第三話 行きたくない
少し、歩き疲れた。
当ても無くソルノットの街並みを歩いていたロウリは、立ち止まって空を見上げた。
仰ぐ天蓋は曇天。閉塞的な灰色の雲が、世界を閉ざすように立ち込めている。
薄暗い曇り空に覆われたこの街は、決して抜け出せない監獄のようだ。
(なんか、疲れたな)
凄まじい精神的疲労がロウリを襲っていた。
十数年。自らの欲望を押し殺し善人として生きてきた反動は、精神的負荷となって彼女の内側に蓄積されていた。
(もうすぐミサの時間だ。教会行かなきゃ)
今まで、一度として欠かしたことのないミサの習慣。
神に祈りを捧げるだけの時間。両手を合わせて目を瞑るロウリが、心中で何を考えているかなど、周りの人間には分かりやしない。
本当は神様なんて信じていないのに、誰もが彼女を敬虔な信徒だと思っている。
ロウリが神に祈るのは、それが善行だから。それが正しいことなのだと、親や大人といった上位存在に教えられてきたから。
ただそれだけの空虚な営みなのだ。
(何の意味があるんだろ)
無意味で無価値で無味乾燥な、正しさを積み上げるだけの巡礼。
報われることも無く、認められることも無く、ただひたすらに善を為し続けるだけの日々に、一体何の意味があるのだろう。
(行かなきゃ、教会)
足が動かない。
(行かないと、また殴られる……)
靴裏が地面にへばりつく。
(行かなきゃ――――)
肉体が行動を拒否している。
漠然と曇天を見上げたまま、心地の良い停滞に縋りつく。
肉体は感覚へ。感覚は本能へ。本能は思考へ。
長い時を経て、ロウリ・ゴートウィストは初めてその思考に辿り着いた。
「行きたくない」
誰に聞かせるでもない独り言。
善であれと願われ、その在り方を押し付けられた少女は、初めて己が願いを吐き出した。
それは偶然。
彼女の願いに呼応するように響いた爆発音。
ロウリの左前方数百メートルの地点で、民家の屋根が吹き飛んでいる。
明らかな戦闘の気配を漂わせて、ロウリの視界内で何かが炸裂していた。
***
痛む全身を堪えて、入り組んだ街中を疾走する。
少年は小柄な体躯を活かし、猛スピードで街を駆け抜けていた。
「こっちだ! 追え!」
「逃がすかボケェ!」
しかし、幾人もの追手は執拗に少年を追いかける。
くすんだ白い髪をなびかせて、少年は民家の屋根へと飛び乗り、飛び移り、飛び降りる。
青カビを思わせる灰緑色の右目で追手の姿を確認しながら、少年はソルノットを疾駆する。
(追手の数が多い。この体で逃げ切れるかどうか……)
細い路地裏を選び、少年は身軽に走る。
しかし、如何せん追手の数が多い。逃げても逃げても回り込まれる。
満身創痍の肉体を引きずって、少年は乾いた大地を逃走する。
勢いよく曲がり角を曲がった途端、棍棒や刃物を手にした追手達と鉢合わせた。
「ヤバ……」
咄嗟に踵を返した少年は、来た道を逆戻りする。
「いたぞ! こっちだ!」
「逃げてんじゃねぇ! クソガキ!」
全速力で逃げる少年。
その背中に向けて、追手の男は刃物を投げつける。
「……!」
流し目に追手のモーションを確認していた少年は、ギリギリで回避行動を試みる。
しかし、長時間の逃走による疲弊は、少年の肉体から彼本来の動きのキレを奪っていた。
刃物を避けるように、右方へと投げ出した体。その左大腿部に、追手が投げた刃物が突き刺さった。
「クソ……っ!」
左脚を貫く激痛。
バランスを崩された少年は転倒し、走っていた勢いのまま地面を転がる。
「つゥ……」
倒れ込んだまま、少年は左脚を見下ろす。
左大腿部に深く突き刺さった刃。自らの血で赤く染まった刃を見下ろして、少年はすぐさま覚悟を決める。
「づ、ぅああああ……ッ!」
刃物の柄を握り、歯を食い縛ってそれを引き抜く。神経を直接刺激されたような激痛を堪え、脚に突き刺さった刃を力任せに引き抜いたのだ。
お返しとばかりに追手に刃物を投げ返し、少年はすぐ隣の建造物の窓にダイブ。
血の滴る足を引きずって、建物の中に飛び込んだ。
(落ち着け。まだ走れる。あと少し走れば、騎士がうろついてるようなエリアに入る。そこまではこいつらも追って来れないはず。あと少し。あと少しだ。頑張れ、俺)
飛び込んだ建物の中で、少年は息を整える。
そこは存外に広い空間だった。パっと見る限りは、殺風景な土色の床。ほとんど外の大地と変わらない性質のそれは、床というより地面と呼ぶべきだろう。
広い部屋の中央は開けていて、これといったオブジェクトは無い。四方の壁沿いに設置された棚を見る限り、何かの倉庫であることが伺えた。
(よし、行くぞ)
休憩する暇も無く、再び走り出そうとした少年。
その出鼻を挫くように、突如として倉庫の屋根が崩落した。
派手な炸裂音と共に天井が落ちる。その際に起こった突風と砂埃に、少年は思わず目を覆う。
約三秒後、砂埃の収まった倉庫内には、一人の男が立っていた。
天上が落ちて吹き抜けとなった倉庫。かつて屋根だった瓦礫の山に、彼は悠然と立っていた。
「随分逃げ回ってくれたな、コソ泥」
男は正装に身を包んでいた。髪型も前髪を上げたカッチリしたもの。
如何にも礼儀正しい身なりの男だが、その目には冷徹な殺意が宿っている。
天上をぶち抜いて追って来た男を前にして、少年は悟る。
追いつかれてはいけない人間に、追いつかれてしまったのだと。
「そっちの目的は――――」
「黙れ。俺はお前とお喋りしに来たんじゃない」
どうにか交渉を、と持ちかけた会話も一言で切って捨てられる。
男はどこまでも冷たい殺意を以て、少年へと近寄っていく。
「もうじき、この周りを俺の部下が囲う。今度こそ逃走経路は無い。その脚なら尚更な」
一歩一歩、男はにじり寄る。
冷や汗を掻いて対峙する少年は、後ずさることすらできない。
「万に一つもお前に勝機は無い。大人しく死ね。そうすりゃ、苦しまず逝かせてやる」
少しずつ少年に歩み寄る、確かな死の気配。
男の形をした死そのものが、少年へ刻一刻と迫って来る。
男の腕に自分の首がへし折られる光景を、少年はオッドアイの瞳で幻視した。
(八方塞がり。ここを切り抜けるには、無理にでも魔眼を――――)
「大人しく死ねっつったんだ。お前の眼はよく知ってる。下手に足掻いて苦しむような馬鹿はするなよ」
少年の思考を見透かしたように、男は警告する。
少年が持つ特異な瞳についても、男は委細承知しているようだった。
左脚に深い裂傷。多勢に無勢。おまけに切り札まで見抜かれている。
どうしようもないほどの、詰み。最早死を待つしかないほどの劣勢。
そんな最悪に最悪を重ねたような状況の中で、キィーと木材の擦れる音がした。
それは扉が開く音。立て付けの悪い倉庫の正面扉が、ゆっくりと開かれる音だった。
「おい、誰が入って良いと――――」
それを自分の部下によるものだと勘違いした男は、ドスの利いた声を発する。
しかし、その言葉はすぐに途切れた。
扉を開けて入って来たのは、彼の部下ではなく、一人の少女だったのだから。
「連邦騎士団ソルノット支部所属、ロウリ・ゴートウィスト」
薄暗い倉庫の中、彼女の姿はどこか猟奇的な美しさを纏っていた。
まるで、闇夜に咲く一輪の彼岸花。
赤みがかった長い黒髪。灰色の瞳には熱が無く、白い肌が薄闇の中に浮かび上がる。
「戦闘行為を確認。これより鎮圧に入る」
それは、少年と少女の邂逅であった。
(会社に)行きたくない。みたいなことってありませんか