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ほのぼの上杉家小咄集

ほのぼの上杉家小咄1 「上杉の重み」

作者: .a.w



 わたしにとって殿――顕景さまは、生涯で唯一の主君だった。

 殿の幼名は喜平次、そして元服して長尾顕景と名乗られた。その後、越後を治める叔父である上杉謙信公の養子となられて、名を改め、上杉景勝と名乗りを変えた。

 あれは、殿が上杉姓に名を改める前の日――。

 わたしは久方ぶりに熱を出し、自室で寝込んでいた。




 目が覚めたのは、熱が下がったからではなかったらしい。

 ぼんやりと見慣れた天井を見上げていたわたしは、すぐ傍らに身を屈めている人影を見つけ、何度か目を瞬かせた。やがて障子を透かす月明かりで人影が誰かを知って、息を飲んだ。

「あき、顕景さま……っ」

「寝ていろ」

 起き上がろうとした額を無造作に押され、わたしは布団の中に逆戻りしてしまう。顕景さまはあぐらを掻きながらしかめっ面でめくれた布団を直してくれた。そのおかげで、凍えるような冬の寒さが掻き消えた。

「与六、熱は下がったか」

「……えぇと、あの、はい」

「ならば、よい」

 うなずいた顕景さまは仏頂面で腕を組み、目を閉じてしまった。わたしは横になったままそんな主君をしばらく見つめていたが、熱で鈍っていた頭がそこで動きだし、殿がここにいる理由にようやく気付いた。

「殿、……また、逃げ出したんですか」

 声に呆れが混じってしまったのは、仕方がない。

 明日、顕景さまは長尾姓を上杉姓に改め、名前を景勝と変えられる。

 今夜はその前祝いの宴だった。

 いわば顕景さまは今夜の宴の主役であり、ここに居て良いはずがなかった。

「お戻り下さい。きっと皆が探してますよ」

 熱で重い腕を持ち上げて、どうにか身を起こす。

 今度は顕景さまも止めなかった。

 眉間に深いしわを刻んだ仏頂面のまま、黙り込んでいる。

「騒ぐのがお嫌いなのはよく知ってますが、今日はいくら身内だけの祝いでも、中座は失礼ですよ」

「……わかっている」

「ならばお戻り下さい。わたしは大丈夫です」

「――……」

 五歳の頃より殿に仕えて十年、こういう時の顕景さまの沈黙を破るのが容易でないことは、十分すぎるほどに知っていた。

 わたしはため息を殺しながら布団に手を付き、正座した。

 吐き出す息が白い。

 太ももの上に手を乗せ、背筋を伸ばした。

 自然と声が低くなる。

「殿はご存じではないと思いますが、大井戸の裏手に一筋だけ、下へくだれる道があるのです。そこから桑取川、関川を通れば、朝までには府中の港へ行けます。よく知っている青芋問屋に頼めば、京までの船を手配することも出来ます」

「……――」

 無言のまま、顕景さまが目を見開き、わたしを睨みつける。

 驚きと苛立ちの混ざったすさまじい眼差しに、なぜかわたしは微笑み返してしまった。

「もちろん、顕景さまにその気があれば、の話です」

「与六」

「あぁ、明日には景勝さま、とお呼びすることになるんですね。……その、とても不思議な気がします。わたしにとっての殿は、ずっと坂戸城の長尾顕景さまでしたから」

「……愚か者め」

 わたしの考えは十分すぎるほどに伝わったらしく、殿は低い声でうなりながらそっぽを向いてしまった。

 障子越しの青白い月明かりでも憤慨しているのがわかる。

 わたしは自分で言い出しておきながら慌ててしまって、二度ほど口を開いたが諦めて閉じ、ほぞを噛んだ。

 熱い額を掻きながらほつれている前髪を掻き上げる。

「殿がずっとお悩みになっていたのは、知っていました。……何を悩んでいらっしゃるのか、わたしなりにわかっていたつもりです」

「わかっている」

 一瞬の間も開けず、すぐさまぶっきらぼうな返事が戻ってくる。

 ――本来なら打擲ものだろう。

 困惑に苦笑いを浮かべたわたしの前で、顕景さまは苛立たしげに腕を組み替え、大きく身動いだ。

 しばらく考え込んだ末に目を開き、わたしの顔をじっと見つめる。

「お前が何を言いたいのかは、わかっている。だから言っておくぞ。俺は養父上(ちちうえ)を敬っておるし、上杉に名を改めることも誉れだと思っている」

 ――顕景さまはその口数の少なさから愚鈍だと噂されているが、決してそんなことはなかった。たやすく他者を信じられぬが故に、軽口を慎み、言葉の惜しむべきことを知っている。

 わたしが黙ってうなずくと、顕景さまはわずかに口端を歪めた。

 聞き取りづらいほどに声を潜める。

「だが、俺の中に、長尾姓を惜しむ気持ちがあることも確かだ。だがそれは長尾の家を惜しんでいるからではない。反発なのだ。養父上と、……母上への」

「!」

 思わぬ一言に、わたしは驚いて、息を呑んだ。

 顕景さまの視線が床板の上をさ迷う。

「恐らく俺が知っていることを母上は知らないだろうが、たとえ長尾の父上が亡くならずとも、あの方は俺を上杉家に養子へ出すおつもりであったらしい」

「……本当ですか?」

 そうすべきではないと知りながらも、思わず手が伸びたのは、顕景さまの目もとに暗い陰りが浮かんだからだった。

 触れた衣は冬の寒さを吸って冷え切っている。

 控えめに肘の辺りを掴むと、顕景さまは苦り切った顔で視線を上げた。

「養父上には、子がおらん。だが上杉の――越後守護代の長尾家の血を、今、絶やすことは出来ん。ようやく越後の統一が成ったばかりだ」

「それはわかります。ですが……」

 殿は視線を合わせて、一度、大きくうなずいた。

「お前も知っているだろう。養父上は母上を幼きころから慕っておられる。母上も養父上のことを憎からず想っていらっしゃるようだ。……俺はな、与六、母上が長尾の父上を殺めたと聞いても驚かんよ」

「殿!」

 あまりにも不穏な言葉だった。

 とっさに咎めるように呼ぶと、顕景さまは苦しげな顔で目を閉じたが、今の言葉を取り消そうとはしなかった。――偽りなき本心なのだろう。

 わたしはぼう然としてしまった。

 肘を掴んだ手に力を込める。

「でも、……綾御前の、仙桃院さまの顕景さまを想う気持ちは、真実(まこと)です」

「母上はお前を俺の家臣に選んだ。それだけで十分だ」

「……殿?」

「冗談だ」

 だとしたら、ずいぶんとたちの悪い冗談だった。

 余程わたしは変な顔をしたのだろう、顕景さまは珍しく笑いながらわたしの手首を掴んで外し、背筋を正す。ふとこちらを見た視線がひどくやわらかった。

「与六、俺は母上のお考えなどどうでもいい。養父上は素晴らしい方だ。それに、俺にはお前や上田衆を投げ出すことなど考えられん」

 お前たちを見捨てない、と告げられて、胸が熱くなった。

 ――吊られて熱が上がったのかも知れない。

 殿、と言おうとしたのに声が出ず、ひどい目眩がした。

「おい、無理するな。お前はもともと、身体が丈夫ではないんだ」

「……申し訳ありません」

 そっと身体を支えられて横になる。

 枕に頭を乗せた途端、思わず長いため息が漏れた。

 目を開くと天井が回っている気がして、きつく目を閉じる。

「与六、明日までに起きられるようになれ。これは命令だぞ」

「もちろんです……」

 目眩のせいか、顕景さまの声は遠くなったり近くなったりしていたが、その言葉に含まれた意は十分に伝わってきた――顕景さまが上杉に名を改める様を、わたしも見たいと心の底から思った。

「明日までに、この熱は下がると思います。ですから、殿――」

 その時、廊下を走る足音が聞こえて、わたしは口を噤んだ。

 足音に混じってよく知った声が響く。

「ここに居ないとなると、もう殿を見つけるのは難しいかも知れないぞ」

「与六に探させようにも寝ているからな……」

 少しだけ目を開けて顕景さまを見ると、殿は苦り切った顔で目を閉じていた。

「おい、与六――」

 勢いよく障子が開く。

 あ、と誰かが声をあげた。

「やっぱりここにいらっしゃったのですか、殿! お探ししましたよ!」

「皆で探してたんです!」

「突然、居なくなるんですから……」

 口々に言いながら入ってきたのは顕景さまのご学友たちで、つまり、わたしの小姓仲間だった。

 苦笑いを浮かべるわたしの前で、顕景さまは丁寧につつかれていやいやながら立ち上がり、渋い顔で全員を眺め回した。

「騒がしいぞ」

「当然ですよ! 城中、探し回ったんですから!」

 独特の甲高い声は、殿より二歳ほど年下の泉沢久秀のものだった。

 わたしが密かにふとんの下で肩を竦めると、それを見られたはずもないのに、久秀の苛立ちはわたしに向かっても落ちてきた。

「与六、お前だってわかってるだろ! 俺たちに知らせたらどうなんだ!」

「おい」

「熱があるのはわかるが、今日の宴は――」

「止めんか」

 顕景さまの声は抑えられていたが、久秀を黙らせるだけの迫力があった。一瞬、静まり返った最中を、殿は久秀を無造作に押しのけて歩き出す。

「宴に戻る」

「あ、お伴します」

 桐沢具繁が慌てて障子を開き、殿を通す。

 わたしはまた目を閉じた。

 天井が回っている。

「与六、あとで酒を持ってきてやるからな」

 先ほどの怒りなどすっかり忘れたのか、久秀がすぐ側で囁いて、ばたばたと足音を立てながら出て行った。

 ふと額に濡れた感触を感じて目を開くと、真上から弟の与七が覗き込んでいた。

「兄上、大丈夫ですか? お辛そうですね」

「……明日には、下がるさ」

「無理はなさらないでくださいね」

 あぁ、とうなずいて、ふとんを首元まで引き上げた。

「お前も宴に戻れ」

「はい。そうします」

 濡れた手を着物で拭いながら立ち上がって、与七は心配そうにこちらを見てから、ゆっくりと障子を閉めた。

 静けさが戻った室内に、わたしのかすかな息遣いが響く。

 青白い月明かりを見てから目を閉じた。

 ――たとえ長尾の父上が亡くならずとも、あの方は俺を上杉家に養子へ出すおつもりであったらしい。

 ――俺はな、与六、母上が長尾の父上を殺めたと聞いても驚かんよ。

 顕景さまの背負うものは、あまりにも重い。

 そして厳しい。

 さらには明日、顕景さまは上杉景勝と名を改められ、同時に「弾正少弼」の位をいただくことが決まっていた。つまり、上杉の重荷を二十一歳の身で背負うことになる。

 この越後の地は広大だ。

 多くの民が居るだけではなく、この地を狙う他国の領主も多い。

 顕景さまはそれらの荷を背負うことを期待され、それに応え、ただ独り、黙って立っている。

 ――殿の御ため、わたしに出来ることは何だろう……?

 五歳の時から殿に仕えているが、自らの粗忽さで迷惑を掛けてばかりで、殿の力になれているとは到底思えなかった。

 だが、殿は一度たりとて、わたしを要らないとは言わなかった。――雲洞庵で坊主に打擲されて、火が付いたように泣きじゃくっていた時ですら。

 熱が上がる。

 少し、息苦しい。

 わたしはどうにか手を伸ばし、枕元の盆の上から水差しを手に取り、飲もうとした。

 だが目が眩んで水をこぼしてしまう。

 誰かがそれを支え、水を飲ましてくれたような気がしたが、よくわからなかった。




「お前は命令には敏感だな」

 翌朝、熱の下がったわたしが居室に顔を出して朝の挨拶を述べると、書見していた殿が呆れ返ってつぶやいた。

 思わず笑ってしまう。

「もちろんです。殿の下知であれば」

「まぁ……、よい」

 何よりだと言ったような気がしたが、殿は口の中に留めた。

 それから嫌そうな顔で部屋の片隅に向かってあごをしゃくる。

「今宵は、あれを着る。手伝え」

「……御意」

 殿は華美なものや改まった装いが大嫌いだった。お実城さま(のちの上杉謙信の尊称)はそういったものを好んでいて、時には顕景さまの側仕えでしかないわたしにも分けてくださるが、どうやら殿にとってはありがた迷惑であるらしい。

 苦笑しながら頭を下げると、もう用は済んだとばかりに、顕景さまは書見に戻った。きっちりと背筋を正して書見台に向き合う。

 わたしは深々と叩頭して、顕景さまの居室から出た。

 風が冷たい。

 青空の鮮やかな日だった。

 庭を埋め尽くす雪が、白く、眩しい。

 わたしは大きく息を吸って冬の冷たさを飲み込み、ゆっくりと吐き出した。

 ――今日はまず、城内の雪かきだな。

 雪かきは城の衛士の仕事だったが、わたしが手伝えばそれだけ早く終わるだろう。それから殿に言いつけられている書物の校合と、坂戸にいる母上に手紙を書いて、あ、昼までには先ほどの着物の着付け方を復習しておかないと……。

 冷たい廊下を歩きながらつれづれと考えて、わたしはふと、後ろを振り返った。

 今の非力なわたしには、殿を支えることなど出来ないだろうが、こうして過ごす毎日を少しはよりよいものに出来るかも知れない。

 そのためには、よく学び、よく見ることだ。

 ……すべてはそれからだ。

 もう一度、真っ青な空を見上げてから歩き出した。


 終わり  


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