第五話 奪われた唇
次の日、セルリアは体調が良くないことをメイド長に申し出て一日休みをもらった。
部屋に引き籠って安静にするように見せ掛けて、セルリアは部屋の天井窓から箒に跨がって空へと舞い上がった。
広大なデートリヒ大公の所領地は王都から西へ十里ほど離れた場所にある。午後になって大公のお屋敷までやって来たセルリアは、館の裏手へと降り立った。
セルリアはここでもメイド姿で館の中へとこっそりと忍び込み、ディーン王子の想い人、レイラ姫の部屋を何食わぬ顔をして探し回った。
もし誰かに怪しまれたり、見つかった場合には、相手に眠りの呪文か忘却の呪文を掛ける心の準備をしながら。
しかしセルリアの心配とは裏腹に、この豪奢で広いお屋敷の中で数多の使用人達の中に一旦紛れて込んでしまうと、案外と怪しまれることはなかった。
そればかりか近くを歩いていた女性の使用人に新人を装って今いる場所を尋ねると、偶然にもそれがレイラ姫付きの侍女だということが分かり、レイラ姫の部屋を突き止めたばかりでなく、侍女と仲良くなることもできた。
セルリアはそのエミリーという名の姫付き侍女と暫く立ち話をしながら、レイラ姫の日常のあれこれを聞き出すことに成功した。
例えばエミリーから得た情報の一つとして、レイラ姫は毎日寝る前には必ずローズの香料入りのお気に入りのコールドクリームで、じっくりと小一時間顔のマッサージをしてからベッドに入る習慣なのだという。
──なるほど、それならば……
夜も深まる頃になり、セルリアは侍女のエミリーがパントリーでレイラ姫の就寝前のための支度をしているところにこっそりと近づき、背後から眠りの呪文を掛けた。
崩れ落ちるようにして眠り込んだエミリーから抜いた髪の毛を一本、手製の変身薬に手早く混ぜ込み、セルリアはそれを一気に飲み下した。
忽ちのうちにセルリアはレイラ付き侍女エミリーの姿に変身する。
エミリーの姿になったセルリアは、何食わぬ顔でレイラ姫の部屋の前に行き扉をノックした。
──コン! コン! コン!
「お嬢様、よろしいでしょうか? 」
「お入りなさい」
セルリアはドアを開けて姫の部屋に入った。
「もう就寝のお時間かしら、エミリー? 」
薄手の絹のナイトドレスに身を包み、椅子に腰掛け読書をしていた姫がセルリアの方へチラリと目を向けた時、そのレイラ姫の姿を見て、セルリアの口から思わずため息が洩れた。
──あぁ……これはディーン様も夢中になるはずだ……
レイラ姫の姿は、夜な夜な水盤に映したディーン王子の夢の中でその端麗な容姿は既に見知っていたものの、実物はそれ以上に優雅で見目麗しく、まさに絶世の美女と呼ぶに相応しかった。
──こんなに美しいブロンド髪なら、女のわたしだって触りたくなっちゃうし、それにディーン様と同じ大粒のサファイヤのように深く輝く瞳……そして、いつもディーン様が夢の中で眺めていたあのサクランボのように艶やかで可愛らしい唇……あぁ、もう全てが完璧だわ……
「はい。お嬢さま。早速お支度しますわ」
セルリアは何とか平静を取り戻して、レイラ姫に返事をした。
「じゃあ、お願いね──」
「──あ、あとそれから、明日の晩餐会で着るイーブニングドレスだけど、一昨日お父様に頂いたワインレッドのにするから、それに合いそうなティアラとネックレスも明日の朝食の後に一緒に見せて下さるかしら? 」
「はい。かしこまりました、お嬢様」
──あぁ、流石にお姫様の暮らしって、わたしなんかとは大違いだわ……
セルリアは化粧台横の脇机に行って、運んできたお湯差しから洗面器にお湯を注ぎ入れ、繊細な装飾が施された手鏡や櫛、タオル、化粧水、椿油、そして、お気に入りの薔薇の香料のコールドクリームなどを一式揃え終わると、最後にこの屋敷に来る前、王宮の厨房からこっそりと失敬してきたある「もの」の所在を前掛けのポケットの中に確かめてからレイラ姫に声を掛けた。
「お嬢さま、お支度が整いました……」
「えぇ。分かったわ」
レイラは瀟洒な猫脚の化粧台の前に座り、傍らに控えるセルリアに話し掛ける。
「──エミリー、今日は少し汗をかいたから、最初にお顔をタオルで拭って下さる? 」
「はい。お嬢様……」
「あら、エミリー? いつもより少し熱いわね。タオルはもう少し冷ましてからにして下さらない? 」
「これは失礼しました。お嬢様……」
それからセルリアはレイラの流れ落ちるような美しい金髪に椿油を薄く馴染ませ就寝前のトリートメントを施した。
──見れば見るほどお美しいお姫様……こんなお美しい顔にそんなことをして許されるのかしら……
セルリアはこの期に及んで少し罪悪感を感じながらレイラの髪を丁寧に櫛で梳いていく。
「いつみてもお美しい御髪ですわ……」
「あらそう? ありがとう、エミリー」
そうしてセルリアは、金髪を片側に緩く三つ編みにしてから、最後にナイトキャップを被せてあげる。
──ふぅっ……さぁて……ここからね……上手くいくかしら? 上手くいった時は……その時はごめんなさいね、お姫様……
セルリアは少し深呼吸をしてから、鏡に映るレイラ姫に声を掛けた。
「……あの、お嬢様? 」
「何かしら、エミリー? 」
「いつものようにお顔にコールドクリームをお塗りして差し上げますわ……」
「──ええ、お願いね」
そう言ってセルリアは、レイラのお気に入りのローズの香り入りのコールドクリームの瓶を手に取り蓋を開けると、クリームを指先で掬って、レイラの頬やこめかみ、鼻の頭、額へ点々と塗り付けてから、各々の部位を肌に馴染ませながらゆっくりとマッサージをしていった。
「──ふぅぅ……あぁ、気持ちいい……お肌がじんわりと生き返るようよ……」
「良かった……あの……お嬢様? 」
「なぁに? エミリー」
「あの……ディーン様はどの様なお方でございますか? 」
するとレイラ姫は、意外なことにも少し顔を曇らせ暫く黙り込んだ。
そして、ややしてから口を開いた。
「──そうね、それは美しい殿方だったわ。少し前に王宮の舞踏会に招かれて一緒にワルツを踊った時と、この間、婚約のお申し出にここに来られた時のまだ二度しかお会いしていないし、あまりお話しはしていないのだけれど……そう、つい昨日もディーン様からラブレターを頂いたの。わたくしへの愛情が篭められていて、誠実そうなお人柄が手に取るように分かったし、きっとお優しい方に違いないわ。三日後にはまたここへ遊びに来られるの……」
「──でも……」
そう言ってレイラはまた口をつぐんで暫く考えてから、再び口を開いた。
「──あと、それにね、エミリー? うふふふ……」
「はい。それに? 」
「ここだけの話にして頂戴ね? 」
「はい、もちろんです、お嬢様……」
レイラは顔を赤らめひそひそ声でエミリーに話した。
「──ディーン様ったら、きっとわたくしの唇が大層お気に召しているご様子でしたの。だって、お会いする度にじっとわたしの唇を見詰めて固まってしまうんですもの……うふふふ、きっと可愛いくて、ちょっとエッチな殿方でもありそうよ──」
「それはそうですよ。ディーン様は毎晩夢でレイラ様の唇をそれはそれは……あ! ……」
「えっ? ……」
レイラは思わずセルリアを振り返った。
「あっ……い、いえ……きっとその様なお綺麗な唇ですから毎晩夢に見られているに違いないと思いまして……」
「いやねぇ……殿方って、胸元とかもそうだけど……そういうところしか見ていないのかしら? うふふふ……」
「ふぅぅ……そ、そうでごさいますよ。殿方というものは大概そういうものでごさいますよ? 」
「──では、お嬢様、もっと念入りにお鼻の頭や口の周りなども揉んで差し上げしょう……」
「えぇ、お願いね……」
レイラ姫はそう言って、まるでその美しい顔を自慢するかのようにすっと顎を上げてみせた。
「……本当にお美しいお顔立ち……」
セルリアはクリームを塗る指先をレイラ姫の口の周りから、そして、そのさくらんぼのように真っ赤で艷やかな唇へとゆっくりと優しく撫で回していった。
「あぁん……エミリーったらそんな風に触られたらわたくし……気持ちよくて……」
レイラ姫はうっとりとしながら吐息を洩らしてしまう。
「お嬢様……もうこんなにツルツル、ピカピカになって、まるで宝石のよう……」
──今よ!
するとセルリアはおもむろにレイラのぷっくらとした上下の唇をきゅっと指で摘んで引っ張った。
「──んっ! んっ! ……やだぁ、もぉっ、へミリー! おひゅじゃけがふぎまふよっ! おひゃめなはいっ! 」
「いいえ。お嬢さま……」
「へぇ?……な、何でふゅって?! 」
セルリアは無言で応えたまま、摘まんだ唇を決して離すことはしなかった。むしろ更に指先にきゅっと力を込めてきつく引っ張った。
「んっ!! んぁんっ! おひゅじゃけふぁおひゃめなはいっ! 手をへゃなしてっ! 」
レイラの唇はセルリアにきつく引っ張っられて、スルメのように突っ張り、前へと長く伸ばされた。
「──ひぁっ! ひゃぁん、ひゃめて! ひょんとにやめて頂戴! へミリーっ!! 」
「うふふふ、ごめんなさい……レイラ様……」
しかしセルリアはその手にぎゅうと強く力を込め、更に思いっ切りレイラの唇を前に引っ張った。
「おひゅじゃけがふぎまふよっ! おひゃめなはいっ! 」
するとセルリアはエプロンのポケットからある「もの」を掴み出し、手の平の上に掲げた。
「──ッ! ひゃ、ひゃに?! 」
そうしてセルリアは、何事かを口の中でブツブツと唱えたかと思うと、仕上げとばかりにカッと目を見開き、最後にレイラの唇をきつく摘まんで唱えた。
「『タラコ』よ! 唇の代わりとなせ!! 」
「──きええぇぃっ!!! 」
──ぽんっ!!
「──ッ!!! 」
という、まるでシャンパンの栓を引き抜いたかのような音が部屋に響き渡ったかと思うと、
「………」
部屋に静寂が戻った。
セルリアは手に二つの赤くプニプニとした長ブドウのようなものを摘まみ持ちながら、ニコッとレイラ姫に微笑んだが、その時にはもう変身薬の効き目が切れていて、オレンジブロンドの髪を結い上げた、いつものセルリアの顔立ちに戻っていた。
レイラ姫は目に涙を溜めて叫んだ。
「あ……あなた、エミリーじゃないっ! 」
「レイラ様の唇をちょっとお貸し頂きますわ。ごめんなさい! また用が済んだら返しにきますから……」
「えっ! えっ?! ちょっと、何?! ……わたくしの唇っ?! ……」
レイラは慌てて鏡に目を遣ると、レイラの上下の唇は大振りのタラコに変わっていた。
「──きゃあぁぁぁぁぁっっ!! なっ、なんてことをっ!! 」
レイラは愕然としながら鏡に映る自分の顔を見ながら、今や分厚く飛び出たタラコへと変わってしまった唇を撫で回し、引っ張り取ろうとするが、タラコは既に顔の一部となりしっかりとくっついている。
「──ねぇ! わたくしの唇を元に戻して! 早く戻しなさいっ!! お願い! 戻して!! うわああぁぁっっ!! 」
「……本当にごめんなさい……少しの間、レイラ姫の唇をお借りしますわ! 」
「ちょ、ちょっとお待ちなさい! あなた魔女ねっ! 」
「はい……わたしは、深森の魔女セルリア……」
セルリアはレイラの唇をポケットに収めると、素早く部屋のバルコニーへと出ていった。
それから呼び寄せ呪文を唱え、すぐに手元に飛んで来た魔法の箒に跨がった。
「ちょっ! ちょっと、あなたっ!! 待ちなさいよっ!! どういう訳でこんなことをするの?! ディーン王子とわたしが婚約するのをどうにかして止めさせたいの? 何か裏の勢力の思惑でもあるのかしら!? 」
もう今にも飛び立とうとするセルリアを少しでも引き留めようと、レイラは懸命に質問を投げ掛けた。
「いえ……そんな難しい理由などはないですわ……」
バルコニーへ跳び出してきたレイラ姫にセルリアは振り返った。
「嘘よ! 絶対腹黒い手の者が裏で糸を操っているに違いないわ! そうでなければ……なぜこんなことをわたしにするのよ? 」
「そ、それは……」
──ディーン様にわたしのことを単に振り向せたいからだけなんだけど……
しかしセルリアは、レイラの勝手な勘違いに対して二の句を継げずに押し黙った。
すると、レイラはもう何かを決心したように言った。
「──ふん! 図星ね! ねぇ、あなた! じゃあ、いいわ! 今だけは分かったわ! とにかくわたしの唇はいつか元に戻してくれるのね? 」
「はい。それは必ずお約束します……」
「きっとよ! 」
「レイラ姫、それは絶対に……魔女の矜持と誠意に賭けてお約束しますわ……」
「ふん! 魔女に矜持や誠意なんか……」
それでもレイラ姫はまだ少し思案してから、尚もセルリアを執拗に問い質した。
「──それじゃあ、いつまでに元に戻してくれるというの? 」
「えぇと……とても申し訳ないですけど、お二人の婚約のお話がなくなったらすぐに……」
するとセルリアには、レイラ姫の厳しい顔付きが心なしかふっと和らいだような様子が伝わってきた。
「ふん、やっぱりね……えぇ、そう……分かったわ……じゃあ、そうなったら必ず、絶対に返しに来なさいね! あなた、深森の魔女と言ったわわね。いいこと? 約束よ! 」
「はい。必ず……」
「そう……それなら……むしろわたしはこれで良かったのかも知れない……」
セルリアがもう飛び立とうとした時、最後にレイラの意外な呟きが耳に飛び込んできたので、セルリアは思わず箒の柄を握る手を緩めた。
「あ、あの……それはどういうことですの? レイラ姫……」
「ええ……わたし、ディーン様との婚約を断る口実を探していたから……本当言うと丁度良かった……だから、婚約の話がなくなるまではわたしの唇を大事にしっかりと預かってなさい! 」
「──え?! ……でも……美男美女の世紀のロイヤルカップルという噂なのに……?! 」
「わたし……他に好きな殿方がいるの……じゃあね、きっとよ? 頼んだわよ」
レイラ姫はそう言うと、軽く手を振って部屋の中へと消えていった。
空高く舞い上がり屋敷を去っていくセルリアの頭に、最後に手を振ったレイラ姫の少し晴れ晴れとした笑顔の残像がいつまでも残っていた。
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