欠けた音
最近このアパートに引っ越してきた。
毎晩ちょうど零時になると、決まって隣の部屋からピアノの音が聞こえてくる。
おなじ曲を繰り返し、毎回おなじところで躓く。
夜な夜な響く不完全な演奏はどこか不気味で、何より眠りを妨げられ、苛立ちが募っていった。
ついに耐えかねた私は、その夜、隣の部屋を訪ねた。
ピンポーン、と軽い電子音が演奏に混ざると、ぴたりと音が止んだ。
この日、ようやく静寂が訪れた。
「あの、すみません。隣の者ですが。ピアノの音で眠れないので、少し控えてもらえませんか」
私は、眠れぬ苛立ちとまだ一度も顔を合わせたことのない隣人への緊張を抱えながら、ただドアを見つめていた。
ところどころ塗装は剥がれ、露出した金属には赤錆が浮いている。
キィ、と高い音を立てて扉が開き、暗闇の奥から隣人が姿を現した。
「本当にすみません、つい夢中になってしまって……」
申し訳なさそうに眉を下げながらも、どこか人懐こいほどの柔和な笑みを浮かべている。
「お詫びと言ってはなんですが、すぐにお茶を淹れますので。どうぞ、中へ」
そう言うと、断る間もないほど自然な所作で、私は部屋へと招き入れられた。
生活感が欠片もない簡素な部屋。
その中央では、アップライトピアノがまるで部屋の主かのように鎮座していた。
ピアノから三歩ほど離れたテーブルの上で、一本の蝋燭の灯が静かに揺れている。
誘導されるまま、私は用意された椅子へ腰を下ろす。
白く湯気を立てた紅茶が、かちゃり、と小さく音を鳴らしてテーブルに置かれると、琥珀色の水面が反動でわずかに揺れる。
少し遅れて、隣人がテーブルを挟むようにして静かに腰を下ろした。
ピアノに向かい合っていない隣人の部屋からは、自分の下で椅子がギィ、と悲鳴を上げる音だけが妙に耳に残った。
暗闇の中、蝋燭の灯にぼんやりと浮かび上がる隣人の肌は、不健康なほど白く光を弾き、瞳だけが深淵のように光を吸い込んでいた。
その様相は、人ならざる者を思わせるほど不気味だった。
肌寒さすら感じるような空気のなか、隣人はそんなことには気づいていないかのように、浮き立った声で話しはじめる。
「実は、以前こちらに住んでいた方にも、同じようにご迷惑をおかけしてしまいまして。その方には、本当に『良く』してもらったんです」
「よくしてもらった、ですか?」
「ええ。とても気前の良い方でした」
そのときを思い出しているのか、口元が弧を描いていた。
「今日はいい日ですね」
細められた瞳は、相も変わらず暗闇を映したままだった。
「……そうですか?」
「ええ。あなたが来てくれたので」
私はただ、騒音の注意をしに来ただけだ。
それなのに隣人は、まるで気心の知れた友人と話しているかのような態度で私を見つめてくる。
「そうだ。せっかくですので、一曲いかがですか?今日は静かに弾きますね」
隣人は音もなく椅子から立ち上がり、部屋の中央へと向かった。
ピアノの前に腰を落ち着けると、蝋燭の灯が拍手をするように揺らめく。
いつも通りの旋律が、いつもより近い距離で頭に響いた。
そして、いつものように同じところで音が外れた。
「この曲、難しいんですよ」
そこまで難しい曲なのかと、私は隣人の手元を盗み見た。
――白い肌の隣人に似つかわしくないほど、茶色く干からびたような『なにか』が、鍵盤を弾いていた。
「前の住人さんは快く指をくれたのですが、事故のあと、一本だけ回収できなくて」
枝のような指が、ただ一本分の間を空けて並んでいる。
つぎはぎの指が、鍵盤の上を踊っている。
「だから、どうしてもあの『ミ』だけ、届かないんです」
音が止まり、静寂のなか、静かに振り返った。
「でも、驚きました。あなた、本当に綺麗な指をしていらっしゃる」
闇を飲み込んだ瞳が私を捉えた。
唇の端が限界を知らぬほどに吊り上がっている。
何かを探すように、ピアノの椅子を指先で撫でた。
音もなく立ち上がり、私の視界をゆっくりと埋めていく。
その手元で、薄い金属のようなものが蝋燭の灯を受けて鈍く光った。
私の記憶に残っているのは、突き刺すような耳鳴りだけだった。
気がつくと、窓の外にはすでに星が浮かんでいた。
体がひどく重い。
どうやらいつの間にか眠ってしまっていたらしい。
今日こそあのピアノの音に邪魔されず、静かに眠りたい。
そう願いながらゆっくりと身体を起こしたとき、視界の端を妙に白いものが横切った。
手首から先に分厚い包帯が、ぐるぐると巻きつけられている。
血の気が引いた。
――まさか。
ちょうど零時に隣の部屋からピアノの音が聞こえてきた。
おなじみの曲が繰り返される。
しかし、今夜の演奏は一つの音も欠けていない、完璧なものだった。
隙間なく並んだ十の指。
一本だけ鍵盤と似た白い指が鍵盤を弾いていた。
隣人は深淵のような瞳で、うっとりと両手を見つめている。
「やっと完成しました」




