第三十五話 魚に翼を
「魔術に必要な二つの要素、何か分かるか?」
古びた建物の一室にて、銀髪の女が問いかける。
テーブルを挟んで腰掛けた彼女は、その身に古傷とタトゥーを刻んでいる。
一目で堅気ではないと分かる風体。如何にもアウトローといった外見的特徴ながら、その物腰は穏やかで丁寧だ。
しかし、彼女と対面する俺は、鳴り響く心臓の音と冷や汗を抑えられない。
彼女が発する目には見えない圧力が、どす黒い霧となって俺を包み込み、窒息させようとしているようだった。
「魔力と、術式、でしょうか……?」
「正解だ。よく勉強してるじゃないか」
息が詰まる。呼吸の仕方を思い出せない。
誰でも知っているようなことを「勉強してる」と褒められるのには、一体どのような意図があるのだろうか。
言外に、お前の知能レベルはその程度だろうと嘲られているのか。
それとも、言葉一つに大した意味など無く、彼女の気紛れに過ぎないのか。
「魔力ってのは良い。ただの生命エネルギーだ。分かりやすいだろ? 生き物でいうところの血液だな。食べ物や酸素と言っても良い。体を動かしたり、ものを考えたりするには、全身に血が巡る必要がある」
偶然、近くを通りかかった彼女に声をかけた。
それが俺の命を失いかねない危険な行動だとは理解していた。
それでも、やらなければならないと思ったのだ。
俺は俺の命を賭けてでも、この女に申し立てるべきことがある。
そう思って話しかけたはずなのに、気付けば室内で魔術の講義を受けている。
だが、話しを遮るなんて愚行はできない。そうしたが最後、俺の体がバラバラになってもおかしくはないのだから。
そういった力関係が無くとも、きっと俺は彼女の話を遮ることはできなかっただろう。
そう思えるほどに、女が放つプレッシャーは凄まじかった。
「問題なのは術式だ。こっちは生き物でいうところの骨格、血管、筋肉、内臓、神経、肉体の構造全てだ。生き物によって千差万別。同じ種でも、個人差が出たりする。魚も鳥も同じように血が流れているが、その性能は全く違う。魚は空を飛べないし、鳥は水中を泳げない。魔力は均質だが、術式は多種多様なんだ。術式の違いが、魔術の性能を決定付ける」
魔力は均質。
術式は多種多様。
彼女の言葉は妙に耳に残る。
魔術の教本を開けば三ページ目にでも載っているような基礎知識が、まるで魔術の深淵であるかのように思えてしまう。
「ところで、お前の要望は労働環境の改善だったかな」
急な話題転換。
予想だにしない所から飛んで来た本題に、思わず俺は面食らう。
「は……はい! 北西部の労働環境はあまりにも劣悪です! 農場では毎日のように人が死んでる! 風俗街でも自殺者が後を絶たない! これは……あまりにも残酷ではないかと――――」
俺はアルカナンの構成員。
ソルノット北西部でアルカナンが展開するビジネスの管理を一部任されている。
この目で見てきた。
ここは地獄だ。労働者の賃金は低く、犯罪行為に手を染めねば生活は成り立たない。
農場では長時間の過酷な労働よって、体の弱い者が毎日のように死んでいく。風俗街では家族に売り飛ばされた娘達が体を売らされている。
秩序など無いように見えて、強い者が弱い者から搾取するという体制だけは、揺るがない法則として横たわっている。
「なら、自分の力でどうにかすれば良い」
「そ、れは……」
「できないんだろう? そうでなければ、私に頼み込む理由が無い」
こちらを見つめる彼女の目は、少しだけ嗤っているように見えた。
蟻地獄に落ちた蟻を上から見下ろすような、嘲笑と軽蔑を帯びた視線。
深く深く、どこまでも底の無い悪意が、俺をじっと見下ろしているのだ。
「お前は魚だ。空を飛べない。だから、私が翼をやる」
本当は分かっていた。
それが地獄への片道切符だと、心のどこかでは理解していた。
それでも、従うしかなかったのだ。
圧倒的な邪悪の前で、凡人は頭を垂れて従うしかない。
「羽ばたいてみろ。お前ならできるさ。その時、私はお前の要望を呑むよ」
女は果実を差し出している。
毒々しい色合いをした、林檎にも似た何かの果実。
本能で分かる。それは触れてはいけないものだと、俺の全身が訴えている。
それでも、俺は――――
「はい」
果実を受け取った。
女は満足そうに笑っていた。
***
果実を受け取った男が、出て行った後の室内。
ドゥミゼルが座る椅子の斜め後方に、一人の人間が立っている。
黒服に身を包んだ姿は、まるで貴族に付き従う執事のようだが、その頭部だけがあまりに常習離れしている。
彼が被っているのは、象の被り物。
かなりリアルな造りをした被り物で、遠目に見れば、頭だけが象になった怪物のように見えるだろう。
「翼、というのは術式のことですか?」
異様な見た目とは裏腹に、彼は丁寧な口調で問いかけた。
アルカナンのボスに対しても、緊張の見られない落ち着いた声音だ。
それこそ、権力者に長年付き添った老執事のような雰囲気が感じられる。
「そう思うか?」
ドゥミゼルは遊ぶような口調で問い返す。
椅子に座ったまま男を振り返る彼女の顔は、休日をくつろぐ大貴族のよう。
支配者じみた遊び心で、ドゥミゼルは問いかける。
「術式を使いこなすには、相応の研鑽と才能が必要となります。それを他者に授けるというのは、自身の経験や知識を抽出して、他者の脳に入力するようなもの。現実的とは思えませんな」
「現実的とは思えない、か。できないとは言わないんだな。ゾウ」
「生憎、ボスが現実的だった試しが無いもので」
彼の名はゾウ。
それが偽名なのか本名なのか。彼自身が付けた名なのか、誰かにもらった名前なのか、それとも自然にできた渾名のようなものか。
詳細は誰も知らないが、少なくとも彼はアルカナンでゾウと名乗っている。
どうせ偽名だろう、と誰もが思ってはいるだろうが。
「術式視の魔眼。本来は目に見えない術式を、視覚的に捉える魔眼らしい」
ゾウの返答を受けて、ドゥミゼルは滔々と語り出す。
「その眼を持ったヤツは、一目で術式の構造を理解できる。大抵の魔術は簡単に使えるらしい。当然だな。他のヤツが見えないながらに頑張ってるものが、そいつにはバッチリ見えているんだから」
術式視の魔眼。
魔力視の魔眼と並んで、魔術師にとっては最高峰と謳われる魔眼。
魔力視か術式視。このどちらかを持って生まれれば、魔術師としての大成が約束されるとも言われている。
「ここからが面白いんだが、術式視の魔眼でも教会の魔術と呪術の術式は見えないらしい。いや、見えないと言うと語弊があるな。見えているのに、理解ができないんだ。次元が違う、とも言っていたかな。普通の魔術は平面、もしくは立体。だが、呪術や教会の魔術はそれ以上の何か。四次元の構造物だ。最近は呪詛魔術なんて括りをされているけれどね、呪術は普通の魔術とは一線を画しているんだよ」
呪術。
近年では、呪詛魔術という区分けに分類されることもあるそれは、魔術の中でもとりわけ特異な性質を持つ。
扱える人間は非常に限られており、教会の魔術以上に使い手は稀。
使える人間には使えるが、使えないヤツはどう足掻いたって使えるようにはならない。
そして、不思議なことに、呪術の使い手の多くは悪の道に進んでいるのだ。
その構造は、信心深い信徒が教会の魔術を習得することにも似ている。
神様が信徒に教会の魔術を与えると信じられているように、悪の心を持った者に呪術は発現すると、一部では信じられている。
「呪術に必要なのは、術式の理解でも魔術のお勉強でもない。純度の高い悪意だ。人を傷付けたくてたまらない。そういう病気にしてしまえば、自然と身に着くものさ」
「そう上手くいくものでしょうか? 信心深くとも、教会の魔術を使えない信徒は数多くいると聞きますが」
「そこは色々と手を打ってるよ。肉体を薄っすらと呪いに浸して、呪術を受け入れる土壌を作ったりね。まあ、それでも成功率は五割も無いのがネックなんだが……そこは数でカバーかな。色々なヤツにやらせよう」
ドゥミゼルは楽しげに語る。
それは経営方針を語る商人のようでもあり、新しい玩具を手にした子供のようでもある。
ただ好奇心と想像力の赴くままに、彼女は人間を資源として消費する。
そこにあるのは、ひどく人間的で等身大の、悪意と欲望であった。
「次は風俗街にでも行こうか。さっきのが言う限り、自殺者が後を絶たないらしいじゃないか。どうせ死ぬなら、私が有効活用してやろう」
銀髪の呪術師は笑う。
楽しそうに、笑う。
呪術と教会の魔術。この二つが同じ四次元構造術式にカテゴライズされ、魔術的には同質のものと証明されるのは、遥か未来のお話です。




