波乱の高校生活の幕開け
冬の寒さがまだ残る早朝。
布団の中で丸まっていた体は、目覚まし時計が鳴るより先にひとりで勝手に目を覚ました。
「……寒い」
思わず口から漏れた声に、自分でも苦笑する。
時計を確認すると、まだ七時。アラームは七時半にセットしてあるから、三十分も余裕ができた。二度寝したい気持ちに抗いながら、半ば這いずるようにベッドから抜け出す。
カーテンを開けると、冬の名残を帯びた空気を押しのけるように朝日が差し込んでいた。冷たい空気の中に、わずかな温もりが混じる。新しい一日の始まりを感じさせる光景だ。
「せっかくだし、普段より丁寧に身支度でもしてみるか」
そう独り言を呟きつつ洗面所に向かい、歯ブラシを口にくわえる。
シャカシャカという音と共に、昨日の出来事が自然と脳裏に蘇ってきた。
朝、迷子になった美女と出会ったことから始まり、入学式では盛大に居眠りをかました。
教室ではやかましいやつ(司)と出会った。出会ってしまったというべきか。
もっと無難に、高校生活の最初を過ごすんだと思っていたのに。
どうやら俺の周りは、しばらく騒がしいメンバーで固定されそうだ。
歯磨きを終えてリビングへ向かうと、テーブルの上に書き置きと共に朝食が置かれていた。
「今日もこれです!」
と乱雑な字で書かれたメモ。
メニューはトースト二枚。片方は目玉焼きにマヨネーズ、もう片方はハムとチーズ。――我が家の伝統的朝食だ。親が忙しい朝に量産する“定番”で、正直これで成長してきたと言っても過言ではない。
パンを頬張りながらテレビを眺める。季節も季節なのでどの番組も桜に関することだらけだ。といっても身近なところには桜をきれいに見れるところはないので、見ても意味ないのだが。
口の中に残った食パンを牛乳で流し込んだ後、テレビを消し制服に着替える。まだ時間はあるが、家にいても特にやることもない。時間をつぶすためにもう一度歯を磨いた後、思い切って予定より早く家を出ることにした。
最寄り駅までは自転車でおよそ十分。イヤホンを片耳につけ、二曲ほど聴けばすぐに駅だ。
普段からよく聞くアーティストの音楽を流し、若干の肌寒さが残る空気を切り分けながら見慣れた街並みを自転車で駆け抜ける。
いつも通りの通学路を進むと、まだシャッターを下ろしたままの商店や、朝早くで人の気配がない公園を通り過ぎた。信号待ちでふと顔を上げれば、薄雲の隙間から差し込む朝日がビルの窓に反射して、目を細めさせる。通りを横切る小学生たちの声が風に混ざり、耳に届くたびに今日も一日が始まるのだと実感させらる。
最寄りの駅前の月極の駐輪場に自転車を止め、駅ホームへと歩みを進める。
ホームに着いた頃には、ちょうど一本前の電車が入線していた。
慌てて階段を駆け下り、思わず駆け込み乗車をしてしまう。――やってはいけないと分かってはいるが、つい。
まだ通勤ラッシュには早い時間帯で、車内はそれほど混んでいない。座席は埋まっているが、吊り革をつかむくらいの余裕はある。眠たげなサラリーマン、同じ制服の生徒たちがスマホに釘付けになっている姿。そんな光景の中、俺は窓の外をぼんやりと眺めていた。
車窓を流れる桜並木。花びらが舞い散るその景色に、自然と昨日の七瀬との別れ際が思い出される。
――雰囲気も、表情も、声の調子さえも。
あのときの七瀬は、まるで“別人”だった。
(……家に帰れるのがそんなに嬉しかったのか? いや、違うよな)
他人のことを深く詮索するつもりはない。けれど気になるものは気になる。今日、それとなく聞いてみようか――そう考えているうちに、電車は次の駅に滑り込んだ。
「ドアが閉まります」
無機質なアナウンスと共に扉が開き、人の流れが一斉に雪崩れ込んでくる。
眠たげなサラリーマン、だるそうな学生。そんな人の波の中に――見覚えのある姿があった。
七瀬鈴奈だ。
制服のスカートを翻し、迷いなく乗り込んでくる。
なんとなく気まずいので反射的に身を潜めようとしたが、時すでに遅し。
彼女はすぐにこちらを見つけ、ぱちりと目を合わせる。
……捕捉された。
七瀬は、まるで吸い寄せられるように真っ直ぐ俺の方へ歩み寄ってくる。
車内のざわめきの中で、その足音だけがやけに鮮明に聞こえる気がした。
「おはようございます」
「おう、おはよう」
短い挨拶を交わしただけで、昨日の出来事が頭の奥から浮かび上がってくる。
どうしても七瀬に聞いてみたい――けれど、それが彼女にとって触れていいものなのかどうか、判断がつかない。視線を合わせることすら妙に気恥ずかしくて、窓の外を流れる景色に逃げるように目をやった。
「そういえば、昨日徒歩圏内とか言ってたのに、けっこう遠い駅から乗るんだな」
思いついたように口にすると、七瀬は小さく笑みを浮かべて答える。
「歩くことは嫌いじゃないんです。それに健康的ですし、暇なときに散歩するのもちょうどいいんですよ」
「迷子になったのにか?」
「……いつまでいじるつもりなんですか」
「いや、あんな面白いことは笑い飛ばしてやった方がいいと思ってな」
「笑いものにしないで、早く忘れてください」
ふくれっ面で言い返す七瀬。そのわずかな拗ね顔に、昨日の凛とした彼女とのギャップを感じて、思わず口元が緩んでしまう。
てか、よく迷子にならずに学校近辺まで歩いてこれたなこいつ。
「そういえば今日は、特別に必要なものってありませんよね? 一応確認したんですけど、荷物があまりに少なくて不安で……」
「ん? ああ、確か何もなかったはずだぞ。今日は教科書の配布とホームルームくらいだ」
「やっぱりそうですよね。よかったです……。なんだか落ち着かなくて」
安心したように頬に指を当て、少し照れ笑いを浮かべる七瀬。昨日、几帳面にメモまで取っていた彼女が、さらに俺に確認してくるあたり――これは単なる心配性ってやつかもしれない。
電車はゴトゴトと揺れながら、学校の最寄りへと近づいていく。
次の停車駅は、昨日、波島司が降りた駅だった。
「ドアが開きます」
機械的なアナウンスとともに、重たい音を響かせて扉が開く。
この地域でも比較的大きな駅のため、学生が雪崩れ込むように乗り込んできた。人の流れが落ち着くのを待ちながら、俺は周囲をちらりと見回す。……だが、あの騒がしいやつの姿は見当たらなかった。
まあ、朝は苦手だとかほざいてたし、この電車にいるはずがない。実際、この二本後の電車でも、本気で走れば十分に間に合うんだからな。
「波島さん、この電車には乗ってこないみたいですね」
同じことを考えていたのか、七瀬がわかりきったような声色でつぶやく。
「だろうな。昨日のあの調子なら、ギリギリの時間まで寝てるはずだ」
二日目にして、俺たちの中で司のイメージはすっかり固定されつつあった。
「ドアが閉まります」
再びアナウンスが流れ、ホームに残っているわずかな人達も電車に乗り込み、少しの息苦しさを覚えたその刹那――
「待って待って! 乗る乗る乗る!!」
聞き覚えのある声が、駅のホームに響き渡った。
次の瞬間、司が俺たちの乗る車両めがけて、ホームベースにスライディングするかのように飛び込んでくる。ドアが閉まる直前、文字どおり“飛び込み乗車”をやってのけたのだ。
「っぶね……ギリギリセーフ! 皆さんお騒がせしました!」
思わず車内の視線が集中し、数人が苦笑いを漏らす。司は涼しい顔で軽く頭を下げた。
……おいおい、こいつは学校外でもこんな感じなのか。てかこいつでも謝れるのか。
とりあえず、こいつと知り合いだなんて悟られないように、俺はそっと目をそらした。
七瀬も同様の考えを持っていたのだろうか、同じように司とは反対の方へと自然に体を向けた。
「ドアが閉まります」
アナウンスが再び流れ、今度こそ電車の扉は完全に閉まった。
わずかな騒ぎも過ぎ去り、電車は再び軋んだ音を響かせながら学校の最寄りへと走り出す。
「長谷川さん、少し後ろの方へ移動しませんか?」
七瀬が小声で提案してくる。
「同感だな。今ここで話しかけられたら、俺らまで変人扱いされるだろうな」
やはり考えは完全に一致していた。もし司と楽しげに会話でも始めてしまえば、“ダイナミック飛び込み男の知り合い”という烙印を押されかねない。平穏な学校生活を望む身としては、それだけは絶対に避けたい。
ちらりと視線を向けると、司は肩で息をしながらも、周囲の好奇と失笑をまるで意に介さず堂々と立っていた。つり革を握りしめ、どこかやり切ったような表情で余裕を取り戻そうとしている姿は……正直、悪目立ち以外の何ものでもない。
俺と七瀬は目を合わせ、互いに小さく頷いた。言葉は要らない。人混みの隙間を縫いながら、ゆっくりと最後尾へと下がっていく。電車は規則正しく揺れ、そのたびに足元がふらつくが、それでも死角に隠れられる――そう思って司の様子をうかがった矢先だった。
「ん?……なんか視線を感じるぞ」
嫌な予感がして目を逸らそうとした瞬間、司は驚くほどの反射神経でこちらに顔を向けた。まるで本能だけで生きている野生動物のような鋭さだ。
心の中で毒づく俺をよそに、司は「やっぱりいた!」とでも言いたげに満面の笑みを浮かべ、「すみません」と周りの人に謝罪をしつつ、そのまま迷いなく俺たちの方へと歩み寄ってきたのだった。
「おはよう!二人とも!」
ぜえぜえと息を荒らげながらも挨拶をする司。
周りの視線が痛すぎる。
「あっ、えぇ、おはようございます」
「ん、おはよ」
ちょっとした動揺を隠しつつも挨拶を返す。
「気のせいじゃなければ、俺から逃げようとしてなかった?」
「いやそんなことは...」
「してたぞ」
「ちょっと長谷川さん!?」
誤魔化そうとする七瀬をよそに、俺は現実を司に突き付けた。
「ひどーい!なんでそんなことを平気でできるのさ二人とも!」
怒ってはいないようだが、少し不服そうな感じを出しながらも訴えかけてくる。
「普通に考えて、あんな悪目立ちする奴と知り合いなんて思われたくないだろ?」
「いやいや、日常の些細なことまで全力でやる良き漢との親友だなんて、光栄じゃない?」
「誰がそんな野蛮人と親友になるか」
「ひっどい」
「でも、わざわざなんでこんな早い電車に飛び込んできたのですか?」
あまりに破天荒すぎて忘れていたが、なぜこんなに早い電車に飛び込んできたのかは気になるところだ。
始業時間まではかなり時間があるので、間に合わないと思った時点で次の電車に切り替えればよかったはずだ。
朝が弱いって言っていたくせに、こんな早朝の電車に乗らないといけない理由があるのだろうか。
「ん?目の前に閉まりかけの扉があったら飛び込まない?」
すまん、何も考えてなかっただけだった。なんというか、直感で行動するタイプらしい。
俺と七瀬は何とも言えない表情を浮かべながら、可哀そうな人を見る目で司を眺めてしまった。
三人で軽い会話を重ねているうちに、電車は学校の最寄りへと遂に到着をした。電車の扉が開くと制服を着た生徒が駅ホームへと流れ出ていく。地方の小さな駅ゆえ、ホームは人の波でぎゅうぎゅう詰めだ。肩を軽くぶつけ合いながら改札を抜けると、外の光に包まれる。そこからは一本道で、交差点を二つ越えればすぐ学校にたどり着く。――まあ、例外的に迷ったやつもいたけどな。
歩道に出ると、朝の空気がまだ冷たさを残している。住宅街を抜ける道の脇には街路樹が並び、春の光を受けて花びらが風に舞っていた。そんな景色を横目にふと昨日のことを思い返しながら七瀬を見ると、目が合ってしまった。
「...何か言いたげな目ですね」
「いいえ何も」
「いや、絶対に言おうとしてましたよね?」
...大正解。心の中ではさっきの例外について考えていた。
他愛のない雑談を交わしながら桜並木の道へと出る。満開の時期を少しだけ過ぎた桜が頭上を覆い、春の日差しを遮っている。時折吹く風にひらひらと花びらが舞い落ちる姿もまた映えている。歩道には散った桜の花が桃色の道を織りなしており、季節の節目を感じることができる。
「桜を見るとほら、花見したくなるよね!」
「確かに、司には似合いそうだもんな、花見」
「絶対なにか含みがあるでしょ」
「さあな」
「花見いいですよね!美味しいものたくさん食べれますし。あ、もちろん花も見れますしね」
桜を鑑賞することをついでのように思っているらしい。
清楚な見た目に反して大食いキャラの可能性が出てきたな。
「やっぱり花より団子だよね!」
「波島さんもこっち側でしたか!団子は美味しいですよね、花見には欠かせません!」
――多分司の言いたかったことは違う。天然の可能性も...いや、道に迷ってるしポンコツの方が近いか。
七瀬のキャラを考察しているうちに、例の交差点、俗に言う”七瀬の聖地”に近づいてきた。信号は赤であり、先ほどまで流れていた生徒の波もひと時は止まる。信号待ちの列に加わると前後左右が同じ制服を着た生徒に囲まれてしまい、ざわめきと笑い声が重なり合い、通学路は一気に学校の空気に染まってしまった。
そのとき、七瀬がふいにうつむいた。さっきまでの柔らかな笑みが消え、短い沈黙が訪れる。
「...?どうした、急に黙り込んで」
思わず問いかけてしまう。司も不思議そうにその光景を眺めていた。
ふと顔を上げた七瀬の表情は先ほどまでと、言葉にしにくいのだがどこかが違っている。
「いえ...少しだけ考え事をしていました」
声色は落ち着きを保っていた。いや、少しトーンがさがったように感じる。
「考え事ねー、そんなに真剣に考えないといけないことなんてあったか?”団子の味はあんこ派か、みたらし派か”ってところか?」
冗談めかして言うと、七瀬は一瞬言葉を探すように視線を泳がせ、やがて小さくうなずいた。
「そうですね、確かにそれは悩ましい問題です」
妙に真面目な調子だ。先ほどまで団子の話で目を輝かせ、無邪気に力説していた人物とは思えない。
(なんだ、この違和感)
司ならこの雰囲気を壊してくれると信じ視線をやってみたが、あの司ですら困惑を隠しきれていない。
普段からニコニコ...いやニヤニヤしてる表情が珍しく引きつった笑顔になっている。笑ってることには変わりない。
信号が青に変わり、人の流れに押されるように歩き出す。俺は隣を歩く七瀬をちらりと見ながら、心の中に引っ掛かりを覚える。そして例の場所を何事もなく通り過ぎた。
先ほどの気まずい空気を引きずったまま、俺たちは無言で通学路を歩き続けていた。
七瀬はあれから一言も発さず、凛とした表情のまま背筋を伸ばして歩いている。
その姿はまるで、自分に“優等生”というレッテルを貼りつけているかのようだった。
春の朝らしい穏やかな風が吹いているのに、空気はどこか張りつめている。
隣を歩く司はというと、なんとか雰囲気を和らげようと必死だ。
口を開きかけては「やっぱ違うな」とでも言いたげに閉じ、視線を泳がせている。
――こいつに“気まずい”という感情があることに、正直ちょっと驚いた。
だが、気持ちは痛いほどわかる。
さっきまで冗談を言い合って笑っていた相手が、突然黙り込んだら誰だって戸惑うに決まっている。
遂に、俺たちは一言も交わさないまま学校へとたどり着いた。
正門をくぐると、まだ朝の冷たい空気が校舎の白い壁に反射している。昇降口へと続く道を歩く間、七瀬は終始背筋を伸ばしたまま先頭を行き、俺と司はその後ろを、ただ何となくついていくような形になっていた。
「七瀬さん、おはよう!」
「えぇ、おはようございます」
下駄箱にたどり着いた途端、明るい声が飛んだ。
声の主は名前こそ思い出せないが、確か同じクラスの女子だ。
七瀬は一瞬だけこちらを振り返ると、柔らかな笑みを浮かべ、その子と自然に並んで歩き出した。
その姿を見送りながら、司がぼそりとつぶやく。
「なぁ……やっぱり変だよな」
「ああ。何か理由がありそうだが、俺たちが踏み込む話でもなさそうだ」
「でもさ、気になるのは仕方ないよね」
「お前がいつものノリで真正面から聞いてきたらどうだ?」
「さすがに俺だってそのくらい空気は読むよ!俺を何だと思ってるの!?」
「こういう雰囲気をぶち壊してくれる可能性があるやつだとは思っていたぞ」
「あれ、もしかしてちょっと褒められた?」
軽口を交わしながらも、互いに同じことを思っていた。
電車の中で笑っていた七瀬と、今の七瀬はまるで別人だ。
「周りに良く見られたい」とか、そんな単純な話ではない。
彼女の中で何かが、きっちり切り替わっている。
……そうとしか思えなかった。
あまり考えすぎるのも気が滅入る。そんな気持ちを誤魔化すように、司が話題を変える。
「それはそうとさ、今日って何かあったっけ?」
「今日は教科書が配布されるくらいだぞ」
「あれ、そうだっけ」
「昨日プリント見とけって言っただろ?」
「いやだってさ、奏斗が“見とけ”って言うときって、だいたい見なくても大丈夫だと思うんだよね!」
「出会って間もない俺の何が分かるんだよ」
「毒舌で、あと……嘘つきなとこ?」
「嘘つきとは人聞きが悪いな」
教室に入り、各々が自分の席につく。
俺と司はいつものように、くだらない軽口を交わしていた。――少なくとも、表面上は。
けれど、気になるものは仕方ない。会話の合間に、つい視線が七瀬の方へと向かう。
お互いそのことに気づいているのに、互いに何も言わない。
まるで、七瀬のことをいったん“記憶の棚”に押し込もうとしているようだった。
あの通学路の空気を、なかったことにしたいような、そんな振る舞いだ。
やがて教室の扉が開き、神崎先生がゆるい調子で入ってきた。
昨日の反省を生かしたのか、扉を心底丁寧に開けていた。
「はいはーい、今日は教科書配布と、あとちょっとした説明ねー。まー説明めんどくさいからこのプリント読んどいてー」
さすが神崎先生。生徒の心を理解しているのか、ただの面倒くさがりなのか――判別がつかないが、長々とした話を聞かなくていいのはだいぶありがたいことだ。
「私は今からやることがあるからー、みんな静かにしててねー。あ、でも隣のクラスに怒られない程度なら話しててもいいからねー」
そう言って笑いながら、教卓の上にプリントを置くと、ひらひらと手を振って教室を出ていった。
ドアが閉まると、教室の中にはほどよいざわめきが戻る。
そこから先は、何事もなく時間が過ぎていった。
教室に配られたプリントには、今日の流れと簡単な説明が端的にまとめられていて、それに従って淡々と動くだけだ。
内容も至ってシンプルで、今後一週間の予定、その際に必要な持ち物、そして今日の行動予定が箇条書きで整理されている。なんか謎の生物のイラストが添えられているが、余計な説明はなく、見れば一瞬で理解できる構成だった。
――神崎先生、仕事できすぎだろ。
無駄な時間が削られるのは正直ありがたい。こういうところは素直に評価したい。
プリントに記された時刻どおり、今後一年間使う教科書を受け取りに行き、それらを持参した鞄に詰め込んでいく。新品の紙の匂いがふわりと立ち上り、ずしりと重みが肩に伝わった。
……もっとも、その重さを完全に想定していなかった人物が一名ほどいたらしい。
両腕いっぱいに教科書を抱え、視界を塞がれたまま廊下をふらふらと歩く“予定を知らなかった男”。一歩進むたびにバランスを崩しそうになっている姿は、見ているこっちが不安になるレベルだった。
誰もが一度はそちらに視線をやり、そして何事もなかったかのように自分の作業へ戻っていく。
俺はこいつの隣を歩いていることが少し嫌になってきた。
教室に戻って机に鞄を放り投げた後は特段やることがなくなった。
本来なら教師によるオリエンテーション的な説明があるらしいのだが、このクラスは例外的に教師が不在らしく、教室にはぽっかりと時間だけが残されている。
窓の外では、春の光が校舎の壁に反射してやけに眩しい。
ざわついていた教室も次第に落ち着き、机に突っ伏す者や、スマホを覗き込む者、友達同士で小声の会話を続ける者に分かれていった。
少し遅れて司がようやく教室に到着し、息を荒らしながら机の上に大量の教科書を叩きつけて、音を立てながら椅子に体重を預けた。
「いやぁー重かった!そういえばこのプリントさ、時間になったら帰って大丈夫!って書いてあるし、さっさと帰って昼ご飯食べに行こうよ!」
司が呼吸を整えながらも身を乗り出してくる。
一番最後まで目を通したわけじゃないが、本当に今日、神崎先生は戻ってこないのか。……しかし、こいつと昼飯というのも、正直少し不安が残る。なんせ、朝一で大迷惑をかけた男だしな。
とはいえ、今は細かいことを言っている場合じゃない。
せいぜい2日間の関係である俺たちが深入りしてよい話なのかが分からないが、
話すべきことが、確かにある。
「まぁ、そうだな。時間もちょうどいいし、すぐ近くにファストフード店があったはずだ」
「あぁ、“あの交差点”を曲がったところにある店ね」
「そこだ。微妙に昼前だし、そこまで混んでないだろ。軽く話すにはちょうどいい」
「よっしゃ決定な! んじゃあ……今から何しようか」
「さぁな」
せっかく話題が出たというのに、会話は数十秒で途切れてしまった。
どちらからともなく口を閉じ、視線を逸らす。意識しているわけじゃないはずなのに、目線の先は自然と同じ方向へ向かっていた。
七瀬だ。
相変わらず友達と楽しげに話している。柔らかい表情、控えめな身振り、周囲に溶け込むような立ち振る舞い。
けれど――朝に見たものとは、やはり違う。
「七瀬さんもさ、学校での評価とか気にするタイプなのかな」
司が、俺にだけ聞こえるくらいの声で呟いた。
「……いや、まぁ、そうなのかもな。お前と違ってな」
「俺だって多少は気にするよ!」
俺は曖昧な返事しか返せなかった。
こいつは知らない。俺が、昨日の帰り道で見てしまった彼女のことを。
昨日の夜、彼女はあんな清楚な笑みを浮かべてはいなかった。声色も、仕草も、無垢な少女みたいなあの表情も――どれも、どこか作られたもののように思えてならない。いや、作られたものというのも違う気がする。
うまく言葉にはできない。だが、確信に近い違和感だけが胸に残っている。ただ、言葉にすることは憚られる。
七瀬には、きっと何かがある。今はこの言葉で結論付けることとした。
「まぁ、お前も言いたいことは山ほどあるだろうが、続きは飯食いながら気楽にな」
「それもそうだね」
珍しく司も空気を読み、意図的に話に区切りをつけた。
それきり会話は止まり、教室には再び曖昧な沈黙が落ちる。
窓際の席では、誰かがカーテンの端を指先でいじりながら外を眺めている。
廊下の向こうからは、別のクラスの笑い声が微かに聞こえた。
その曖昧な沈黙を、入学初期にしか起こりえない沈黙を今は噛み締めることにした。
――そして。
チャイムが、学校中に鳴り響いた。
救済みたいな音だった。
この音が鳴った瞬間だけは、空気の重さも、自己紹介のぎこちなさも、全部“今日の分”として封印できる。
俺たちはようやく、学校から解放されたのだ。
「よーし! 入学祝で食べに行くぞ!」
真っ先に立ち上がったのは司だった。椅子がガタンと派手に鳴る。こいつはこういうところで遠慮がない。遠慮がないというか、人生にブレーキという概念がない。
「ファストフードが祝いとか、ずいぶん悲しいやつだな」
「いいか奏斗、ファストフードを甘く見る奴は、いつかファストフードに泣くことになる……」
「何言ってんだお前」
教室にざわめきが戻るのと同時に、司もいつもの元気を取り戻したらしい。
さっきまでの“気を遣って黙ってた司”はどこへやら、訳の分からない格言めいたものを吐きながら鞄を肩にかける。周りでも、帰り支度の音が一斉に鳴りだした。ファスナー、机の脚の擦れる音、誰かの笑い声。教室がようやく“放課後の顔”になっていく。
「ほらほら、行くぞ。近くのハンバーガー屋。歩いてすぐ!」
「……まあ、腹は減ったけど、そんなに急ぐものでもないだろ」
口ではそう言ったのに、身体は勝手に立ち上がっていた。
入学直後って、何もしてないくせに妙に疲れる。こういう日は、考える前に腹を満たした方が早い。
その直後のことだった。
「お昼、食べに行くんですか?」
声が聞こえて、振り返った。
七瀬だった。
さっきまでの整った雰囲気のまま、でも少しだけ好奇心を混ぜた顔をしている。
こういうときの「一緒にいていいですか?」って、言う側も言われる側も地味に勇気がいるはずなのに、七瀬はそれを“普通の会話”みたいに言ってのける。
「そーだよ! 今からすぐ近くのハンバーガー食べに行くことになってね」
司がいつも通り、勢いだけで答える。
返事の速さが、思考の速さじゃなくて反射の速さだ。止める隙がない。
「ハンバーガー! 美味しいですよね。良ければご一緒してもいいですか?」
「もちろん構わないよ! ……あっ」
司が、急に動きを止めた。さっきまでの勢いが嘘みたいに、目だけが泳ぐ。
どうやら理解したらしい。“本人のいないところで七瀬のことを聞き出す”っていう、さっきまでの作戦が。たった今、自分の手で粉砕されたことに。
「どうかしましたか?」
「いや、あの……教科書、どうしようと思って!」
言い方がやけに大げさで、しかも一拍遅い。
――絶対、今思い出したんじゃない。というか、思い出したというより“言い訳が必要になったから捻り出した”顔だ。
俺は鞄を肩にかけながら、心の中でため息をついた。
司は俺にちらっと視線を送ってくる。
助け舟を期待する目。……知らん。
そんな司の挙動を、七瀬は一瞬きょとんとして見てから、すぐに柔らかく笑った。
そして、教室の後ろ、ロッカーが並ぶ方へ視線を向ける。まるで「そこに答えがありますよ」とでも言うみたいに。
「大丈夫ですよ。教科書は、教室の後ろのロッカーに入れれば」
「……! そ、そうだよな! ロッカー! うん! ロッカーに入れよ!」
司の返事だけが妙に元気で、逆に分かりやすい。
さっきまでの“祝いだ!”の勢いが、今度は“誤魔化し”に使われている。
こうなってしまえば本来の目的も、もうどうでもいい。
司が七瀬を連れて行く流れを作った時点で、俺らの計画は破綻している。本人のいないところで相談、なんて都合のいい時間が生まれるはずもない。
だったら、せめて腹を満たす。俺も入学祝とやらのハンバーガーを食べることにしよう。
「……行くぞ。さっさと荷物置いてこい」
「おっけー!」
「ふふ、お願いしますね」
三人で教室を出る。
廊下に出た瞬間、先ほどまで教室に満ち溢れていた閉鎖された空気は一変、春の暖かな日差しが差し、色鮮やかに感じられる光景が広がっているようだった。廊下の先では、同じように解放された生徒たちが小さな波みたいに動いている。笑い声、呼びかけ、足音が混ざり合って、校舎全体が一気に“放課後”へ切り替わっていく。
俺は一歩、二歩と歩きながら、横に並ぶ二人をちらっと見る。
司はいつもの調子を取り戻していて、七瀬はそれに合わせるように少しだけ歩幅を変えつつお互いに会話を重ねている。
――今からの昼食は、どうなることか。
あまりに忙しく、暇を見つけてはチマチマと書き進めようやく投稿...!
ここからはペース上げて書かせていただきます!




