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皇女は兄の異変に気づいた——書庫の写本師の前でだけ、兄の喉が低く震えることに

作者: 歩人
掲載日:2026/05/02

 花月の午後の光は、白亜の回廊を斜めに射貫いて、石畳に長い影を落とす。


 わたくし——アクトニア皇国第三皇女クラリスは、回廊の柱の影に身を寄せて、書庫塔へ向かう兄上の背を見つめていた。


 兄上、ライオネル・アクトニア皇帝、御年三十二歳。

 黒地に銀の刺繍を施したローブを纏い、長身の歩みは整然としている。歩幅は変わらず、靴音は等間隔。表情筋はいつも通りに死んでいる。

 群臣はそれを「鉄面皇帝てつめんこうてい」と呼ぶ。


 わたくしは羊皮紙の手帳を開き、羽根ペンの先をすずりに浸した。


 ——兄上は、書庫の写本師の前でだけ、喉が低く震える。


 書き留める。インクが羊皮紙にすうっと染み込んで、文字の形が確定する。

 わたくしはそれを三度読み返した。何度読んでも、観察した事実は変わらない。


 兄上が書庫の塔の前で一度立ち止まり、扉に手をかける前に、ほんの一瞬だけ顎を引いた。あれは深呼吸の仕草。あれは、どの謁見の前でも、どの裁可の前でも、決して見せない動き。


 あの扉の向こうにいるのは、宮廷写本師フェリシア・ヴェルメイユ。

 二十二歳、庶民出身、最年少首席合格、銀色がかった黒髪、藍色の瞳の女人。


 兄上は扉を押した。皇帝が自ら書庫の扉を押す光景——これも本来あり得ない振る舞いだった。侍従が代わりに開けるのが慣例だ。


 わたくしの侍女が、傍らで小さく息を呑んだ。

「殿下、あの……」

「ね、見て」

 わたくしはペンを止め、声を低くする。

「兄上は何かを言葉にする寸前のようでした」


 侍女は何も答えなかった。

 代わりに、彼女もまた、書庫塔の閉じた扉をじっと見つめていた。


 わたくしは手帳の頁を捲り、空白の欄に羽根ペンを置いた。今日の観察は、まだ始まったばかりだ。


 兄上は、母上が亡くなってから九年、表情を消してきた。わたくしは八歳の時に母上を失い、それからずっと、兄上の表情の代わりに兄上の所作を読んできた。所作は嘘をつかない、と侍女頭が教えてくれた言葉を、わたくしは信じている。

 所作は、感情の翻訳だ。


 兄上の喉が震える、というのは、極めて稀有な現象だった。わたくしの観察記録の中で、兄上の喉が震えた事例は——今日まで、十二回。すべて書庫の中。すべて写本師ヴェルメイユとの対話の最中。

 他の場所では、一度もない。

 他の女人の前でも、一度もない。


 わたくしは羽根ペンを握り直した。今日も、たぶん十三回目になる。




 書庫の扉を閉じた瞬間、私の世界は紙の匂いに変わる。


 羊皮紙、墨、革表紙、それから乾いた埃の微細な層。古典の書架に挟まれた特別書庫の空気は、宮廷のどの部屋とも違う。ここでは皇帝の歩みが許される唯一の方角は——書見台のほう、ただそれだけだ。


「陛下」


 書見台の手前で、フェリシア・ヴェルメイユが軽く膝を折った。藍色の前掛け、白い長袖、銀色がかった黒髪を編み込みの一筋に纏めている。指先には羽根ペンの墨が薄く染み、しかし爪は短く清潔だった。

 彼女の佇まいの整い方は、礼法を学ぶために整えたのではなく、書物に対する三年の敬意が指先まで沁み込んだ結果だ——と、私は以前にそう判断した。


 私は短く頷く。

「裁可は午前で済ませた。第三章の続きを聞こう」


 フェリシアは書見台に置かれた『アクトニア建国記』の写本を慎重に開いた。原典は別棚に厳重に保管され、私が見ているのは彼女が三年かけて校訂しつつある写本だった。

 彼女は革表紙の角を傷めぬよう、両手で支えるようにして頁を開く。羊皮紙の擦れる微かな音が、書庫の静寂に溶ける。

「第三章、第七節の補題に、解釈の選択肢が二つあります」

「述べよ」

「初代皇帝アルカディウスが地下鉱脈を『見出した』と読むか、『再び見出した』と読むかで、皇国建国前の歴史の解釈が変わります。母音の長短は写本ごとに揺れています」


 彼女は羽根ペンの先で、本文には触れず、その上の空気だけをなぞった。原典に物理的に触れない指の動きは、彼女が常に守る規則だった。


 私は書架の影に立ち、彼女の指が指す行を見つめた。古アクトニア語の母音記号が、確かに二通りの解釈を許す形に書かれている。

「貴官の見解を述べよ」

「陛下、その仮定は第二章の補題と矛盾します」


 彼女は遠慮なく、まっすぐに告げた。

「第二章で『この地に到達した』と訳されている語形は、初発を意味する活用です。『再び見出した』と読むには、その活用を改める必要があります。原典の校訂者は、それをしなかった。よって、第三章の解釈は『見出した』が妥当です」


 短い、密度の高い反論だった。

 私の周囲では、群臣はおろか、宰相ですら、皇帝の仮定に反論する時には半歩下がってから言葉を継ぐ。それが皇国の作法だ。

 彼女はそれをしなかった。半歩も下がらず、視線を伏せずに、ただ古典の論理だけで、私の解釈を更新した。


 私は——その瞬間、自分の喉が震えていることに気づいた。


 ごく微細な、外からは見えない震え。声帯のすぐ下、胸骨の真上で、何かが鳴っていた。


 私は咄嗟に呼吸を止め、震えを止める。声を発するなら、低く整った声でなければならない。それが皇帝の所作だ。

「……重畳である」

 私は短くそれだけ告げた。


 フェリシアは静かに頷き、写本に注釈を書き添えた。

 羽根ペンの先が羊皮紙を撫でる音、それから墨が滲む小さな音。

 書庫の窓から、午後の光が彼女の手元に落ちていた。


 私は書架の影から動かなかった。

 なぜなら、私の喉はまだ、微かに震え続けていたからだ。


 ——なぜだ。


 彼女の反論は学術的に妥当だった。それだけだ。優秀な臣下が皇帝の仮定を訂正した、その状況は今までにも何度もあった。誰の指摘で、私の喉が震えたことがあったか?

 答えは、ない。


 私はもう一度、自分の喉に意識を向けた。震えは収まりつつあったが、確かにそこにあった。


 「興味深い対話への生理的反応」と説明することはできる。私は合理主義者だ。違和感には説明を当てる。それで済むはずだった。


 だが——気づいてしまえば、説明は成立しない。


 私は書架の影で、自問していた。

「私は、なぜ喉を震わせている?」




 その夜、私は執務室で決裁書類の山と向き合っていた。


 大理石の卓に整然と並べられた羊皮紙の束。インク壺、銀の筒に納めた羽根ペン、皇帝の印章、それを温めるための小さな蝋燭。

 私の決裁は速い。三百年の皇国の歴史で、私の処理速度は中位より上に位置するはずだ——そのはずだった。


 今夜、ペンが進まない。


 書庫を訪れた日は、決裁速度が違う。違う、と私は思う。違うように、感じる。

 しかし「感じる」では足りない。私は合理主義者だ。データを取らねばならない。


 私は侍従長モリス・グランドに命じた。

「過去三か月の業務日誌を持参せよ」

「御意」


 モリスは即座に羊皮紙の束を運んできた。皇族三代に仕える老侍従、白髪混じりの灰色の髪、こめかみの白さが燭台の灯りに浮かぶ。彼は私の決裁速度を三百年の慣例に従って毎日記録している。

「陛下、特に何の項目をお探しですか」

「特に……何でもない。確認するだけだ」


 モリスは何も言わずに、ただ目線を一段落として控えた。


 私は日誌を捲った。


 花月一日、書庫滞在あり、午後決裁書類三十二件。

 花月二日、書庫滞在なし、午後決裁書類二十一件。

 花月三日、書庫滞在あり、午後決裁書類三十五件。

 花月四日、書庫滞在なし、午後決裁書類二十件。


 ……ここで、私はペンを置く。


 書庫を訪れた日と、訪れなかった日で、決裁書類の処理件数に明白な差がある。書庫の日が、訪れない日の概ね一・五倍から一・六倍。これは——偶然の範疇を、明確に超えていた。


 私はもう一度、過去三か月のフェリシアとの接点を頭の中で整理し始めた。


 第一回。一月前の校訂会議で、彼女が『ヴェルメイユ写本』の本文異同について意見を述べた時。私は当初、第十二節の「光」を比喩として読んでいた。彼女は「これは光の物理的な角度を示す術語です」と告げた。私の解釈は崩れた。私は反論できなかった。

 私の喉は——あの時も、震えたか? ……記憶にない。だが、可能性は否定できない。


 第二回。半月前、彼女の写本の精度を改めて確認した日。同じ文字を百回書いて、揺らぎが〇・五ミリ以下。私は墨の濃さの均質さに見入っていた。彼女が紙を整える指先の動き、その細やかさ。

 私の喉は——あの時も、震えていたかもしれない。


 第三回。一週間前、古アクトニア語の発音を尋ねた時。彼女が「正確な発音は失われていますが、母音の長さから推測されるのは——」と即座に答えた。その答えの組み立て方の精緻さに、私は感心した。

 いや、感心という語では足りない。あれは——感嘆だった。

 彼女は古い時代の音韻学の論文を脳内で索引化していた。私が「失われた発音」と問うた瞬間、彼女の脳の中で複数の論文の章節がほぼ同時に検索され、最も妥当な仮説が母音の長さという一点に集約された。その思考の速度を、私は彼女の瞳の動きで読み取った。彼女は答える前に一瞬だけ視線を斜め上に流す癖がある。あれは、内的索引を引く動作だった。


 第四回——これは、つい三日前のことだ。

 彼女が書庫の窓を開ける角度を直し、墨壺の蓋を閉めた指の動きを、私は書架の影から見ていた。彼女は私の存在に気づかぬまま、書架と書見台の間を音もなく動き、写本作業を続けていた。その動きには無駄が一つもなかった。彼女が一日の作業の中で立つ位置と歩幅は、書庫の構造に対して最適化されていた。

 あの時、私は彼女の作業を半刻以上、ただ見ていた。書架の影に立ち尽くしたまま、何も声をかけずに。

 三日前の私の決裁速度は——確認するまでもない。書庫滞在の日だった。


 私はペンを置いて、執務室の天井を見上げた。


 モリスが私の様子を見て、静かに茶を運んできた。彼は何も問わない。彼の振る舞いはいつも、必要な事実だけを差し出す。

 茶器の置き方も静かだった。卓に当たる音がほぼなく、湯気だけが燭台の灯りの中で立ち昇った。


 私は茶を一口飲み、考えた。


 フェリシアという人物は、どういう存在か。庶民出身、最年少首席、二十二歳。三年で『建国記』第三章の暗号化された記述を解読しつつある人物。学者たちは彼女の写本を「原典より正確」と評している。


 彼女が朝六時に書庫へ来て、夜九時まで作業していることを、私はモリスから報告で知っている。湿度を一定に保つために、彼女は窓の開閉を一日に十数回繰り返している。

 書庫塔の窓は北向きと東向きで、季節ごとに風の入り方が違う。彼女は窓を開ける角度を、外気の湿度に応じて指三本分から拳一つ分まで使い分ける。それは誰にも教わっていない、彼女が三年の作業の中で身につけた職人の感覚だった。


 墨の調合を毎週変え、紙の繊維を季節ごとに選び直す。

 冬は墨を薄め、夏は濃くする。羊皮紙の繊維が縮む方向と書く線の方向を、彼女は毎日確認する。校訂作業の前に、必ず指先を温水で温め、その後布で水気を完全に拭き取る。指先の脂が原典に触れぬよう、写本作業の間は手袋を併用する。

 これらの習いは、彼女が宮廷写本師に登用される前から、地方都市の書写工房で身につけていたものだった。


 皇国の機密文書を写本する際、彼女は無自覚に自前の暗号化技法を併用していて、それが原典より複雑な——そう、原典より複雑な解読難度を持っている。

 これは奇妙な事実だ。彼女は機密化を意図していない。ただ、彼女の写本は、原典の暗号と彼女の癖が二重に重なって、結果として外部の解読者には極めて困難な構造になっている。皇国の機密保全という観点で、これは予期せぬ恩恵だった。

 三年前、私が校訂責任者として彼女を登用したのは、まさにこの「写本師としての精度」の評価に基づく判断だった。地方都市の書写工房から推挙され、登用試験を最年少首席で通過した経歴。試験では、彼女は古アクトニア語の母音記号の差異を、誰よりも早く言い当てた。私は校訂事業の責任者にふさわしいと判断し、彼女に建国記の校訂を委ねた。

 その判断は、皇国の機密保全という観点では、結果的に最善だった。庶民出身の写本師に建国記第三章を委ねるという決断には、当時、宰相からも反対の声があった。私は数値で押し切った。彼女の写本精度の数値、彼女の処理速度の数値、彼女の指の安定度の数値。

 数値で説明できる範囲を、私は越えなかった。そのつもりだった。


 これらは、優秀な臣下への評価として、十分に合理的な事実だ。

 私は彼女を「優秀な写本師」として扱っている。そのはずだ。


 しかし、私の決裁速度は、書庫を訪れた日に一・六倍に上がる。


 ……一・六倍。


 私はインク壺に羽根ペンを浸し、しかし羊皮紙には何も書かなかった。

 ペンの先からインクが垂れ、白い羊皮紙に黒い斑点を一つ落とした。




 翌日の午後、モリスは私の執務室の卓の傍に立っていた。彼は両手に古い日誌の束を抱え、整然と並べる。


「陛下、過去三か月の決裁速度を整理いたしました」


 私は短く頷いた。


「書庫を訪れた日: 平均三十三・四件。訪れなかった日: 平均二十・八件。比率は概ね一・六倍。三か月分のデータで、誤差の範疇を明確に超えております」


 モリスの声は、穏やかで、しかし揺るぎなかった。


 彼は続けた。

「陛下、書庫を訪れる日と訪れない日で、午後の決裁速度が違います。書庫を訪れた日のほうが、一・六倍速いのです」


 私は——顔色を変えなかった。それは皇帝の所作の最後の砦だ。

「貴官、それは偶然の範疇である」

「畏れ多くも、申し上げます。陛下、三か月分のデータで偶然と呼ぶには、揃いすぎております」


 モリスは目線を私に合わせなかった。彼の物腰は常に控えめだ。だが、彼が私に向かってこの種の指摘をするのは、皇族三代に仕えてきた経験の重みからだろう。

 私はそう、解釈した。


「下がってよい」

「御意」


 モリスは一礼し、執務室を退いた。

 扉が閉まった瞬間、私は卓の上の日誌を凝視した。


 ……一・六倍。


 その夕、皇女クラリスから書状が届いた。

 封蝋は皇女の紋。羊皮紙は薄手、皇族専用の上質なもの。

 封蝋を割る指の動きが、いつもより僅かに緩慢だった、と後で思い返す。

 私は封を切り、文面に目を落とした。


 ——兄上、フェリシア嬢のことが好きなのですか?


 直球だった。

 書状の真ん中に、たった一行。前後の修飾も、近況の挨拶もない。クラリスがこういう書き方をする時は、彼女の中で結論が既に出ている時だ。彼女は宮廷の慣例に従って前置きを書くことができる、それだけの教養を持っている。それをしないのは、彼女が結論を私に問うているのではなく、私に確認させているからだった。

 私は書状を二度、三度読み返した。文面は変わらなかった。

 クラリス。お前は、いつも兄より先に兄を見つける妹だ。それは知っている。だが今回は、あまりにも、早すぎる。

 お前は十七歳。母を亡くしてから九年、私を唯一の家族として観察し続けてきた九年。その九年の蓄積が、この一行に集約されている。お前の手帳には、私が今夜どの書類でペンを止めたかまで、記録されているのだろう。


 私は返事を書こうとした。

 卓に新しい羊皮紙を置き、羽根ペンに墨を付け、書き出した。


 ——私が好きと感じるのは、彼女の写本の精度であって……


 ペンが、止まった。

 書きかけの文字が、羊皮紙の上で凍結した。インクが羽根ペンの先から落ち、文字の終わりに黒い斑点を作った。


 ……俺は、なぜ書庫の前で喉が震えるのだ。


 心の中で、一人称が崩れた。私と俺。皇帝の声と、一人の男の独白。

 誰にも聞かれていない、誰にも見られていない、たった一人の執務室の中でだけ、私は俺になる。


 俺は羊皮紙を裏返した。書きかけの返事を、誰にも見せたくなかった。


 俺は、卓の上の業務日誌をもう一度開いた。

 花月一日、書庫滞在あり。

 花月二日、書庫滞在なし。

 花月三日、書庫滞在あり。


 ——俺の決裁速度は、お前のいる日に一・六倍になる。


 その夜、俺は妹への返事を書かなかった。




 花月の十五日、夜半。


 皇宮の北東翼で警報の鐘が鳴った。


 俺は——いや、私は——執務室から立ち上がり、剣を取った。

 窓の外は月のない闇、皇宮の警備の松明が方々で揺れている。


 伝令が駆け込んできた。

「陛下! 隣国ザヴァールの密偵、二名、宮殿に侵入。標的は——」

「述べよ」

「『アクトニア建国記』第三章の暗号解読資料です。場所は——特別書庫」


 私の脳裏で、二つのことが同時に発動した。


 一つは政治判断。警備隊を東門と図書館塔の三方向に展開、密偵を捕捉、外交上の証拠物件として生け捕り優先。

 これは皇帝として正確な判断だ。私は伝令にそう命じる準備ができていた。


 もう一つは——一つの、狂った計算。


 フェリシアは、いま、書庫にいるか。


 彼女は朝六時から夜九時まで作業する。今は夜半。普通なら帰宅している時刻だ。だが、第三章の解読が大詰めを迎えていることを、私は知っていた。彼女が泊まり込みで作業を続ける可能性は、ある。


 私は伝令に命じた。

「警備隊を東門と図書館塔に展開せよ。生け捕り優先。私は——」


 言葉を切った。

 次に告げるべき指示を、私は持っていなかった。


 皇帝として正しい指示は「執務室で待機」だ。皇帝が単独で剣を持って動くなど、皇国三百年の慣例にない振る舞いだ。それは皇帝の身を危険に晒し、警備指揮系統を混乱させ、外交上の口実を相手国に与える。教科書通りに考えれば、私は今、執務室で警備隊長の報告を待つべきだった。


 しかし。


 私の頭の中で、もう一つの声が、無視できない強度で鳴っていた。

 ——フェリシアは、書庫にいるかもしれない。


 いるかどうかは、判らない。仮に書庫にいたとしても、警備隊が辿り着くまで持ちこたえれば、彼女の命は救える可能性が高い。確率論で考えるなら、私が単独で動く必要は、ない。


 ただ——私は思った。校訂事業の責任者を失えば、第三章の解読は数年単位で停滞する。代わりはいない。彼女の三年の蓄積は、彼女の頭の中にしか残っていない。それは皇国の機密保全上、看過できない損失だ。

 そう、自分に言い聞かせかけて、私はその言葉が嘘であることを、同時に知った。

 代わりがいないのは、写本師としての彼女ではない。

 彼女自身に、代わりがいないのだ。


 私は、確率論を捨てた。


 私は伝令を下がらせ、扉に手をかけた。

 モリスが扉の傍に立っていた。彼は私の顔を見た。何も言わなかった。

 ただ、目線で、彼は私に問うていた。——本気ですか、陛下。


 私は答えた。短く、低く。

「行く」


 モリスは深く一礼し、扉を開けた。

 その仕草は、彼が三十年の侍従生活で初めて見せる種類の、静かな決断の動きだった。


 私は皇宮の回廊を駆けた。

 マントが翻り、靴音だけが大理石の回廊に響く。すれ違う侍従は道を空け、何が起きているのか分からないまま頭を下げた。皇帝が単独で剣を持って走る——その光景を見たのは、彼らが生まれて初めてだろう。

 いや、生まれて初めてどころではない。皇国三百年の歴史で、皇帝が単独で剣を持って走った前例は、初代皇帝アルカディウスが建国の戦で陣頭に立った逸話、たった一つしかなかった。

 今、私は、その慣例を破っていた。


 書庫塔への階段を駆け上がる。

 石造りの螺旋階段、踏み面が摩耗で僅かに窪んでいる。普段なら気にならない段差が、今は足首に微細な負荷を返してきた。私の身体は走ることに慣れていない。皇帝の歩みは整然と、速くは歩いても駆けはしない。

 心臓が——速い。これは合理的な反応ではない。私は戦場で何度も人を斬ってきた。獣魔の襲撃にも、隣国の刺客にも、表情を変えずに対峙してきた。

 今、心臓が速いのは、戦いへの反応ではなかった。


 書庫塔の二層目を抜け、三層目の特別書庫へ。

 書庫塔の警備動線は、皇宮の外周を厚く、塔内部を薄く取る設計になっている。古典の保管庫を奥に置き、外から内へ抜くまでに複数の関門を作る——三百年前の建築家の思想だった。塔の内部に侵入を許せば、そこから先は分厚い鋳鉄扉が時間を稼ぐはずだった。

 扉に到達した。

 扉は半開きだった。本来なら鍵が掛かっているはずの鋳鉄の扉が、僅かに歪んで隙間を開けていた。鍵は外側から壊された痕跡があった。鋳鉄を歪ませる音は、塔の螺旋構造に吸われて階下まで届きにくい。それも、三百年前の建築の意図のうちだった——皇国の機密が外へ漏れぬよう、内の音を内に閉じ込める設計。今夜はその設計が、皇国にとって裏目に出ている。

 中で、微かな物音と、それから——息を殺した、誰かの呼吸。


 私は剣を抜いた。

 鞘から引き抜く際の僅かな擦過音すら、今夜は耳障りに思えた。


 扉を蹴り開ける。


 燭台の灯りの下、書見台の傍、柱の影に、フェリシアが古典の写本を抱えて隠れていた。藍色の前掛け、銀色がかった黒髪が乱れている。藍色の瞳は大きく見開かれている。

 彼女は私に気づき、声を発しかけて——飲み込んだ。誰がいるか分からない場で、声を出せば、それは彼女の位置を明かすことになる。彼女は自分の判断でそれを抑えた。


 密偵が二人、書架の間にいた。

 黒い装束、顔布で口元を隠している。ザヴァール式の短剣、刃渡りはやや短い、近接戦闘特化。

 一人は私に気づいて剣を構えた。もう一人は——フェリシアに気づいた。


 私は、最初に気づいた密偵を屠った。剣の一閃、相手の脇を抜けて喉。皇国の戦闘魔法を併用しない、純粋な剣術だった。

 幼少から教わった剣術の基本動作、間合いの詰め方、刃の角度。それらが、考える前に身体に出た。

 血が書架の側面に飛んだ。古い革表紙に赤が散る。倒れる音、それに続いて、短剣が石床に転がる金属音。


 その瞬間、もう一人がフェリシアに刃を向けた。

 彼女は写本を抱えたまま、動けなかった。古典の重みと、恐怖の重みが、彼女の足を石床に縫いつけていた。


 私は——飛んだ。


 彼女と密偵の間に身を入れた。剣を受けるか、避けるか、判断する時間はなかった。

 私は左腕で刃を受けた。

 受けた、というよりも、左腕を差し出した、という方が近かった。彼女に刃が届くより、私の腕に刃が届くほうが、僅かに早い角度を選んだ。


 皮膚が裂け、血が藍色の前掛けに飛んだ。フェリシアの前掛けに、私の血が散った。

 痛みは——遅れて来た。一拍遅れて、左腕の感覚が戻ってきた。骨は折れていない、筋を一本切られた、それで済んだ、と私は瞬時に判定した。

 それでも私は、剣を返した。右手の剣で、二人目の密偵の喉を突いた。

 密偵の体が崩れ落ちた。


 書庫が、静かになった。

 燭台の灯りが揺れている。羊皮紙の匂い、墨の匂い、それから——血の匂い。

 書庫の床に倒れた密偵二体、書架に飛び散った血、書見台の前で凍ったまま立ち竦むフェリシア、そして扉の蝶番が壊れた音だけを残した、夜半の特別書庫。

 階下で警備隊の靴音が回廊を駆けてくる音が、遠く聞こえてきた。あと数十秒で、書庫の扉に到達する距離だった。


 私の左腕から、血が滴っていた。

 石床に、赤い点が一つ、また一つ。等間隔ではなく、不規則に落ちる。脈に合わせて、血が滴るからだった。

 フェリシアは——まだ、写本を抱えていた。震えながら。

 彼女が抱えていたのは『アクトニア建国記』第三章の校訂稿。三年の作業の蓄積。皇国の機密。彼女の生命より、彼女が優先して守ったもの。

 その腕の中の写本に、私の血は飛んでいなかった。彼女が無意識に身体を捻り、写本を血から守る角度に保っていたからだった。


 私は剣を鞘に納め、彼女の前に膝をついた。彼女と目線を合わせるように。


「無事か」

「……陛下、お腕が」

「無事か」


 私はもう一度問うた。

 フェリシアは小さく頷いた。「はい」と、声にならない声で。


 私は——その瞬間、初めて、自分の心を言語化した。

 誰にも聞こえないように、しかし彼女にだけ届くように、低く告げた。


「私は、君を、失いたくない。それだけだ」


 フェリシアは目を見開いた。彼女の藍色の瞳に、私の鉄面が映っていた。

 その鉄面は——もう、鉄面ではなかった。


 扉の外で、警備隊の靴音が回廊を駆けてくる音が聞こえた。

 皇帝が単独で書庫に入った——その異例の事態に、皇宮の全機能が動き始めていた。




 夜明け前。


 書庫の片隅、燭台の灯りの下、フェリシアが私の左腕に包帯を巻いていた。


 立場が逆転していた。いつもなら私が彼女の写本を裁可し、彼女が頭を下げる。今は、彼女が私の腕を治療し、私が静かに座っている。


 彼女の指は、震えていた。だが、写本を扱う時の精度は失われていなかった。包帯の巻きは均一で、緩みも締まりすぎもなかった。一定の張力で巻かれた麻の包帯が、傷口の上で僅かに圧を保っている。出血を止めるための圧、しかし血流を妨げない圧、その均衡を彼女の指は知っていた。

 彼女は薬草の心得もあった。庶民出身の写本師は、しばしば多能を求められる。地方都市の書写工房では、職人が自分の指を傷めた時に治療する技術を、家族から受け継ぐ慣習があった。彼女の祖母が薬師だったのか、母が産婆だったのか——私は知らない。だが、彼女の指の動きは、書物に向かう精度と同じ精度で、人の傷に向かっていた。


 彼女が傷口に薬草の汁を擦り込んだ。

 草の青い匂いと、僅かな苦みの香りが立ち昇る。傷口にしみる感覚と、しかし血が止まり始める感覚が、同時に訪れた。

「……痛みますか」

 彼女が小さく問うた。

「問題ない」

 私は短く答えた。彼女は頷き、包帯の最後の結び目を整えた。


 書庫の扉の外、廊下にモリスが立っていた。彼の靴音すらしない。彼は皇帝と一人の女人の会話を、聞かない位置で待機している。それが彼の流儀だ。

 モリスは三十年の侍従生活の中で、こういう瞬間に何度立ち会ってきただろうか——と、私は一瞬だけ考えた。前の皇帝にも、前の前の皇帝にも、彼が「聞かない位置で待機する」場面は、確かにあったはずだ。


 私は息を吐いた。

「フェリシア」


 彼女は手を止めた。藍色の瞳が、私を見上げた。

 名前で呼ばれたのは、初めてだった。


「私は、君のいる日と居ない日で、決裁速度が違うらしい」


 彼女は瞬きをした。


「私はずっと、それを優秀な臣下への評価だと自分に説明してきた」


 彼女の指は、包帯の端を持ったまま、止まっていた。


「だが——もう、説明する必要はない」


 私は告げた。短く、低く、しかし鉄面の奥にあるものを、初めて声に乗せた。

 声を発する直前、私の喉は震えていた。書庫で議論する時と同じ震え。だが今夜は、その震えを止めなかった。震えたまま、声を出した。


 フェリシアは、目を見開いた。

 彼女の藍色の瞳が、燭台の灯りを反射して、僅かに揺れた。瞳の奥に、彼女の整った思考が動くのを、私は読み取った。彼女は何かを言いかけて、それから一度沈黙し、もう一度言葉を組み直した。

 それから——少しだけ、笑った。

 彼女の笑顔は、写本を仕上げた時に見せる、あの控えめな満足の表情に似ていた。校訂作業で長く悩んだ箇所が、ある日の朝に突然、論理の繋がりとして見えた瞬間の、あの静かな笑み。

「それは……国政に影響しますね」


 私は、僅かに口角を上げた。

 二十六歳で即位して以来、表情筋を意図的に動かしたのは、これが初めてだった。鉄面の輪郭が、ほんの一筋だけ緩んだ。それを「笑顔」と呼べる日は、まだ先にあるだろう。だが、緩みの方向に動いたのは、確かだった。


 扉の外で、モリスの控えめな足音がした。彼は静かに告げた。

「陛下、皇女殿下から伝言です」


 私は応えた。

「述べよ」

 モリスは扉の隙間から、小さく折りたたんだ羊皮紙を差し出した。私はそれを左手では受け取れず、フェリシアが代わりに受け取り、私の前で広げた。

 彼女の指が、皇女の書状に触れた。庶民出身の写本師が、皇族の私的な書状に触れる——それは本来あり得ないことだった。だが今夜、その線は既に越えられていた。彼女自身は、それに気づいていない様子だった。書状の文字を私のために広げる、それだけの動きだった。


 皇女クラリスの細い文字が、そこに並んでいた。

 彼女は十七歳。皇女としての書字訓練を受けているから、書状の体裁は整っている。だが文字の癖に、十七歳の妹の気配が残っていた。


 ——兄上の喉、もう震えませんでしたよね。


 私は——息を吐いた。

 お前は、いつも兄より先に、兄を見つける妹だ。

 お前が手帳に何を書き留めているのか、私は長い間、知らない振りをしてきた。お前の観察日記が皇宮の書斎の片隅に積まれていく速さを、私はモリスから報告で聞いていた。お前の侍女が、お前の手帳の頁数を毎月報告していたことも、知っていた。

 だが、私はそれを止めなかった。お前の観察癖は、母を亡くしたお前が、世界を理解するために選んだ術だった。それを止めることは、お前から手帳を取り上げることだ。それは、私には、できなかった。

 今夜、お前の観察は、私を救った。それは、お前にも告げる時が来るだろう。


 フェリシアは書状の文面を覗き込み、それから私を見た。彼女の藍色の瞳には、純粋な疑問があった。

「殿下は……?」

「私の妹は、観察が趣味だ」

「左様で、ございますか」

「お前のことを書庫で見るたび、彼女は手帳に書き留めていたらしい」


 フェリシアは少し赤くなった。

 私は、もう一度息を吐いた。


 外で、夜が明け始めていた。書庫の高窓から、淡い灰の光が差し込んできた。

 夜が明ければ、宮廷が再び動き出す。皇帝が単独で書庫に入った件、隣国の密偵を屠った件、それらの政治的処理が始まる。皇帝の私的時間は終わる。


 私は立ち上がった。左腕は痛んだが、歩けた。

「フェリシア」

「はい、陛下」

「君の作業机を、執務室の隣室に移す」


 彼女は瞬きをした。

「それは……」

「校訂事業の優先度が上がった、ということだ。表向きには」


 彼女は、ゆっくりと頷いた。

「畏まりました」

「表向きでない意味も、いずれ宮廷に告げる」


 彼女は、もう一度頷いた。今度は、少しだけ笑った。

 その笑顔は、写本の校訂が一段落した時の、あの控えめな満足の表情とよく似ていた。だが、僅かに違っていた。今夜の笑顔には、彼女自身の感情が、半歩だけ前に出ていた。

 彼女は皇帝の前で、初めて、自分の感情を表情の表に置いた。それは、彼女にとっても、皇国三百年の慣例にとっても、新しい振る舞いだった。


「フェリシア」

 私は、もう一度名を呼んだ。

「はい」

「校訂事業は、急がなくていい」

 彼女は瞬きをした。

「君の作業は、生涯を費やすに値する仕事だ。三年で第三章まで進んだのは、君の優秀さの証だ。だが——もう、夜九時まで作業しなくていい」

「……それは、配慮ですか」

「いいや。指示だ」


 彼女は、ふっと息を吐いた。

 私は続けた。

「夜九時以降は、別の時間に充ててほしい」

「別の時間、と申しますと」

「……まだ、決めていない。これから、二人で決める」


 彼女は、目を伏せた。

 燭台の灯りが、彼女の睫毛の影を頬に落とした。彼女の頬の皮膚に、僅かに赤みが差していた。それは私が今まで、書庫のどの議論の中でも見たことのない種類の赤みだった。


 書庫の扉を出ると、回廊にモリスが立っていた。彼は深く一礼し、私の左腕を見て、静かに告げた。

「……お見事でございました」

 私は短く頷いた。

「貴官の業務日誌は、明日から記録項目を増やせ」

「御意」

「『書庫滞在の有無』に加え、『写本師との対話の有無』『対話時間』を別欄に記録せよ。三百年の慣例を一項目、増やすことになる」

「畏まりました」


 モリスは表情を変えなかった。だが、彼が三十年仕えてきた中で、皇帝が記録項目の増設を命じたのは、これが二度目だった。前回は、現皇帝の即位の年——皇太后崩御の儀礼を記録項目に追加した時だった、と私は記憶している。

 あの記録は、悲しみを管理するためのものだった。

 今夜の記録は、もう一つ別の何かを管理するためのものだった。


 モリスは一礼し、書庫の扉を閉じた。

 扉の向こうに、フェリシアが、私の血の散った藍色の前掛けのまま、写本の傍に立っていた。

 扉の隙間から、彼女がもう一度、深く頭を下げる仕草が、僅かに見えた。それは皇帝に対する礼ではなく、一人の人間が、もう一人の人間に向ける、感謝の動きのように見えた。


 私は、回廊を歩き出した。

 花月の朝の光が、白亜の回廊に長い影を落としていた。皇女クラリスが昨日、回廊の柱の影から私を観察していたあの場所を、私は通り過ぎた。

 今朝も、彼女はどこかで観察しているだろうか——と、私は一瞬だけ考えた。妹の手帳は、今日もまた、新しい一行を書き加えるだろう。


 心の中で、私は妹に告げた。

 ——クラリス。お前は、いつも兄より先に、兄を見つけてくれる。

 そしていつか、お前自身を見つけてくれる誰かが、現れるはずだ。お前の観察癖が、その誰かを見落とさぬように、私も、お前を見ていよう。

 今夜から、私も観察者だ。お前と同じ、家族の観察者として。


 左腕の傷が、僅かに疼いた。

 その痛みの奥に、書庫の燭台の灯りと、藍色の前掛けと、銀色がかった黒髪の編み込みが、確かに残っていた。



最後まで読んでいただきありがとうございました。




 「鈍感自覚型」の溺愛ストーリーです。本作はシリーズの中でも変則的な「第三者観察型」——第1幕冒頭で皇女が兄を観察する場面から物語が始まります。


 兄の異変に最初に気づくのは、本人ではなく、よく見ている家族です。皇女クラリスの観察日記が、皇帝ライオネルの自覚を後押しする——そんな三角構造を試しました。


 書庫で古典について語り合う皇帝と写本師、というシチュエーションは個人的にとても好きで、書いていて楽しかったです。「ヴェルメイユ写本」の校訂議論は、シリーズが続けば再登場するかもしれません。




◇◆◇ 「冷徹男くろぬし溺愛シリーズ」 ◇◆◇




「冷徹だ」と言われている男たちが、ある女性にだけ無自覚に甘くなる。

そんな攻め視点・ざまぁ抜きの溺愛短編シリーズです。




▼ 公開中


(公開後にseries.yamlのS45エントリを参照して更新)




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― 新着の感想 ―
皇帝の年齢は32歳なのに、皇妃がいないのでしょうか?23歳ならまだわかるのですが。少し遅い様に感じました。でも、面白いお話でした。とても丁寧な書き方で、主人公達の心の動きがそれとなく優しく書かれていて…
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