第三十一話 穏やかな世界へ
ただひたすらに、走っていた。
どこを走っているのかも分からぬまま、何かに突き動かされるように走っている。
全身が痛む。血液が傷口から零れて、どんどん体が寒くなっていく。頭が朦朧として、今にも倒れ込んでしまいたい。
けれど、走る。
きっと誰かが俺を追っていて、追いつかれれば殺される。
自分の足音と後ろを走る誰かの足音だけが、やけに響いている。
今、足を止めて蹲ってしまえば、解放されるのだろうか。激痛を堪えて走り続けるような人生とも、おさらばできるのだろうか。
きっと、できる。
俺を追っている看守は、俺を殺すだろう。そのトンファーで俺の頭蓋を砕いて、心臓を潰して、頸動脈を突き破って、俺の息の根を完全に止めてくれる。
そう、きっと終わらせてくれる。
終わらせてくれるのなら、それが良い。
思い遺したことなど一つも無い。嫌いなものばかりの生活に別れを告げられる。
もう、殴られることも、蹴られることも、刺されることも無い。
穏やかな虚無に沈んでいける。
そう思って、足を止めた俺は――――
***
少し、時を遡る。
監獄第二層、ローゴンとリスタルが第四層の広間へと先行した後、ウーズはカルシュの目覚めを待っていた。
本格的な治療を行うと後輩二人に説明したウーズだったが、それは真っ赤な嘘。
本当の目的は別にあった。
「起きたな。カルシュ」
床に寝かせたカルシュ。
その瞼が上がったのを確認して、ウーズは声をかける。
「良いか。落ち着いて聞いてくれ。失った血の量が多すぎる。俺の治癒魔術じゃ治しきれない。三層の医務室まで行けば、治療用の器具がある。そこで俺の血を輸血する。今からお前を担いで運んでく。分かったら、大人しくしてろ」
「……何、言ってる。そんなことしてる場合じゃないだろ」
「喋るな。動くな。考えるな。今はとにかく体力の消耗を抑えろ。頼むから、少しは状況を理解してくれ」
有無を言わさぬウーズの口調。
しかし、カルシュはウーズの制止を振り切って、上体を起こした。
ウーズと同じ高さまで顔を上げたカルシュは、真っ直ぐな瞳で彼を覗き込んだ。
「状況を理解できてないのは貴様の方だろう。貴重なヒーラーを私一人のために費やすつもりか?」
「それは……」
「私は戦える。この程度の出血、大したことじゃない。私は大丈夫だ。……だから、そんな顔をするな」
カルシュの容態は致命的だ。
出血量があまりにも多く、止血が間に合わなかった。
体内の血の量が足りていない。このまま活動を続ければ、失血死するのは時間の問題だ。
それをウーズはよく分かっていたし、カルシュも何となく理解していた。
このままいけば死ぬのだろう、と。
「……カルシュ」
ウーズがポツリと零す。
雫を一滴垂らしたような言の葉は、優しくカルシュの鼓膜を叩く。
水面に落ちた水滴が、波紋を広げていくように。
ゆっくりと、優しく、僅かに潤んだ声音で。
「無傷だ。無傷で戦い抜け。そうすれば、俺が必ず治してやる」
彼らしくもない強い言葉。
いつもの飄々とした口調はどこへ行ったのか。
やけに熱っぽいウーズの言葉に、カルシュは微かに微笑んでみせる。
こちらもやはり彼女らしくない、どこか落ち着いた優しげな眼差しで。
「ああ、約束だ」
互いにらしくない言葉を交わし、二人はゆっくりと立ち上がる。
行く先は分かっていたけれど、口にするような野暮はせず。
二人並んで歩き出したのだ。
***
監獄第六層。
カルシュから逃げるように、とある牢屋を目指して走っていたツウィグ。
彼が足を止めたのは、ある種の自殺願望からであった。
殺されてしまえば、激痛に耐えながら走ることも、自分より強い誰かに虐げられることも、恐ろしい呪術師に怯えることもなくなる。
苦しみから解放されたくて、止めた足。
自らを追う看守が、痛みと苦しみに満ちた人生を終わらせてくれることを願って、立ち止まったツウィグ。
その薄く濁った色の瞳が目にしたのは、床に倒れ伏すカルシュの姿だった。
(まだ……)
失血死寸前の体を押して、戦闘を続行していたカルシュ。
ロウリの投げた剣が脇腹を掠めた時点で、彼女の肉体は限界を迎えていた。
(まだ、死なせてくれないのか)
足を止めたツウィグを目の前にして、力尽きたカルシュ。
トンファーを両手に持ったまま、うつ伏せに倒れる彼女は、既に呼吸を止めていた。
息絶えた看守の亡骸を、ツウィグは呆然と見下ろす。
やけに穏やかな顔で眠る看守の顔が、恨めしい。
安穏なあの世へと旅立った看守が、ツウィグにとっては羨ましかった。
あと少し、あと少しだけ、看守の命が続いていれば、そちら側に旅立てたのはツウィグの方だったのに。
「……行かなきゃ」
痛みを引きずって、少年は再び歩き出す。
追手はもういない。
目指す先はとある牢屋。
元アルカナン中核メンバー、ヘイズ・トラッシュの収監される檻である。
屋上から飛び降りるほどの勇気は無い。だから、明日の朝に目が覚めないことを祈るのです。




