第三十四話 自由な憐憫
スウェードバーク刑務所中央監視塔。
かつて監獄の頭脳とも呼べる場所だったそこは、上半分が吹っ飛び、小さな縦長の廃墟となっていた。
陽は沈み、のっぺりとした黒に染まった空。
天井の吹っ飛んだ廃墟から見上げる空には、星の一つも見えない。
「もう、終わったんだ」
漆を塗ったような夜空を見上げて、私はぼんやりと呟いた。
終わってみれば、呆気ないものだ。
バーンドットを殺し、その他諸々の看守を殺し、目につく人間を片っ端から殺した。
一日にして、スウェードバーク刑務所は完全に陥落。
散り散りに荒野を逃げる看守をシャルナが蒼炎で爆撃していたのは、ついさっきまでの出来事。
監獄落としはここに成った。
「浮かない顔じゃんよ。友達でもいたか?」
私の表情を見て、瓦礫に腰掛けるシャルナが声をかけてきた。
友達と呼べる人はいない。
面識があった人物といえば、バーンドットとダラス看守長くらいだろうか。
その二人にしても、会ったのは数回だけ。
バーンドットには思い入れが無いでもないが、心を痛めるほどのものでもない。
「いや、別に……」
気分は、まあ、悪くない。
何も気にせず暴れ回るのはそこそこ楽しかったし、バーンドットとの戦いは心地良かった。
看守の中にも、それなりに楽しめる相手もいた。
楽な戦いではあったし、呪術を使っても咎められないのは快適だ。
けれど、それだけ。
何というか、思ったほどでもなかったのだ。
もっと、何か、今までの人生が全てひっくり返るような何かを期待していたのに、待っていたのは割と普通な現実。
まあ勝てるだろうな、という勝利。
まあ殺せるだろう、という殺戮。
危ない場面は無かったこともないけれど、死を明確に意識するほど追い詰められてはいない。
勢いで飛び込んだ戦場は、想像していたよりずっと淡白だった。
「なんか、あっさり終わったなぁって……」
「ま、そもそも私一人でやる予定だったからなぁ。ロウリもいたら、そりゃ楽勝よ」
元より、監獄落としはシャルナ単騎で決行される予定だった、というのも納得がいく。
単騎と言っても、ツウィグやルーアといった駒も含めてのことだろうが。
シャルナ・エイジブルーはそれだけの戦力だし、スウェードバーク刑務所はその程度の戦力でしかない。
父さん含めての総力戦にでもなれば、監獄側にも勝ち目はあったかもしれないが、基本的にはシャルナ一人で事足りるだろう。
そこに私が加わったのだから、苦戦しないのも当然と言えば当然だ。
「……酒」
何とも言えない感慨に耽る私をよそに、地面に寝そべった浮浪者が言う。
廃墟で横になるヘイズの姿は、ホームレスと称する他無い。
「酒だってんなろーが!」
「うるせーな、ヘイズ。ほら、これでも飲んでろ」
呂律の回らないヘイズの叫び。
今日何度目になるか分からない怒号に、シャルナは割れた酒瓶を投げ渡す。
中身が入っていないどころか、容器すら割れている酒瓶をキャッチしたヘイズ。
ドン、とそれを地面に置いた。
「チッ、さっさとこうしてりゃ良いんだよ……」
「これで良いんだ……」
テキトーどころか馬鹿にしてるとしか思えないシャルナの対応でも、ヘイズは「一応矛を収めてやる」みたいな態度を取っている。
見た目が不潔すぎて年齢がイマイチ分かりにくいヘイズだが、若く見積もっても五十代。まあ、そろそろ還暦くらいと考えるのが自然な容姿だ。
多分、ボケてるんだろうな。
認知症というヤツだ。リュセル君に聞いたことがある。
「シャルナ。女は?」
キモいな、こいつ。
認知症以前の問題だ。
「あ? テキトーに女看守でも捕まえてこいよ」
「んなんぜんっ……ってんだろーが!」
なんだ?
全然、何言ってるか分からん。
シンプルに呂律が回っていないのか、この老人の言語能力がいよいよ崩壊したのか。
とにかく、キモいことを言っているのは分かる。
キモい。死ね。
「うるせーな。……そういや、ルーアが来てるんだっけか」
何気なく告げた、シャルナの言葉。
その後に続くヘイズの言葉が、私の脳裏に焼き付くこととなる。
「あいつは……飽きた」
その瞬間、確かに感じた。
自分の中の悪意が膨れ上がる感覚。
軽蔑、憎悪、殺意。そういった悪感情が束になって、喉の奥の方から迫り上がってくる。
こいつは、ルーアを――――
「……ツウィグ達の様子見てくる」
「うぃー、いってらー」
私は犯罪者二人に背を向けて、ボロボロの扉へと歩き出す。
落ち着け。ボケた老人の世迷言だ。
何一つ真実を保証するものじゃない。その言葉の一欠片だって信じるに値しない。
ルーアは優れたヒーラーだ。逃げ出されでもしたら、アルカナンにとっては大きな損失。悪い待遇を放置する意味は無い。
そう、頭の中で結論付けた。
「おい、ゴートウィストのガキ」
「……何?」
背後から聞こえた老人の声に、私は敵意と共に振り返った。
「諦めろ。お前の渇きは誰にも満たせない」
妙に芯を食った言葉。
私の中の茫漠とした退屈を見透かしたように、ヘイズはそんなことを言ってのけた。
「…………」
ヘイズの言葉を無視して、私はそのまま扉を開けた。
あれもこれも全部、ボケた老人の妄言に違いないと切って捨てて、全て置き去りにして歩き出す。
どうしようもなく蟠る感情は、見ないフリをして。
***
監獄第三層、医務室。
記憶を辿って足を踏み入れた中部屋。
十数台のベッドが並ぶ医務室。監獄にしては珍しく、白を基調とした明るい内装となっている。
確か、患者が見る景色を明るく保つことは、怪我や病気の回復においても重要なことなのだとか。
視覚情報程度で病や傷が治るという話は、あまりピンとくるものではなかったが、医術の世界にはそういう法則もあるらしい。
医務室に並ぶベッドの一つ。窓際の一番大きなベッドに、ツウィグは寝かされていた。
その近くのベッドに、ルーアも横になっていた。
ツウィグは傷の療養のために寝ているのだろうが、ルーアはただ寝転がっているだけといった感じだ。
「あ、ロウリ。来てくれたんだ~」
私の姿が見えたのか、ルーアは上体を起こした。
いつにも増して気の抜けた声音。
どうやら彼女は、この医務室でかなりくつろいでいたらしい。
「ツウィグ、大丈夫そう?」
「とりあえず、治癒魔術はかけといたよ。私お医者さんじゃないから分かんないけど、多分大丈夫じゃないかな」
ルーアは卓越した治癒魔術の腕を持っている。
ルーア・ラーケイプは、私が見た中で最も優れた治癒魔術師だ。
だが、それは必ずしも彼女が優れた人命救助を行えることを意味しない。
どれだけ治癒魔術の効力が優れていても、傷や病の性質や段階を的確に見抜く目を持っていなければ、患者を救える保障は無い。
稀ではあるが、治癒魔術をかけたがために傷が悪化するケースもある。
医者という職業が治癒魔術にお株を奪われずにいるのは、教会の魔術の習得者が少ないからというだけの理由ではないのだ。
そういう点で、ルーアは医者たりえない。
まあ、私なんかよりは、よっぽど人を癒すことに向いているんだろうが。
「こんな、傷深かったんだ……」
ベッドに寝かされたツウィグを見下ろす。
上半身裸で寝かされたツウィグの素肌には、いくつもの打撲と裂傷の痕が見えた。
ルーアの治癒魔術を受けてこれなのだから、戦闘中はさぞ酷い有様だったのだろう。
だろう、なんて他人行儀な言葉しか使えないのは、戦闘中のツウィグを私は覚えていないから。
傷だらけで倒れていたはずの彼が、私には見えていなかった。風景の一部に同化して、道端の小石の形を覚えていないみたいに、意識の隙間をすり抜けていたのだ。
これだけの傷を負っていた、ツウィグを。
「その、ロウリは、さ……強いから……」
ふと、ルーアが口を開いた。
ベッドで上体を起こしたままのルーア。
その細い指先が、きゅっと布団を掴んでいる。
「分かんないかもしれないけど、私とかツウィグって、すごい、弱くて……ロウリとかシャルナさんが平気なことが、全然平気じゃなくて……殴られたら傷になるし、高い所から落ちたら死んじゃうし……」
そう、私に平気なことが彼らには全然平気じゃない。
魔力で体を守ることも、肉体を強化することも、魔術で反撃することもできない。
自らを脅かす外敵を、呪術で呪い殺すこともできない。
弱い人間というのは、できないことだらけの生命体だ。
その弱さが、私は嫌いだった。
憎んでさえいた。
「だから、怖いんだ。ずっと。ずっと、怖い……」
不思議と、今は何の感情も湧かない。
私が大嫌いだった弱者が、目の前に二人転がっている。
ゴートウィスト家にいた頃は、ずっと殺したくてたまらなかった。
弱者を守るのは億劫で、弱者を救うのは大変で、弱者に寄り添うのがストレスで、弱者という存在自体が傲慢なものに思えて、嫌いだったんだ。
でも、今はツウィグとルーアを嫌えない。
この監獄で自分より弱い看守達を殺し回っても、そこまで楽しくなかった。
私の心から、弱者への憤りは消えつつある。
(そっか、もう――――)
ずっと、弱者が嫌いだった。
弱さを振りかざして庇護を求める民衆を、心のどこかで侮蔑していた。
(義務じゃないから)
けれど、それは私に弱者を助ける義務があったからだ。
救いを求められたなら、応えなくてはいけない。自分を守る手段を持たない者達は、私達が守ってあげなくてはならない。強きを挫き、弱きを助けるべきである。
そういった義務が、正義という名の義務があったから、彼らの要求が疎ましかった。
今の私に、それは無い。
ツウィグやルーアを守る必要も無い。看守達の命乞いを聞いてやる義務も無い。
私の気が乗った時に助けてあげれば良いし、私の気分次第で見逃してあげても良い。
もう、私は自由なんだ。
自由だから、彼らを嫌う気持ちも無いのだ。
むしろ、今の私にあるのは――――
「……可哀想」
口をついて零れ出た、憐憫の言葉。
今はただ、二人が哀れだ。
こんな戦場に送り込まれて、看守達に滅多打ちにされたツウィグ。いつ敵が襲い来るとも知らぬ監獄で、一人待っていたルーア。
それはきっと、嫌だろう。
あの日、父の部下を呪術で刺したあの日から、私は常に殺す側だった。騎士として活動した日々の中でも、自分の死をイメージしたことは無い。
私は初めて、殺される側の気持ちを考えた。
多分嫌なんだろうな、程度のことしか考えられなかったが。
それでも、理不尽な攻撃と殺意に晒された二人が、少しだけ、可哀想だと思った。
「だ、れか……」
うわ言のように、ツウィグが言った。
瞼が開く様子は無い。
寝言だ。魘されている。悪夢でも見ているんだろうか。
「たすけ、て……」
彼の小さな声音が、鼓膜の中で反響する。
悪夢に苛まれる少年の、助けを求める声。
意識することもなく、ただ眠ったままに発した言葉。
起きている時のツウィグなら、きっと言葉にしないような心情。
助けるか、助けないか。選択権は私にある。助けなきゃいけない、なんて正義の束縛はもう存在しない。
全てを自由に選べる上で、私は――――
――――お前は、善人だ……
助けてもあげても良いな、なんて思った所で、バーンドットの言葉が脳裏をよぎった。
それでもやっぱり、バーンドットの遺言は嘘だと思う。
気まぐれで一人か二人助けたところで、私が善を捨てたことには変わりないのだから。
子供の頃の習い事って、大抵長くは続かないものです。始める前はあんなにも好きだったはずなのにね




