旦那の不倫相手が図々しい顔で、別れてくれとやってきた
「大事なお話がありますの。単刀直入に言って、アレク様と離婚してくださいな!」
アレクの妻で伯爵夫人のフェルン・オードリーンは酷く困惑した。
まず、いまは父と買い物中だ。
その父が時計を選んでいるので、フェルンは店の外で待っていたところだった。
そしたら旦那であるアレクが、ブイリーン伯爵家の令嬢ヒアンナを連れてきた。
そして開口一番、これである。
「なに頭悪そうにポカンと口を開けていますの? わたくしはアレク様と別れてくれと言っています!」
ヒアンナは貴族の間でも少しオカシイということで有名だった。
なまじ見た目が良いので、食いつく男は多いのだが、性格の酷さに逃げ出してしまうらしいのだ。
フェルンもアレクも夜会などで多少交流があった程度なので、なぜ彼女が旦那との離婚を迫ってくるのか謎だった。
「あなた、どういうことなの?」
フェルンが不安そうに言うと、アレクは死んだ魚ような目でうつむきながら、
「……すまない」
否定しないことに大きなショックを受けるフェルン。
追い打ちをかけるようにヒアンナは捲し立てる。
「わたくしとアレク様は前世で結ばれていたんですのよ! お互いにそれを思い出したのです。本当の愛なのですッ。そうですよね、アレク様?」
「……ああ」
バツが悪いのか、さすがに返答に力はない。
しかし、肯定してしまったのだから不倫は確定なのだろう。
フェルンは衝撃的すぎて吐き気が込み上げてくる。
アレクと自分は愛し合っていて、なんなら世界一の夫婦だとすら思い込んでいた。
実際、彼はいつも愛していると言葉にしてくれたし、フェルン以外の女なんて興味ないとも口にしていた。
なにより、不倫の気配なんて全くなかったのに……。
でも表面上は最高の夫を演じながら、裏ではヒアンナとよろしくやっていたと。
苛立ちはもちろんある。
でも、なによりも悲しかった。
膨らんだお腹に手を当て、強く訴える。
「アレク、このお腹の子はどうするつもりなの!」
妊娠六ヶ月。
あと三、四ヶ月もすれば赤ちゃんが産まれてくる。
そんなタイミングで離婚など、あまりにも悪どい。
そもそも悪阻や体調不良などでフェルンが苦しんでいるときに、自分は性欲を他の女にぶちまけていたなど許せない。
燃え上がる怒りを直視したくないのかアレクはとにかく目を合わせない。
腑抜けた様子で地面を見つめるだけだ。
自分はそうして逃げて、あとはヒアンナに任せるつもりなのだろうか?
「フン。そんな子、アナタが一人で育てなさいな。赤ちゃんなら、わたくしのお腹にもいますから」
ヒアンナは愛おしそうに自分のお腹をさすり、隣にいるアレクの腕に頬をくっつける。
「なっ……。アレク、本当にあなたと彼女の子なの!?」
「……ああ」
「いつから? 二人はいつからそういう関係だったの?」
「だから前世で結ばれていたって聞きませんでしたの? そんな馬鹿女だからアレク様にも愛想つかされるのですわ、クスクス」
いちいち会話に入ってきては邪魔するヒアンナが鬱陶しい。
さらに彼女は、羊皮紙をフェルンに押し付けるように渡す。
離婚同意書だった。
「それにサインして欲しいのですわ。わたくしとアレク様が本当の愛を育むために」
フェルンは離婚届のサインを見て絶望に打ちひしがれる。
サインは間違いなくアレクの筆跡だ。
見間違うわけがない。
フェルンはアレクを睨みつける。
「あなたってこんな男だったの?」
「……すまない」
ただ謝ることしかできない夫の姿に、フェルンは情けなくて目頭が熱くなる。
とある夜会で出会い、二人は意気投合した。
そこから恋仲に発展し、やがてアレクはフェルンに結婚を申し込んだ。
同じ気持ちだったフェルンだが、大きな壁があった。
彼は男爵家で身分が低いため、家族全員から反対されたのだ。
特に父の拒否反応は凄まじいものがあった。
普通なら身分の違いに諦めるところ、アレクは絶対に引かない。
罵倒されても殴られてもオードリーン家に通い続け、ついには父親に認められるまでとなった。
結婚してからも彼は優しく、頼り甲斐もあった。
昨日だって体調の良くないフェルンをサポートしてくれた。
「ねぇアレク……。私、本当にこれにサインしてもいいの?」
「……ああ」
「おーほっほっほ! ほら、ペン貸してあげるからさっさと書いてくださいな」
バシッ!
投げつけられたペンを手に取り、フェルンは半泣きでサインを書こうとする。
…………やっぱりおかしい。
おかしすぎる。
「もしかして、あなたアレクに――」
「――話は聞かせてもらったぞ!」
最悪のタイミングで父親が戻ってきた。
いや少し前からいて、聞き耳を立てていたのだろう。
オードリーン家は伯爵家の中でもかなりの権力を有する。
王家や公爵家とも懇意で、貴族の中でもかなりの発言力がある。
資産も豊富で抱える兵士なども優秀な者が多い。
当主である父はフェルンには甘々なだけに、娘を傷つける者には鬼のような対応を取る。
「心底見損なったぞアレク君、いやアレク! 娘をここまで馬鹿にして五体満足で帰れるとは思っていないだろうな!」
大迫力の怒号が響く。
これには傲慢を極めたようなヒアンナもさすがにビビり散らかしている。
対照的にアレクは反応が薄い。
相変わらず、ボーッとしている。
これでフェルンの疑念は確信に変わった。
「お父様、少し待って! アレクはいま、普通の状態ではないのよ。きっと薬でも盛られているんだわ!」
まず第一に、アレクはこのような浅慮な行いをするような男ではない。
ヒアンナによる突然の急襲で、フェルンは雰囲気に呑まれてしまったが、落ち着けばわかることだ。
二人の間にある絆はそんなに浅いものではない。
いつだってアレクはフェルンとお腹の子のことを一番に考えてくれていた人。
妻が苦しいときに外で不倫して、挙げ句の果てには別の子を作るなどあり得ない。
第二に、ずっと様子が変だ。
振り返れば「……ああ」と「……すまない」しか話していない。
目が虚ろなのは、やましさからではなく、体調の問題ではないだろうか。
「あなたは薬かなにかで、この状態になっているのよ。そうなんでしょ、アレク?」
「……ああ」
呼びかけには一応反応するけれど、やはり同じような反応しか返さない。
「ななな、なにを仰っておりますのですの!? くす、薬なんてなにも……」
「薬でおかしくして、アレクにサインをさせた。そして彼が異常な間に、私にもサインさせる企みだったんでしょう!」
引きつりまくっているヒアンナの顔がすべてを物語っている。
父親がすぐに兵を呼んで、まずはヒアンナを捕らえる。
アレクには水をたっぷり飲ませたり、声がけをして朦朧とした意識が回復するのを待つ。
数十分も経つと、彼はだんだんと頭がハッキリしてきたようで、顔つきも普段の凜々しいものとなった。
フェルンが事の説明をすると、彼は過去に見たことがないくらい怖い顔でヒアンナの前に立つ。
「な、なんですの……。文句がぶべぎゃ!?」
アレクの強烈な右ストレートがヒアンナの顔面に炸裂した。
女を殴るところなんて初めて見たので、フェルンたちは驚く。
普段では絶対にあり得ない行為は、それだけ屈辱的だったということだ。
「よくも俺を騙してくれたな」
アレクは経緯を皆に説明する。
早朝、仕事に向かう途中にヒアンナが声をかけてきたらしい。
フェルンが隠れて不倫しているので、それについての相談があると。
さすがに無視はできないと館についていくと、そこで紅茶を出された。
礼儀として一口だけいただき、話を聞く。
フェルンは数ヶ月前から旅人と関係を持ち、いまもそれは続いているという内容だった。
「彼女はそんな人じゃない」
そうアレクが否定すると、ヒアンナは一人の男を連れてきた。
それが浮気相手だという。
彼もフェルンと深い仲だと自分の口で話した。
それでもアレクは信じることができず、妻に直接確認すると告げた。
その直後あたりから視界がぐにゃりと歪み、記憶が無くなってしまう。
「……わたくしとアレク様は前世で愛し合って……」
「俺が愛しているのはフェルンだけだ! お前なんてその辺のゴキブリ未満の存在だ。口を慎め!」
明確にアレクが否定すると、さすがのヒアンナも項垂れて大人しくなった。
そういえば……。
フェルンが思い出したのは、夜会で会ったときの彼女のアレクに対する態度だ。
トロンとした目で、猫なで声を出していた。
その時から機会を狙っていたのだろう。
「フェルン、サインしなくてありがとう。俺の様子が変だって気づいたんだな」
「でも最初は動転して、作り話を少し信じてしまったの……。ごめんなさい」
「気にしちゃダメだ。誰だってそうなるさ。それに、最後は気づいてくれた。それだけで俺は幸せだよ」
いつもの優しい笑顔で、アレクはフェルンを抱きしめた。
事件から一週間後。
ブイリーン伯爵家は、伯爵家ではなくなった。
フェルンの父が事件のことを取り上げ、さらには他に問題がないか調査した結果、ヒアンナはもちろん家族も犯罪まがいのことを多数していた。
通常爵位を取り上げられることはないのだが、今回は国王も目に余ると強制的に返上させた。
結果、ブイリーン家は貴族ですらなくなったのだ。
無論、父はフェルンの不倫相手の役をした者も特定して罰を与えた。
一家は離散、全員が路頭に迷ったという噂だ。
そこから半年が流れ、無事子供も生まれると、アレクは子煩悩になり、父も孫にデレデレするようになる。
まだ0歳なので気が早いが、フェルンとアレクは子供の教育方針については深く話し合った。
二人が一番嫌なのは、ヒアンナみたいな子に育つこと。
よって、ブイリーン家とは逆の育て方をしようと約束するのだった。