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 「木下くん。申し訳ないのだけれど――明日から、もう来なくていいよ。」


 それは、人生を決定づけるにはいささか唐突すぎる言葉だった。

 眠りも削り、僅かな余白に希望を詰め込むようにして働いていた日々は、たった一言で終わりを告げた。


 発端は、上司へのささやかな反論だった。理不尽の積み重ねに、ただ一度、声を上げただけ。

 それが、終焉の引き金となったのだ。


 「……承知しました。大してお世話になった覚えもございませんが、一応、ありがとうございました。」


 声を荒らげることもせず、彼――木下は静かに頭を下げ、その場を去った。

 まるで、雨が降り始める前の、冷たい風のような沈黙が、職場の空気を覆っていた。



どれほどの歳月が流れただろう。大学を出てからこの会社に身を置いた年月を、彼は心の中で辿った。

 ――十五年。その数字は、思ったよりも重く、そして冷たい。


 積み上げたものは、果たして何だったのか。

 名もない労苦、報われることのない尽力、すべては霧のように掌からすり抜けていった気がした。


 彼は、老朽化したアパートへと足を運びながら、かつて抱いた一つの夢に思いを馳せる。

 それは、中学時代に出会った“秘境”という言葉の持つ、甘く懐かしい響き――

 遥かなる雪の大地、祈りの地。チベットという名の、もうひとつの世界。



 あの頃、世は空前の“秘境ブーム”に沸いていた。

 人類未踏の地、文明と隔絶された村々。そんな特集が、夜ごとテレビの画面に溢れていた。


 ある日、彼はチベットの映像に出会った。

 遠く、静かで、凛とした空気に包まれた土地。そこに暮らす人々の瞳は、どこまでも澄み、穏やかだった。


 なぜだか分からない。けれど、その光景に心が震えた。

 気づけば、涙が頬を伝っていた。あまりにも自然に、あまりにも静かに。

 「どうしたの?」と隣で心配する母の声が、今でも耳の奥に残っている。



 その日以来、彼の心には“チベット”という名の灯が灯り続けていた。

 図書館に通い、書店に通い、手当たり次第に関連書籍を読み漁った。


 最初に手にしたのは『チベット死者の書』――

 古より受け継がれてきた、魂のための書。死者の耳元に語りかけるように読まれ、輪廻の彼方へと導く経典である。


 魂は、死してなお彷徨う。

 生の執着を断ち切れぬまま、混濁する意識の中をさまよい続ける。

 その迷いを解きほぐし、光の方へ導くのが、僧たちの役目だという。


 生まれ変わりを繰り返す“輪廻”の思想は、彼にとって深い慰めだった。

 死が終わりではなく、連なる命の一つにすぎない――そんな考えに、いつしか心を預けていた。



 大学時代、ふとした拍子に決意を固め、彼は旅に出た。

 行き先はもちろん、かの地――チベット。

 わずか一週間の滞在ではあったが、あの時間は今も心の底で静かに息づいている。


 大気は薄く、空はどこまでも高く、そして、静謐だった。

 その旅で出会ったのが、ヤムリという青年僧だった。


 彼はまだ二十代の初め――だが、その瞳は、深い湖のように澄んでいた。

 言葉少なに微笑み、そして、なぜか彼に声をかけてきた。



 「旅行かい?」


 静かな声が、乾いた石畳の上に落ちた。


 彼が振り返ると、袈裟をまとった青年がそこに立っていた。

 ヤムリ――その名を彼が知るのは、もう少し後のことである。


 「あ、はい……。日本から来ました。とても、貴重な時間を過ごしています」


 緊張から口が乾くのを感じながら、彼は第二外国語として習った拙い中国語で応えた。

 だが、青年はすぐに微笑んで言った。


 「英語でも構わないよ。海外からの方々は、そのほうが話しやすいだろう?」


 言葉は柔らかく、耳に心地よかった。

 たった一言で、ふっと心の壁が溶けていく。


 「景色を楽しみに来たのかな?」


 ヤムリは、陽の差し込む境内の片隅で、石のように静かに座っていた。

 彼の声は風に溶け込むように柔らかく、それでいて真っ直ぐだった。


 「ええ……もちろん、景色も。でも、それ以上に、ここでの暮らしや、考え方に触れてみたくて」


 彼はそう答えながら、自分の言葉がうまく伝わるかどうかに不安を覚えていた。

 だが、ヤムリはすぐに微笑み、静かに頷いた。


 「考え方、か……それは嬉しいな。僕たちの生には、常に“輪廻”が寄り添っている。

  生まれ、死に、また生まれる。その流れの中に、僕たちは在るんだ」


 その言葉に、彼の胸の奥がじんわりと温まるような感覚を覚えた。

 理解しきれないのに、心だけが納得していた。


 「僕たちはね、日々“チャクラ”に“オーラ”を溜めている。聞いたことはあるかな?」


 ヤムリは、まるで瞑想の続きを語るような調子で続けた。


 「なんとなく、ですが……。エネルギーのようなものでしょうか?」


 「うん、よく知ってるね。チャクラは、心と身体の交差点にある。

  そこにオーラを満たしていくことで、人は輪廻の輪から離れ、解脱へと至る。

  ――つまり、この世の執着を超えて“無”となることができるんだ」


 「毎日、そのために?」


 「そう。十年は続けているかな。でもまだ、取っ掛かりすら見えていない」


 ヤムリはそう言って、遠くの空を見つめた。

 その瞳には、悔いも焦りもなかった。ただ、静かな意志と、透明な憧れがあった。


 今なら、分かる。

 あの時の彼の言葉が、どれほど重く、清らかなものだったか。


 旅の最後に交わした、その会話の一つ一つが、まるで経文のように心に残っていた。

 あれは、単なる“観光”ではなかった。

 あの出会いが、魂の一部を変えてしまったのだ。



 ――そして今。

 全てを失った彼の中に、あのときの景色と、ヤムリの言葉が、再び灯をともしていた。


 「……行こう。チベットへ」


 もはや未練など、どこにもなかった。

 貯金は心許ない。しかし、それでも構わなかった。

 魂が求めているのなら、他に必要なものなど、何もなかった。


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