第四十六話 火
かつて、一人の少年がいた。
優れた剣客でありながら、剣を振るよりも読書や瞑想を好む変わった少年だった。
誰よりも上手く刀を振るにも関わらず、剣術の巧拙に頓着しなかった。
皆が修練に励む中、彼は日の当たる河原で考え事していた。
――――この時代では、お前が契約者みたいだヨ
ある日、彼はとあるモノと契約を交わした。
カテゴライズするなら精霊。ただ、精霊と呼ぶには規模の大きすぎるモノ。
あるいは、神と呼べたのかもしれないが、少年がそれを神と呼称することはなかった。
――――極東の国に来たのは初めてだヨ。ここは変わった場所だヨ。面白いヨ
それは人の言葉を喋った。
人の形をとることもあった。
ただ、人ではない何かであることは明白であった。
――――で、お前は何を祈ったんだヨ?
それは少年に問いかけた。
それは少年の瞳を見た。
――――僕は…………
少年は答えた。
その答えに応じるかのように、それは少年に授けた。
橙色の火を授けた。
***
ソルノット自治領北部、大聖堂。
シグレは刀の柄に手をかけ、居合の構えを取る。
数歩の距離を置いて向き合うは、髪をピンク色に染めた女。染料の抜けた頭頂部は、彼女本来の黒が露わになっている。
(居合……抜かせない)
居合の構えを取るシグレに対し、アズは先制攻撃を仕掛ける。
右手の五指、左手の五指。合計十本の指を以て操るは、極細のワイヤー。
魔力を通して手繰るワイヤーは、一瞬にしてシグレの刀に巻き付き、鞘と刀を括りつける。
「……ふ、随分と可愛い手を使う」
アズが後方へと跳んだのは、シグレの言葉とほとんど同時。
ワイヤーを引き千切って抜刀したシグレが、すぐ目の前に踏み込んだのを感知しての行動だった。
(あたしのワイヤーを易々と……! シャルナでも素の力だけじゃ引っぺがせないのに!)
刀身の先が掠っただけで深く裂けた耳。
血を流しつつも、アズはバックステップを踏んで下がる。
アズが魔力を通して扱うワイヤーは、細くとも強度は高い。
実際、竜人であるシャルナのパワーを以てしても、引き千切るといった芸当は不可能。
無論、シャルナであれば蒼炎で溶かすという手を取れるだろうが。
(浅い。ワイヤーに阻害されなければ、首を落とせていた所ですが)
(シャルナよりフィジカルが強い……なんてことはそうそうないはず。むしろ、力というよりは技。あたしのワイヤーをものともしないほどに、こいつの剣術は洗練されてる)
純粋な抜刀術のみでワイヤーを引き千切ったシグレを前に、アズは緊張を高める。
これだけの居合術。安易にシグレの間合いに入るのは危険と判断し、アズは高く後方へと跳躍。
ワイヤーを天井に引っかけながら、空中を舞うように移動する。
絶えずワイヤーを切り替え、手繰り寄せ、巻き取り、天井の高い大聖堂内を飛び回るアズの姿は、傍目には空中浮遊にしか見えない。
(踏み込みの速さ。剣術の完成度。全部地上での話でしょ。もう二度と下には降りない。手の届かない空中から、一方的に嬲り殺す)
アズの取った戦法は、シンプルながら強力。
シグレが剣客としてどれだけ優れていようと、剣が届かなければ意味が無い。
ワイヤーを使って滞空していれば、シグレの攻撃は一生届かない。逆に、リーチの長いワイヤーならば、空中から地上のシグレを狙うこともできる。
シグレからすれば、八方塞がりにも見えるこの状況。
彼は焦りを見せるどころか、穏やかな顔で刀を構え直す。
構えは居合。腰の高さに落とした刀身に、そっと左手を沿えている。
「ああ……確か、この国には無い技でしたね」
それは、アメツチでは伝統的な剣技の一つ。
ナナクサ・シグレが齢十三にして習得した、居合術の奥義とも言える技。
その名を――――
「伐空」
大聖堂そのものを縦に断ち切るような、剣のリーチを度外視した長距離斬撃。
歴史上でも非常に使い手の少ない、斬撃を飛ばす技術。
ある時代の大剣豪が空に向けて放ち、曇り空を割って快晴を覗かせた逸話になぞらえ、その技はそう呼ばれている。
「あ、ぐ――――ッ!」
ワイヤーアクションでの軌道修正も虚しく、シグレの放った斬撃はアズの胴体を袈裟懸けに裂く。
本来ならば腰と胴が分かたれてもおかしくない一撃だったが、人の形を留めているのは、アズの魔力強化が優れている故。
しかし、移動用のワイヤーごと飛来する斬撃に断ち切られたアズは、ゆっくりと床へと落ちていく。
まるで、羽をもがれた蝶のよう。
空を舞う術を奪われた彼女は、傷口から血を流しつつ、頭から床に墜落しようとしていた。
(何よ、これ……っ!? 飛ぶ斬撃なんて聞いてない! 地上に落ちたら、もう、逃げ場が……っ)
伐空でアズを撃ち落としたシグレは、再び居合の構えを取る。
狙いを定めるは、今にも地面に落ちるアズの首。
踏み込んで直接首を刎ねるでも、今度こそ遠距離からの伐空で仕留めるでも、どちらでも良い。
彼が次の一撃を放つ瞬間が、アズ・リシュルの命が潰える瞬間となるだろう。
「来世では、貴方が正しく在れますように」
その時、目が合った。
墜落の最中、アズはシグレの瞳を直視する。
(その目で――――)
シグレの瞳に宿った哀れみの色。
アルカナンの中枢メンバーとして悪逆の限りを尽くしたアズを、恨むことも憎むこともない。
ただ、憐憫を以て見下ろすその瞳が、強く見開かれたアズの両目に映っていた。
「その目で、あたしを見るな……っ!」
墜落寸前、アズは身を翻す。
体を捻ると共に手繰ったワイヤー。
彼女は新たに取り出したワイヤーで、再び空中へと舞い上がった。
瞬間、空を切る音と共にアズの眼下で、大聖堂の壁がパックリと割れる。
アズの着地点に向けてシグレの放った伐空が、石造りの壁面に一条の裂傷を刻んだのだ。
スライスされた豆腐のように、滑り落ちる大聖堂の壁面。アズはワイヤーを移動補助に使いつつも、滑り落ちる壁の上を走る。
「お気に障ったのなら申し訳ありません」
「黙れ……っ!」
シグレから垂れ流された憐憫に激しい怒りを覚えながら、アズは大聖堂内を三次元的に駆け回る。
シグレの伐空によって、片側の壁面が完全に崩落した大聖堂。外界と繋がった建物の中を、アズはワイヤーを駆使して飛び回っていた。
(あたしのワイヤーは三種類。移動用、拘束用、切断用。お前にはまだ移動用と拘束用の二種類しか見せてない)
ワイヤーを手繰って跳躍し、シグレの真上へと跳んだアズ。
その両手で操るは計十本のワイヤー。予め先端をシグレの周囲に配置しておいたワイヤーは、神父を囲うように展開される。
細く鋭い殺意の糸。それはシグレを包囲する鳥籠であり、彼を切り刻む断頭台。
「死ね! クソ神父!」
四方八方から襲い来る十本のワイヤー。
ベンチ、カーペット、床。その場にある全てを切り刻みながら迫る糸に対して、シグレが取った対応は至極単純。
左足を軸に円運動を行い、横薙ぎに振り抜いた刀で全てのワイヤーを斬り伏せる。
アズが放ったワイヤーは悉くシグレに両断され、彼に届く前に効力を失った。
一見して、ナナクサ・シグレの剣技を前にして、アズは攻めあぐねているように見える。
「……」
一連の攻防後、シグレが自身の刀を見下ろす。
美しく煌めく銀色の刀身が、僅かに刃こぼれしていた。
恐らく、素人目には分からない変化。長年刀を握り続けたシグレだからこそ気付けた、あまりにささやかな損耗。
しかし、確実にシグレの得物は傷付いていた。
アズの放ったワイヤーによって、シグレの武器は少しずつ壊れていく。
(私の刀が刃こぼれを……彼女のワイヤー、攻撃力は相当のものと見て良い)
思索に耽るシグレに、アズは絶え間無くワイヤーの攻撃を浴びせる。
空中を翔るように移動しながら、振り回す切断用のワイヤー。
極細のワイヤーは目視が難しく、アズ自身が移動用にもワイヤーを張り巡らせているせいで、ワイヤーに流した魔力を読むのも難しい。
シグレの放つ伐空とは全く性質を異にするが、アズのワイヤーも飛来する斬撃と呼んでも良い。
アズが繊細に操る指の動きに合わせて、大聖堂内の物が次々と切断されていく。
床、壁、ベンチ、祭壇、女神像。かつてそういったオブジェクトだった物の破片が、切り刻まれて宙を舞っている。
幾重もの斬撃となって迫り来るアズのワイヤー。
それをシグレは刀で弾き返し続けていた。
(しぶとい……! でも、確実に体力は削れてるはず。それに、さっきの飛ぶ斬撃も使ってこない。大振りとまではいかなくても、防御の合間に撃てるほどコンパクトな技じゃないんだ。このまま攻め立てる。攻撃は一切緩めない。こいつの神経が擦り切れるまで)
高密度かつ高速で繰り出されるアズのワイヤーを、シグレは一本の刀で捌き続ける。
その絶技たるや、アズが心中で溜息を吐くほど。
アズが同時に十本二十本のワイヤーを使って攻撃を仕掛けているにも関わらず、シグレはたった一振りの刀でそれをいなし続けている。
暴れ回るワイヤーによってズタボロの大聖堂だが、シグレの周囲だけが、結界でも張ってあるかのように綺麗なままだった。
しかし、シグレが防戦一方であるのも事実。
アズの推測した通り、伐空は非常に大振りな技。リーチを拡張するという点は魅力だが、隙を晒すという欠点も抱えている。
シグレは自らの剣才と鍛錬によって、伐空によって生まれる隙を極端に減らしているが、アズのワイヤーを掻い潜りながら撃てるほどではない。
「……仕方ありませんね。私はここまでのようです」
故に、諦めた。
悟りを開いた修行僧のように、自らの運命を受け入れたのだ。
「リバティリス、火を」
アズの猛攻を凌ぎながら、シグレは誰かに問いかける。
存在するはずのない何者かに、それの使用許可を求める。
――――良いのかヨ?
アズに返答は聞こえない。
アズでなくとも、シグレ以外の全人類がその声を聞くことはない。
それは、この時代において、彼とのみ契約したのだから。
「ええ」
シグレは静かに、しかして高らかに返した。
短い首肯の言葉であはるが、それがシグレの意を読み違えるはずもない。
――――お前が決めたことなら、良いヨ
「助かります。ああ、それともう一つだけ」
――――なんだヨ?
二人だけの世界で、シグレとそれは言葉を交わす。
アズのワイヤーから剣技で身を守りながらも、敵の攻撃など無いかのような穏やかさで。
「ありがとう、リバティリス」
長くを共にした何かとの別れに、シグレは優しい声でそうとだけ告げた。
――――こんな時まで感謝なんて、見上げたヤツだヨ
皮肉めいた言葉を最後に、会話は途切れる。
シグレは大聖堂内でアズのワイヤーを捌く作業に戻り、形の無いそれは輪郭を失って溶けていく。
シグレがそれとやり取りするのを、アズも戦闘中ながら耳にしていた。
(何? 誰と喋ってんの? 気味が悪い。一体、何がどうなって――――)
シグレの頭上を飛び回りながら、彼の不可思議な行動を訝しむアズ。
次の瞬間、彼女の視線は眼下のシグレに釘付けとなった。
彼は刀を鞘に収めている。
つい先程までアズの攻撃を防ぐのに使っていた刀を、再び腰の鞘の中に戻しているのだ。
「舐めた真似……!」
刀を腰に戻したシグレ。
その隙を逃すまいと、アズはワイヤーを振り下ろす。
勝負を投げたとしか思えないシグレへの憤りも相まって、無造作な軌道で放たれたワイヤー。
それは身を守る武器を鞘に戻したシグレの身を、バラバラの肉片へと変えるはずだった。
「…………え?」
アズが驚きに声を漏らす。
無理も無い。シグレを切り刻むつもりで振るったワイヤー。
それを掴んでいた指の感触が、不意にふわりと軽くなったのだから。
(は? 何? どうなってんの? あたしは確実にワイヤーを当てたはず……)
あまりに不可思議な出来事に、アズは自らが振り下ろしたはずのワイヤーを見下ろす。
自分の指から伸びた極細のワイヤー。刃と言っても差し支えない切断力を誇る鉄線。
その細く鋭利な刀身が、中途で切れている。無論、シグレも無傷。
否、単純に切れているというよりは――――
(溶けてる……?)
まるで、高熱で焼き切られているよう。
ワイヤーの先を溶岩に浸けてしまったように、アズのワイヤーは途中から溶けて切断されていた。
「アルカナンの中枢メンバーを二人。もう少し欲張りたかったですが、まあ……」
シグレが鞘に戻した刀。
シグレはそれをゆっくりと引き抜く。
初動で見せた高速の居合術とは打って変わって、重い物を持ち上げるようなゆったりとした動作。
緩やかに鞘から引き抜かれ、顔を見せる刀身。
その刃は刀本来の銀色ではなく、燃えるように鮮やかな橙色。
むしろ、刀身そのものが、火と化したような――――
「私にしては、悪くない」
次の瞬間、橙色の火が弾ける。
アズの視界を眩いばかりの聖火が埋め尽くした。
感想待ってるヨ




