第六十一話 Re:MATCH UP
ソルノット南東部には、数多くの病院を始めとした医療機関が設立されている。
ローストン・ゴートウィストが行った施策の大きな特徴の一つは、医療の充実と拡大である。
ゴートウィスト家が赴任した当時のソルノットは、兎角衛生状態が悪く、感染症が蔓延していた。
ローストンはゴートウィスト家に大規模な医療班を結成。方々から医者を雇い、住民には無償で医療を提供。衛生観念の向上に努めた。
その甲斐もあり、ソルノット南東部の重病率は大きく改善。
ゴートウィスト家がソルノットでの信頼を得るに至った一件でもある。
ソルノットの各地に見られる病棟は、ゴートウィスト家による治安改善の象徴であり、大陸きっての無法地帯に差した希望に等しい。
希望の象徴がまた一棟、音を立てて崩れ落ちた。
「はあっ、はあっ、はあっ……! ダメっ! もう走れない……っ!」
「良いから走れ! ベアトリ―ナ! マジで死ぬぞ!」
崩落する病棟から、駆け出たのは三人の少年少女。
医療班最年少の三人――――リュセル、ビョルン、ベアトリ―ナは崩れ落ちる病棟から、表の通りへと脱出した。
ビョルンが弱音を吐くベアトリ―ナの手を引き、ほとんど引きずるような形で走っている。
並走するリュセルも息を切らし、滝のように汗を掻いている。
それは全力疾走による汗でもあったが、本能的な恐怖に対する冷や汗でもあった。
「アンナさん……っ」
ベアトリ―ナが息も絶え絶えに読んだのは、この病院に勤めていた看護師の名。
リュセル達が逃げ出すその瞬間も、絶望したように蹲っていた女性。
恐らく、今や崩落した病棟の下敷きになり、圧死しているだろう人物の名前だ。
「…………走れ、ベアトリ―ナ。今はとにかく足動かせ」
励ますように声をかけたビョルン。
しかし、当のビョルンの声にさえ、苦しそうな空気が滲んでいた。
あまりに唐突な襲撃。
冷静に現状を分析しようとできていたのは、リュセルただ一人であった。
(何が起きた? 窓の外で病院が崩れるのを見たのが数分前。ものの数分で誰かがこっちにすっ飛んで来て、僕達のいた病院も崩落した。一体誰がどうやってこんなことを――――)
リュセルは彼なりに思考を巡らせる。
しかし、彼が彼の脳内で答えに辿り着くことはまずあり得ない。
構造からして、不可能なのだ。
リュセルは知らない。
規格外の才能。常識外れの怪物。人の領域を飛び出してしまった者達の存在を。
突出した才は無くとも、地に足をつけて医学を学んできたリュセルには、想像のしようもない。
たった一人の死刑囚がソルノットを走り回り、ほぼ素手で病院を破壊しているなど、彼の脳内では補完しきれない。
故に、答えは見上げた視線の先。
半壊した病棟。剥き出しになった病室に立つ、浮浪者じみた老人の姿だった。
「あいつが……」
悟る。
それは、何か。
リュセル達凡人には想像もつかないほど、悍ましく強大な何かであると。
ギョロリと老人の首が回る。不格好に傾げられた首。濁ったビー玉みたいな瞳が、リュセル達へと注がれる。
目が合った。
目が合ってしまった。
(これ……)
ヘイズの濁った視線に貫かれたリュセルが死を幻視する。
ほとんど同時に、ヘイズは跳んでいた。
半壊した病棟を蹴り出し、一気に跳躍するヘイズ。
目的地はリュセルら三人。医療班特有の白衣を着た彼らは、ヘイズにとってはよく目立つ的であり、手頃な殺戮対象だった。
(死ぬ――――)
距離は数十メートル。
跳躍は一秒。
ヘイズの両手に着いたままの手枷。そこから伸びる鎖が振り下ろされ、逃げるリュセルの頭部を粉砕する。
そんな未来が、鮮明に幻視された直後だ。
飛び込んで来た赤い影が、ヘイズを側方から吹っ飛ばした。
「怪我は無いか?」
あまりに一瞬の出来事。
尻餅をついたリュセルは、呆気に取られて声も出ない。
故に、彼への返答を口に出せたのは、たっぷり五秒間の間を置いてからだった。
「ああ……うん。大丈夫です……」
「なら、安全な場所まで逃げろ。ここは俺が受け持つ」
「は、はいっ」
リュセルはすぐさま立ち上がり、ビョルンとベアトリ―ナの二人と共に走り出す。
安全な場所。今のソルノットでそれを探すのは困難だろうが、ヘイズ・トラッシュの狩場に比べればどこも安全だろう。
ヘイズの視界から離れた後ならば、民家に身を潜めるくらいはできるだろう。
そんな思考と共に、通りを走っていくリュセル。
少し走った先で、その足が一度だけ止まった。
「あのっ、名前は……!?」
緊急時に、こんなことを訊いている場合じゃない。
赤髪の彼の名前なんて、今ここに一秒でも留まる危険に比べれば些末なものだ。
それでも、リュセルは反射的に、自分の命を救った人の名を尋ねていた。
「ユザ・レイス」
振り向かないまま、騎士は答える。
赤い髪をした彼は、既に起き上がったヘイズと対峙し、真っ赤なブレードを構える。
「……っ、ありがとうございました!」
その後ろ姿だけを目に焼き付け、リュセルは走る。
友達二人と共に走って、走って、ここではない場所へと逃げて行った。
***
ソルノット中央教会。
その正面扉前、二人の男による攻防は絶えず続いていた。
一人は老人。一人は小太りの中年男性。
互いに武器は持たず、素手で格闘戦を繰り広げている。
「このっ、クソジジイ……っ!」
小太りの男――――マルク・メイルは苛立ちを隠しもせずに叫ぶ。
大声と共に老人へと掴みかかるマルクだったが、逆に老人に手首を掴まれる。
その直後には、マルクは引っくり返っていた。
「ふぉっふぉっふぉ。動きが単調じゃよ」
美しいまでの技で、マルクを投げた老人。
マルクは何度も起き上がって掴みかかって来るが、その指先一つさえ老人には触れられない。
非力ながらも洗練された柔術でマルクの動きをいなし、美しい投げでマルクを何度も地面へと叩きつける。
「ほうれ、遅い遅い」
選抜騎士エルノ。
ソルノット支部では最年長の騎士であり、他の団員にはエルノさんと呼ばれ親しまれる老人。
見た目通りの温厚な人物で、騎士というよりも小さな喫茶店を営んでいそうだと噂されている。
しかし、その実力は選抜騎士の名に恥じない。
卓越した柔術の使い手であり、近接戦闘では無類の強さを誇る。
選抜騎士になったばかりのロウリが、模擬戦で一度も触れられずに敗れたこともあるほどだ。
「この……っ、クソ! クソクソクソクソ!」
何度も投げ飛ばされ、マルクは顔を赤くして怒る。
憤慨するマルクとは対照的に、エルノは穏やかな表情のまま、突っ込んでくるマルクの攻撃を捌き続けている。
「ふぉっふぉ。お主、脂肪に高密度の魔力を纏わせとるんじゃろ? 武器も魔術も通さぬとな、大した防御力じゃな」
マルク・メイル。
アルカナンの中枢メンバーである彼の戦闘スタイルは、至極シンプルかつ凶悪。
脂肪を高密度の魔力で覆い、天然の鎧と化す技術。魔力で強化された脂肪は刃も魔術も通さぬ盾となり、あらゆる攻撃を遮断する絶対防御として機能する。
たったそれだけの特異技術が、如何なる武術の心得も持たないマルクを凶悪無比なる怪人たらしめていた。
「じゃがな、全身を魔力で覆う以上、魔力消費は激しい。お主の攻撃がワシに当たらなければ、いずれお主は魔力切れに陥る。こればかりは相性じゃな。お主ではワシに勝てんよ」
剣や拳と違い、柔術はマルクに反撃の隙を与えない。
刃を体で受け止めてそのまま殴る。打撃を脂肪で無効化し、振り切った後を攻める。
そういったマルクの十八番がエルノには通用しない。
柔術で投げ飛ばされては、反撃のしようがない。皮膚が無傷であろうとも、重心を崩されて地面に転がされては、どうしようもないのだ。
「この老害がァ……っ!」
「そりゃいかんじゃろ」
激情に任せて殴りかかったマルクの拳。
それを左手で受け流したエルノは、マルクの懐に潜り込み、当身で彼の姿勢を崩す。
傾いた体勢。右に寄る重心。エルノは足払いでマルクの右脚を刈り取った。
完全に引っくり返されたマルク。激しく揺れる視界の中で、彼は老人の掌が自身の顔面を捉えるのを見た。
流れるように振り下ろされる掌底。
エルノの掌はマルクの頭部を地面に叩きつける。
後頭部を強打したマルクは、気を失っていた。
「解きよったのう、魔力防御。そりゃあ、耐えられるはずもあるまいて」
魔力消費を抑えるため、全身を覆う魔力を解除したマルク。
否、解除というよりは弱体化。
エルノとの継戦が可能な程度に魔力防御を弱め、魔力の消費を最低限に留めようと試みたのだろう。
しかし、その隙をエルノは見逃さず、頭部への強烈な一撃で勝負を決めた。
圧倒的な魔力防御で敵を蹂躙してきたマルクは、エルノの攻撃力を正しく見抜けなかった。
「にしても、派手にやってくれたのう。ここの執行者はほとんど全滅。ありゃ早めに治療してやらんとマズい。教会の中に治癒魔術を使える者が残っておれば良いんじゃが――――」
教会の扉を開きかけたエルノの息が止まる。
開けてはいけない。
そう本能的に悟るほどに、背後に感じた魔力は濃密な死の気配を漂わせている。
ゆっくりと振り返れば、そこには一人の少女が立っている。
仄かな赤を帯びた黒髪。細く引き締まったシルエット。透徹した灰色の瞳。
エルノも見知った姿。しかし、その雰囲気は彼女らしからぬ攻撃性を孕んでいる。
彼女が携えるモーニングスターは、人体を轢き潰すことだけを目的にしたかのような形状をしている。
「エルノさん」
聞き慣れた声。
だというのに、その声音に滲んだ甘い悪意は初耳だ。
「できれば、死んでほしいんだけど」
「そりゃ、聞けん相談じゃのう」
ジャラジャラと赤黒い鎖が音を立てる。
それは殺戮を告げる死神の鐘の音。
ロウリ・ゴートウィストが中央教会の前に到来していた。
主人公再来!
なんか、ユザ君の方が主人公っぽいことをしてますが……




