焼き打ち。彼等は一体どこまで権力者の機嫌を損ねてしまったのか。こんなことをしていいとは言わないまでも、税を余りにも長く溜め込んで再三の要求 も突っぱねた、だとか、権力者がここまでこの村を痛め付けるだけの筋が通る理由があるのか。それともただ単に気に食わないから村を滅ぼしたのか。
もし後者だとしたら、それは圧政で相手は暴君だ。気に食わない人間を片っ端から始末する、そんなことをするような君主など――。
ふと、一つの仮説が晴海の中に浮かび上がる。そうでなければいい。違うことを願いたい。けれど、否定しきれない可能性。
ロトは異世界から、流刑で世界を流され晴海の世界にやってきた。ロトを殺しに来た首領だって、魔法でこの世界に来て、そして恐らくは魔法で帰っていった。
だったら『魔法で晴海の世界から違う世界へと向かう』ことだって、可能なのではないだろうか。
それでは何故晴海がここに喚ばれたか。それだって、首領は言ってくれていたではないか。散々暴虐な政治を敷いた皇帝、その弟が何か企んでいるのだと。だか ら首領はその皇帝の弟がロトに手を出す前に、ロトを殺しておこうと思ったのだったはず。皇帝の命で皇帝に逆らう人間を殺して回った、『皇帝の剣』であるロ トを。
もし今回晴海がここに喚ばれたのが、そもそもはロトを連れ戻すためであったとしたら。その傍にいたから晴海は巻き込まれ、けれど何らかの問題があって晴海とロトははぐれた、或いははぐれさせられたのだとしたら。
彼等が求めているのは皇帝の剣であるロトだけで、そこに何の力もない晴海は要らない。
晴海は村を見た。皇帝の圧政の話を思い出せば、これがその弟のしたことだと思っても納得が行く。ここが日本でもないどころか、晴海のいた世界でもないのならば。
勿論今の全ては晴海が今まで聞いた話からの推論で、事実とはまるで違うという可能性は否めない。結局現状で確かなのはここが晴海の元いたところではないのと、晴海の目前で村が焼き打ちにあったこと。それだけだ。
「……」
自分の手を見下ろす。視界に入る手は小刻みに震えていて、晴海は自分が怯えているのを知った。いや、これは怯えではないのかもしれない。すぐに晴海は否定する。これは首領の話を聞いたときにも覚えた憤りだ。
もう何の関係もないはずのロトを得ようと、誰かが何かしたのだとしたら。関係ない晴海を巻き込んだことよりも、余程そちらに腹が立った。だってロトは―― かもしれない。全く関係のない世界に連れてこられて、それで向こうの都合でとんでもない目に遭わされていたのかもしれない。
と。
「■■■■■■!」
「■■!」
「っ!?」
背後からの声にびっくりして、晴海は振り向く。煤のついて黒ずみ汚れた服の人間達が幾人も晴海を見ている。先程避難した村人達が姿を消していたが、それは どうやら晴海のいる丘を登っていたかららしい。彼等が何か声をあげているが、晴海にはその内容が分からない。言葉が認識出来ないのだ。
そういえばここがロトのいた世界だとしたら、この世界と晴海の世界は言葉が違うのだ。それはおかしな表現になるが、初めにもらった手紙が話していたではないか。
ふと嫌なことに気がついて、晴海は自分の恰好を見下ろした。小綺麗なままの服には、散々歩き倒して多少擦り切れたところもあるとはいえ、彼等のように命からがら火から逃げ出した痕跡はどこにもない。
そんな恰好でこんな見晴らしのよいところから村で起こった一連の出来事を見ていたなど、高見の見物でもしているかのように見えなくもない。だとすれば、そ う誤解されることはなかろうか。例えばこの村を嘲笑うために、焼き打ちを命じた人間の関係者が来ていただとか、そんなこと。
「うん、これはちょっとまずいかも、」
ぽつりと呟く。誰か頼れる相手がいればすぐにでも守ってほしい心境だ。例えば傍に真由でもいれば、即座に縋りつきたい。成る程真由に泣きつく夏帆は普段こ んな気持ちなのかと思いながら、一歩下がるものの何の慰めにもならない。寧ろ、退路を自分で潰してしまったことに今さらながらに気がついて青くなる。何せ 後ろに逃げる選択肢は晴海には選択できないのだから。
そんな言葉の合間にも、晴海を取り巻く包囲網は着実に狭まっていく。
「■■■■■■■■!」
「■■■■■■!!」
相変わらず言葉は通じず、ということは弁明さえも晴海は許されないのだ。いくら晴海の存在が怪し過ぎて言い訳も信憑性が欠けるとはいえ、そんなことも許されないというのは余りにも酷だ。
「あはは、」
漏らした声は半分泣きが入っている。この後、恐らくろくな目に遭わないであろうことは既に察せられていた。




