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君の不在証明  作者: 讀茸
第二章 監獄落とし

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第三十一話 穏やかな世界へ

 ただひたすらに、走っていた。

 どこを走っているのかも分からぬまま、何かに突き動かされるように走っている。

 全身が痛む。血液が傷口から零れて、どんどん体が寒くなっていく。頭が朦朧として、今にも倒れ込んでしまいたい。

 けれど、走る。

 きっと誰かが俺を追っていて、追いつかれれば殺される。

 自分の足音と後ろを走る誰かの足音だけが、やけに響いている。

 今、足を止めて蹲ってしまえば、解放されるのだろうか。激痛を堪えて走り続けるような人生とも、おさらばできるのだろうか。

 きっと、できる。

 俺を追っている看守は、俺を殺すだろう。そのトンファーで俺の頭蓋を砕いて、心臓を潰して、頸動脈を突き破って、俺の息の根を完全に止めてくれる。

 そう、きっと終わらせてくれる。

 終わらせてくれるのなら、それが良い。

 思い遺したことなど一つも無い。嫌いなものばかりの生活に別れを告げられる。

 もう、殴られることも、蹴られることも、刺されることも無い。

 穏やかな虚無に沈んでいける。

 そう思って、足を止めた俺は――――


     ***


 少し、時を遡る。

 監獄第二層、ローゴンとリスタルが第四層の広間へと先行した後、ウーズはカルシュの目覚めを待っていた。

 本格的な治療を行うと後輩二人に説明したウーズだったが、それは真っ赤な嘘。

 本当の目的は別にあった。


「起きたな。カルシュ」


 床に寝かせたカルシュ。

 その瞼が上がったのを確認して、ウーズは声をかける。


「良いか。落ち着いて聞いてくれ。失った血の量が多すぎる。俺の治癒魔術じゃ治しきれない。三層の医務室まで行けば、治療用の器具がある。そこで俺の血を輸血する。今からお前を担いで運んでく。分かったら、大人しくしてろ」

「……何、言ってる。そんなことしてる場合じゃないだろ」

「喋るな。動くな。考えるな。今はとにかく体力の消耗を抑えろ。頼むから、少しは状況を理解してくれ」


 有無を言わさぬウーズの口調。

 しかし、カルシュはウーズの制止を振り切って、上体を起こした。

 ウーズと同じ高さまで顔を上げたカルシュは、真っ直ぐな瞳で彼を覗き込んだ。


「状況を理解できてないのは貴様の方だろう。貴重なヒーラーを私一人のために費やすつもりか?」

「それは……」

「私は戦える。この程度の出血、大したことじゃない。私は大丈夫だ。……だから、そんな顔をするな」


 カルシュの容態は致命的だ。

 出血量があまりにも多く、止血が間に合わなかった。

 体内の血の量が足りていない。このまま活動を続ければ、失血死するのは時間の問題だ。

 それをウーズはよく分かっていたし、カルシュも何となく理解していた。

 このままいけば死ぬのだろう、と。


「……カルシュ」


 ウーズがポツリと零す。

 雫を一滴垂らしたような言の葉は、優しくカルシュの鼓膜を叩く。

 水面に落ちた水滴が、波紋を広げていくように。

 ゆっくりと、優しく、僅かに潤んだ声音で。


「無傷だ。無傷で戦い抜け。そうすれば、俺が必ず治してやる」


 彼らしくもない強い言葉。

 いつもの飄々とした口調はどこへ行ったのか。

 やけに熱っぽいウーズの言葉に、カルシュは微かに微笑んでみせる。

 こちらもやはり彼女らしくない、どこか落ち着いた優しげな眼差しで。


「ああ、約束だ」


 互いにらしくない言葉を交わし、二人はゆっくりと立ち上がる。

 行く先は分かっていたけれど、口にするような野暮はせず。

 二人並んで歩き出したのだ。


     ***


 監獄第六層。

 カルシュから逃げるように、とある牢屋を目指して走っていたツウィグ。

 彼が足を止めたのは、ある種の自殺願望からであった。

 殺されてしまえば、激痛に耐えながら走ることも、自分より強い誰かに虐げられることも、恐ろしい呪術師に怯えることもなくなる。

 苦しみから解放されたくて、止めた足。

 自らを追う看守が、痛みと苦しみに満ちた人生を終わらせてくれることを願って、立ち止まったツウィグ。

 その薄く濁った色の瞳が目にしたのは、床に倒れ伏すカルシュの姿だった。


(まだ……)


 失血死寸前の体を押して、戦闘を続行していたカルシュ。

 ロウリの投げた剣が脇腹を掠めた時点で、彼女の肉体は限界を迎えていた。


(まだ、死なせてくれないのか)


 足を止めたツウィグを目の前にして、力尽きたカルシュ。

 トンファーを両手に持ったまま、うつ伏せに倒れる彼女は、既に呼吸を止めていた。

 息絶えた看守の亡骸を、ツウィグは呆然と見下ろす。

 やけに穏やかな顔で眠る看守の顔が、恨めしい。

 安穏なあの世へと旅立った看守が、ツウィグにとっては羨ましかった。

 あと少し、あと少しだけ、看守の命が続いていれば、そちら側に旅立てたのはツウィグの方だったのに。


「……行かなきゃ」


 痛みを引きずって、少年は再び歩き出す。

 追手はもういない。

 目指す先はとある牢屋。

 元アルカナン中核メンバー、ヘイズ・トラッシュの収監される檻である。


 

屋上から飛び降りるほどの勇気は無い。だから、明日の朝に目が覚めないことを祈るのです。

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