第二十七話 希望論
バーンドット撃破直後、私はしばらく彼女の死体の上に立っていた。
落下の衝撃でひしゃげたバーンドットの肉体は、ほとんど原型を留めていない。
――――お前は、善人だ……
最後に腐るほど耳にした言葉を遺して、バーンドットは死んだ。
私が嫌ってやまなかった言葉。
正しく在れ、人を助けろ、周りを慮れ。お前は善人なのだからそうするべきだと。
そういう風に押し付けられるのが、息苦しくて仕方なかった。
私の在り方を誰かに規定されるのは、ひどく退屈でつまらない。
他人にとって都合の良い善人を演じるのには、もう疲れたのだ。
お前は善人だ、なんて言葉。
聞き飽きた台詞のはずだ。
だというのに――――
「……本気で思ったんだ。バーンドットは」
彼女の口から紡がれたそれは、私の知るそれとは違っていた。
多分、バーンドットは本気で私が善人だと信じていたのだ。
そうあれかしという願いの押し付けでもなく、ロウリ・ゴートウィストは善人でなければならないという論理からでもなく、ただ本心で。
私は善人として生きられると。
バーンドットが善人だと強く定義してやれば、私は善人としての未来を掴めるのだと。
私に刺し殺されるその瞬間まで、馬鹿みたいに信じ切っていたのだ。
有り体に言ってしまえば、私を救える気でいたのだろう。
「そんなわけがないのにね」
私が零した呟きは、どこか哀れみを含んでいた。
バーンドットは強かった。結果的に勝利したこの戦いだが、負け筋はいくらでもあった。
こんなにも強かったのに、監獄を守るために死んでいく。バーンドットよりも弱い人間のために。
それが正しさだというのなら、彼女は正しさの奴隷だ。
バーンドットほどの強者なら、もっと自由に生きられたのに。
そんなことを考えながら、見下ろす死体。
地面に咲いた赤い花は、グロテスクながらもどこか猟奇的な美しさを纏っている気さえした。
真っ赤な死体の上に立っていると、背後からタッタッタッと足音が聞こえる。
気配を隠すことも、足音を忍ばせることもない。
むしろ、気付いてほしくてたまらない。
そんな自己顕示的な存在感を迸らせて走ってきたのは、ルーア・ラーケイプだった。
「ロウリ! 大丈夫だった? すっごい高さから落ちたけど……」
第四層の空き部屋に待機させていたルーア。
この非常時に誰も寄り付かないであろう場所を選んで隠れさせていたのだが、私の様子を見に出てきたらしい。
自衛手段を持たないルーアに敵地でウロチョロされるのは結構マズいのだが、指摘すると落ち込みそうだし、一々言ってやることもないだろう。
今回に限って言えば、ルーアの存在がバーンドットの戦闘にも役立ったのだし。
「大丈夫。それよりも、さっきは助かったよ。遠隔でも治癒魔術使えるんだ」
「うん。効果範囲はあんまり広くないから、ちょっとロウリに近付いたけど……」
ちょっと、か。
バーンドットとの戦闘中、ルーアが目に入った時は結構肝を冷やしたんだけどな。
貴重なヒーラーなわけだし、流れ弾でコロっと死なれても困る。そうでなくとも、私がバーンドットを殺す前に看守に見つかっていれば、ルーアは為す術も無かっただろう。
しかし、当のルーアには危ない橋を渡ったという自覚すら無いみたいだ。
それは、丸っきり――――
「…………行こっか、ルーア」
丸っきり、弱者のそれ。
思考も肉体も、小さくて脆くて愚かな弱者。
ルーアが教会で嫌われたのも、何となく理解できる気がする。
ルーアは教会の魔術に関しては規格外の才能を持っているが、それ以外の能力があまりにも劣っている。
ただ才能に恵まれただけの人間。
そう呼ばれるにはもってこいの人物ではある。
「えっと、どこ行くの……?」
「五層と六層の看守を減らしに行く。ツウィグ一人に任せるのもアレだし」
「あ、ろ、ロウリ……」
会話もそこそこに歩き出した私。
十数歩を歩いたところで、ルーアがついてきていないことに気付く。
少しずつ遠ざかる私を、ルーアは不安げな瞳で見つめていた。
今にも泣きそうな顔の彼女は、何かに怯えているようだった。
「怒ってる? 私、何か迷惑かけちゃった……? ごめんね。私、いつも、そういうの分からなくて……」
怒っている? 私が?
怒っているんだろうか、私は。
どうしようもなく弱いルーアに、苛立ちを覚えていたんだろうか。
「……少しね。ルーア、一人じゃ戦えないのにノコノコ出て来たから」
「あっ……! ご、ごめんなさいっ、わっ、私、そこまで気が回らなくて……一人で待ってるの怖くて、ロウリが怪我してるの見えたから、行かなきゃって思って…………」
多分、バーンドットとの戦いが楽しかったんだ。
殺すか殺されるかの関係だったけれど、バーンドットは私と対等に戦えるほど強かった。
私が呪術を打ち込んでも、バーンドットは何とか凌いで反撃に転じてくる。
私が本気でぶつかっても、バーンドットも食らいついてくる。遠慮も配慮も要らない。ただ全身全霊で命を奪い合う。
そこには、強さだけがあった。
一般人の安否を気にかける必要も、弱者を慮る必要も、戦えない誰かを守ってやる必要も無い。
ただ、何の気がかりも無しに全力を出せる、強者だけの世界が心地良かった。
その後にルーアと会ったものだから、あまりのギャップに唖然としてしまったのだ。
「ルーア」
彼女の名前を呼んでみる。
潤んだ上目遣いでこっちを見る彼女は、天敵を前にした小動物みたいだ。
私がその気になれば、ものの一瞬で殺せてしまうんだろう。
怯えた表情をするルーアは、全身で「殺さないで下さい」と叫んでいるようだった。
それが、何だか可愛かった。
「良いよ。気にしてない。次からは、私の手が届く所にいてくれれば良いから。ほら、早く行こう」
「う、うん……!」
私が許すと、ルーアは嬉しそうな顔でついて来た。
強者だけの世界は心地良い。何にも縛られずに呪術を使うのは楽しい。そのために、弱い人間っていうのは軒並み邪魔だ。
でも、ルーアのことは嫌いじゃない。
今まで何百人と殺さずに捕らえてやった犯罪者達とか、犯罪組織の脅威から守ってあげていた民間人達とか。
そういうヤツらとルーアは違う。
何が違うかは分からないけれど、別にそんなことはどうでも良い。
私は、私の好きなものを守って、私の嫌いなものを殺すだけ。
そこに一貫した理屈なんて必要無い。
さあ、気に食わない弱者を蹂躙しに行こう。
***
第四層広間、バーンドットとロウリが戦場を移したすぐ後のこと。
死体がゴミのように散乱する広間には、鼻がひん曲がりそうな腐敗臭が充満していた。
取り残された生者は三人。ディセイバー、コニア、ナウリア。
ディセイバーがバンデスの脈が完全に止まったことを確認した所だった。
脈など取らなくとも、見るからに生きているはずのない重傷ではあったが。
誰も、何も言わなかった。
重苦しい沈黙だけが、三人の間を満たしている。
そんな時だ。バーンドットによって破壊された扉から、駆け込んで来る者が二人。
第二層からここまで走って来たリスタルとローゴンだった。
「みんな! だい、じょう――――」
ディセイバーらの姿を見て、一瞬だけ声を上げたリスタル。
仲間の姿を目にして上げた嬉しそうな声は、あまりに残虐な殺戮の残滓に掻き消される。
血と死体で溢れた広間の惨状が、リスタルから声を奪っていた。
視界をいっぱいに満たす、かつて看守だったものの残骸。
リスタルの目はすぐに見つけてしまう。胸に大穴を空け、血塗れで倒れる馬の獣人。床に横たわる、同期の死に様を。
「バンデス……?」
バンデス・ドルグ。
馬の獣人ということもあって、体格に恵まれた男だった。
同期の中ではローゴンの次にデカいのに、いつも自信無さげだった変わったヤツ。
体は大きいのに気が弱くて、厳つい顔をしているのに優しくて、強くて優秀なのに謙虚で。
「え、いや……嘘、なんで……? こんな、こんなこと…………」
それは、あまりにもあっさりと。
この監獄襲撃が一つの小説だったなら、頁の隅にも書かれないような出来事。
今日失われるであろう何百という命の中の、たった一つに過ぎないとでも言うかのように。
「嘘、だよね……?」
縋るように、辺りを見回すリスタル。
目が合ったのは、バンデスのすぐ側に膝をつくディセイバー。
ディセイバーは一瞬だけ逃げるように目を背けてから、神妙な顔で首を横に振った。
つまりは死んだということ。
これからずっと、同期として一緒にやっていくと思っていた仲間は、リスタルの知らぬ間に殺されていた。
何の前触れも無く訪れた襲撃者によって、理不尽に殺されていたのだ。
「……状況を確認しよう。俺達はまだ生きている。やるべきことも残っているはずだ」
口火を切ったのはローゴン。
彼の言葉に従って、リスタル達は互いの持っている情報を共有した。
その途中で、カルシュの治療のために遅れて来たウーズとカルシュも合流。
ウーズは治癒と解呪の魔術でコニアが受けた傷は治療しつつも、全員で状況の擦り合わせを行う流れとなった。
リスタル、ローゴン、ウーズ、カルシュは第二層でバーンドットと遭遇。彼女の指示に従い、看守が多く集まっているだろう第四層の広間へと直行。バーンドットが先行していたのは純粋の走力の差だ。
ディセイバーらも広間での戦況を報告。
ここに集まっていた看守全員でロウリに挑み、敗北。バンデスを含めた大勢が死亡し、ディセイバーらの命にも手がかかる寸前でバーンドットが参戦。彼女は今も戦場を移して戦闘を続けているだろう状況だ。
「俺達は手も足も出ませんでした。バンデスさんが体を張って助けてくれなければ、俺も……」
それは死者への追悼も込めてか、ディセイバーはバンデスの最期についても言及した。
本来、ロウリの刃が貫くはずだったのはディセイバー。彼が今も生き永らえているのは、バンデスが身を挺して庇ったからだ。
「なるほど。状況は分かった。……君達はよくやったよ。バーンドットの到着まで粘った意味は大きい。こんな状況じゃ難しいかもしれないけど、誇って良いことだと思う」
ウーズがかけた慰めの言葉は、間違いなく本心から出たものだ。
事実にも即している。ディセイバー達がロウリに瞬殺されていれば、ロウリは第五層か第六層へと移動し、さらに被害を増やしていただろう。
第四層の広間という分かりやすく看守の集まる場所を離れたロウリを、バーンドットが見つけ出すまでにどれだけの犠牲が出たか分からない。
けれど、そんな言葉が気休めになるほど、彼らの心に刻まれた傷は浅くなかった。ロウリに二度の敗北を喫したディセイバーは特に。
生き残った者達の沈痛な面持ちは、ウーズにとっても心苦しかった。
彼はこれから、さらなる苦境を告げなければならないのだから。
「ここにいたのはロウリ・ゴートウィスト一人。ここにいる誰も腐敗の魔眼で攻撃を受けた形跡は無い。ここから察するに、向こうはロウリ・ゴートウィストがここで看守達を足止めしている間に、魔眼持ちが第六層に向かって死刑囚を解放する算段だ」
空気がズンと沈むのを、ウーズは肌で感じた。
ただでさえ大量虐殺に等しいこの状況で、敵側勢力はさらに戦力を増やそうとしている。
まさに、絶望という言葉が相応しい。
今すぐにでも動いて、敵の魔眼持ちを止めなければならない。
そう頭では分かっていても、全身にのしかかる絶望は無力感となって彼らの心を削ぐ。
「追うぞ。今から追って、私達でその魔眼持ちを止める」
閉塞感が満たす広間、口を開いたのはカルシュだった。
「ロウリ・ゴートウィストはバーンドットが倒す。私達で魔眼持ちを止める。これで二人撃破だ。残る二人は他の誰かが何とかしてくれる。大丈夫だ。きっと勝てる。誰の死も無駄にならない。無駄にしない」
それは希望論だ。
バーンドットがロウリに勝てる保障も無ければ、シャルナを誰かが止められる論理なんて無い。
既に第六層へと向かっている魔眼持ちに、今から追いつけるのかも分からない。
子供じみた机上の空論。
理屈を全部すっぽかした、ただの希望論。
でも、今はそれが必要だった。
「頼む。力を貸してくれ」
希望論でも良いから、立ち上がる理由が必要だった。
最後には何もかもが無駄になるとしても、今だけは無駄じゃないと思えるような何かが必要だったのだ。
ウーズ、カルシュ、コニア、ローゴン、ナウリア、ディセイバー、リスタル。
七人の追走者は立ち上がる。
原動力はまやかしのような希望論。
そんなものに縋るしかないような状況での追走戦。
監獄最後の戦いが、幕を開けようとしていた。
ディセイバー・オルティクス、同期で一番尊敬している人はバンデス・ドルグらしい




