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風の中

「本当に行くのかよ」

「んだよ、減るもんじゃねえしいいじゃねえか。昼休みまだ結構残ってるし、今ならほかに誰もいないだろ」

 天窓から差し込む光に、僕は一瞬だけよろめく。薄禿げたタイル張りの階段を一段ずつ上がっていくと、徐々に廊下に広がる蒸した空気が抜けて、ワインセラーみたいな冷気が壁から伝わってきた。僕を屋上に連れ出そうとする隼人は、自慢の太い腕で僕の枝みたいな手首を握って、ぐいぐいと引っ張る。

「学校で話題になってることなら、見といて損はねえよ」

 背中から僕を押す誠二は、相変わらずの引っかかったような声で、広い手のひらを汗ばんだ僕の背中に押し付ける。身長差も考えると、板挟み状態の僕には抵抗の余地すらない。

「大体、あんなの見て何になるんだよ。結局毎度の悪乗りだろ?」

「まあな」「それ以外に何が?」

 二人の重なった声に、僕は嘆息する。肩の力をがっくりと落とすと、足を思わず階段から踏み外して、誠二の方へ落ちてしまいそうになった。

「おい、気を付けろよ!」

「悪い悪い」

 苦笑いを浮かべた誠二は、僕の薄っぺらい背中を押して、屋上前の翡翠色の扉の前に僕を立たせた。僕は一息つくと、塗装が剥げ、錆びだらけになっている錠前を弄り始めた隼人の背中を見据えた。制服のズボンから取り出した針金とも思える金属の紐を取り出して、鍵穴をがちゃがちゃと弄っている。これじゃ僕らが泥棒か何かみたいだ。

「そんなので開くの?」

 僕はからかい口調で言った。

「らしいよ。結構古いやつだから、案外つけてる意味もよく分からないような型なんだと……おっと、開いたか」

 がちゃん、と鈍い音を立てた南京錠が、造形物のような隼人の手から落ち、扉の前に倒れる。扉の両サイド同士を慎重に開く隼人と誠二の背中を見ていると、金属がすれ合う音が一帯に響いてくると同時に、光が漏れこんできた。光の先には、国道四号線の方から聞こえてくる大型トラックの滑走音と、少しずつ声を上げてきたアブラゼミの合唱だった。微かな青白さを帯びたかのような初夏の日差しは、扉が開くと同時に僕らのことを包み込み始める。空の果てから吹いてくるかのような、透き通った風が気持ちいい。

 世間はもう、夏だ。


 中学最後の大会が終わっても、怠惰のすきを見逃さないのが日本の教育制度なのだと、十五歳を目前にした夏に悟った。少しずつ客観的なものの見方ができてきたな、と親に言われてきたころには、もう進路選択を本格的に決めなければならない季節になっていた。今まで部活一本で学校生活を考えてきたから、骨格から引退してしまうと正直困るところもある。勉強なんてほとんどしていなかったから、成績だって中のあたりを彷徨しているし、とりわけ行きたい学校なんてものもない。

「じゃあK高行こうよ。坂城君も赤松君もあたしもそのあたり目つけてるから、また同じ面子で生活できるよ?」

 放課後の教室で、空欄の状態の進路希望調査とにらめっこしていた僕が呻っていると、麻由はそんなことを言って僕の前の机に腰を付けた。ショートカットヘアが恐ろしく似合う彼女は、部活を引退した後に少しだけ伸びた髪をおさげにしてまとめている。スクールバッグからペットボトルのカルピスを取り出した彼女は、僕の視線を気遣うこともなく、のどを鳴らした。

「学校じゃそれ飲むの禁止だろ」

「そんな固いこと言わなくてもいいじゃなーい。あ、耀介も飲む?」

「いいよ別に」

「あ、関節キスになるって気になってる? 別に小学校のころからずっと遊んできた仲だし気にすることないじゃん」

 口を窄めた彼女から目を逸らして、僕はシャーペンを二、三回回した。空に流れる天の川を思わせるようなカーテンが風にたなびいて、蒸し暑い教室を中和してくれる。居心地がいいのも理由なのか、一向にペンは進まない。

「えーい、耀介もK高行こうよ」

「うちは親がうるさいんだよ。俺が対して勉強しないの知ってるくせにそこそこの高校入れようとするから」

「まるであたしたちが馬鹿みたいじゃない!」そうですけど何か?

「いつまでたっても子供じゃないの、いいよ、耀介も一緒に行く!」

「あ、こら」

 麻由は僕のシャーペンをひったくり、「K高」と殴り書いた。カルピスをタオルにくるみ、カバンに放り込んだ麻由は、机の上から紙をすくい上げ、スカートをひるがえす。不満顔の僕に無邪気に笑いかけて、「行こうよ」と促してきた。

「麻由はさ、いつも楽しそうだね」

「それ皮肉? だって楽しくしてなかったら人生損するじゃない」

 まあそうなんだけど、と僕はつぶやくと、エナメルバッグを持ち上げて、椅子を机に押し込んだ。教室の施錠を確認して、窓が開きっぱなしになった廊下に上履きの音を鳴らして歩いていると、何か思い立ったように並列してあるいている麻由が顔を覗き込んでくる。

「退屈なら、もう少し学校の噂とかに首突っ込んだら?」

「噂?」

「ほら、屋上に誰も知らない女子生徒が出るって噂だよ。魔女みたいな格好してるから、一部の人は『魔女』って蔑称してるみたいだけど」

 思わせぶりな表情を浮かべた麻由は、僕の肩を叩いて、にんまりと頬を持ち上げる。意外と麻由は裏で何かを考えるようなやつなので、今回もどんな策略に巻き込まれるか分からない。上手い話だと思って付き合ってみたら麻由の家の仕事を手伝わされたり、成績のことで情報を聞いてみれば逆に僕をうまく利用してテスト問題を聞き出そうとしたようなやつだ、油断はならない。

 僕はふうと息をついて、麻由から視線を背けたまま、平坦な物言いで言った。

「なんか企んでる?」

「むむ、鋭いね」

 わかってるくせに、とつぶやいてみると、麻由は口調して髪先をねじった。

「その子、あたしの中一の時のクラスメイトなんだよ」

「……それって『誰も知らない』じゃないだろ?」

「いろいろあったんだよ」

 妙に強い口調の麻由に僕は気圧される。けれど麻由は、薄く笑う表情を崩さずに、つぶやき気味に言った。

「だから、耀介がその子と知り合えば、何か変わるかもって思っただけ」

 その時僕はなぜか、「なんで僕が」と反駁することはできなかった。後になっても理由は分からない。麻由の神妙な表情を気遣ったのかもしれないし、本当に興味が心の中に一ミリでもあったのかもしれない。もしくは、その「魔女」と呼ばれた子に興味があったのかもしれない。

 帰りがけに進路希望調査を提出して、昇降口を出た。六月下旬にもなるともう日が長く、六時を回った今でもまだ空は明るい。

 そのとき、遠くの方で空砲が鳴った。僕と麻由はほぼ同時に、駅の方からなる音に目を向ける。麻由がその時、笑顔を浮かべて言ってきた。

「今年の夏は、面白くしたいね」

 中学三年の思い出になればいいな。そんな感慨深い言葉が、現実になることに知るのは、ほんの一か月後だった。


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