サイン会でサイン会
とあるコンサートに行った時サイン会があり、その列に並んでいる時に思いついた物語です♫
新人賞を受賞して作家デビューして丸十年が経った。保田は四十代後半でデビューした遅咲きの作家だ。
昔から文章を書くことや読書が好きだった。書評家の真似をして、自分が読んだ本について感想や意見を書いた読書ノートなるものを作っていた時期もある。
しかし、作家という夢は現実の保田には程遠いところにある気がして、大学卒業後は一般企業に就職した。それでもやはり読書と書くことからは離れられなかった。
ある休日、ネットを見ていると、とある出版社の新人賞募集の案内を見つけた。それを見た瞬間、保田は雷に打たれたように「書きたい!」と思った。
時間が有り余るほどあった大学時代に書いた作品を思い出した。どうしても書いてみたいテーマがあって夏休みの丸々二か月を使って書き上げた作品だ。
押入れをガサゴソし、一番奥にあった取説やイベントの冊子や街の広報誌などの書類が入っているダンボールの一番底にそれはあった。
原稿用紙の四隅は折れ、それ自体くたっとしていた。そりゃそうだと保田は思う。二十年年以上、押入れの奥底で眠っていたのだから。保田は原稿用紙の表面を撫でる。そのまま一枚めくり、大学二年生の自分が書いた作品を読んだ。
青二才の自分が書いた文章は説得力に欠ける部分があるものの、若さゆえの真っ直ぐさ熱量に溢れていた。そして、思っていたよりも面白かった。
年齢を重ねて見えてきた部分を盛り込めば、それなりに面白い作品になるのではないか。その日から安田は休日はパソコンに向かい、パチパチと文字を打ち込んだ。そして、半年後。作品は完成した。
以前、見つけていた、とある出版社の新人賞募集の締切期日ぎりぎり間に合い、保田は達成感と高揚感とともに作品を出版社に送ったのだった。
結果、保田の作品は新人賞を受賞した。出版社から電話がかかってきた時は、全身ががくがく震えた。保田は作家としてデビューを果たした。それと同時に会社を辞めた。一つのことにしか集中できない保田に兼業作家は到底無理だった。
デビューして五冊本を出すことができれば、作家としてやっていけると何かで読んだことがある。保田は遅筆だったが、その五冊を目指してひたすら書いた。
そして、その目標を達成した。とはいえベストセラーが生まれた訳ではないし、大きな文学賞の候補作品に選ばれたこともない。でも、コアな一定のファンがいてくれることで、何とか食べていけた。
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家にこもってひたすらパソコンに向かっている保田には唯一の趣味があった。それは音楽鑑賞だ。初めはクラシックが好きだったのだが、最近はジャズにはまっている。
一日の仕事を終え、深緑色の一人用ソファーに腰を下ろし、お酒は飲めないのでウィスキーに見える麦茶をグラスに注ぎ、ジャズを聴く。保田にとってそれは毎日の楽しみだった。その時間があるから執筆ができたと言っても過言ではない。
いろいろなジャズを聴くうちに、一人のピアニストと出会った。彼の母親もピアニストとして有名だった。彼は安田より十歳近く年上だった。彼のインタビュー動画を見たことがあったのだが、保田は彼の音楽に対する実直さと、ユーモア溢れる人柄に惹かれた。
自分も彼のような実直さを持って、小説に向き合いたいと思った。それ以来、保田はいつか彼のピアノを生で聴いてみたいと思っていた。
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資料の書籍を探すために図書館を訪れていた時のことだった。図書館入ってすぐの新聞エリアの向かいの壁には、様々な催しもののリーフレットが置かれている。いつもは気にせず通り過ぎるのに、その日、保田の目の端に赤色が飛び込んできて足を止めたのだった。
【唯一無二のピアニストが帰ってくる!】
赤色のリーフレットには、銀色の文字が踊っていた。そして文字の下には彼がピアノに手を置き微笑む写真が載っていた。
保田は息を飲む。――神様のお導きだ。
保田はリーフレットを持ち帰り、書籍より先に隅々まで目を通した。コンサートは二か月後の日曜日。場所は保田が住むマンションから三十分もあれば行ける。早速、ネットでチケットを購入した。
コンサート当日を迎えた。
開場時間ちょうどにホールにつくと、そこには老若男女が大勢集まっていた。これだけの人が彼のピアノを聴きたいと思って、今、ここに集まっている。いや、全国にファンはいるはずで彼のピアノを聴きたいと思っているひとは何万人といるのだろう。
その中の一人として自分がいるのだ、と思うと鳥肌が立った。
保田は彼のCDを購入したいと思っていた。ホールに入る手前のロビーの片隅でCD販売をしているのを見つけた。ラッキーなことに誰もいない。保田はにんまりしながら、ゆっくりとCDを選び一枚購入した。
女性の販売員に「これを」と手渡すと販売員は驚くべきことを教えてくれた。
「本日、急遽CDお買い上げの方にサイン会を開催することになりましたので、よろしければコンサートの後、ロビーでお待ち下さい」
「あぁ、そうなんですね」
保田は何でもないという風に言ったけれど、心の中では狂喜乱舞していた。コンサート前から興奮したままチケットに書かれた席に座った。
*
ピアニストの演奏は実に素晴らしかった。
彼の手がピアノの音を掬い上げ、弦に乗せているかのような、透明な水滴を思わせる音色だった。出身地でのコンサートということもあり、演奏の合間にちょっとしたトークもあった。
「普段はこんなことしないんだけどね」
と彼は笑いながら言っていた。特別な場所でコンサートを聴けたと保田は思った。二時間なんてあっという間だった。コンサートが終わりロビーに出ると、係員がサイン会の案内をしていた。
保田はその列に並ぶ。その後も続々と列は伸びていき、ロビーを抜け二階に続く階段をも埋め尽くしていた。しばらくすると拍手が聞こえた。
ピアニストが登場したのだろう。保田の位置からは残念ながら彼の姿は確認できなかった。列が進み始める。彼は目の前の一人一人と一言、二言朗らかに言葉を交わしながらCDにサインをしている。保田は緊張してきた。
そして、いよいよ保田の順番が来た。
おずおずとCDを差し出しながら、言おうと決めていた言葉を発した。
「今日はありがとうございました。僕は小説家なんですが、原稿を書く時いつもBGMにさせてもらってます」
保田の言葉を聞いて、彼はにこやかな笑顔を向けた。
「あなた小説家なの? ちなみに筆名は?」
保田が筆名を告げると、彼はみるみる驚いた表情になり、次の瞬間には歓喜を叫ばんばかりの表情になった。その表情の代わりように保田は驚いた。小説家といったってベストセラーも受賞経験もない。
「〝一日が二十七時間あったなら〟の人だよね? 僕、あの作品大好きでいつも持ち歩いてるよ! 今日も!」
「えぇっ!!」
腰を抜かしそうになっている保田の前で彼は「僕の荷物の中から本取ってきて! サインもらいたいから!」とスタッフかマネージャーらしき人に行っている。
……なんか……なんか……すごいことになっている。
保田に会えたのがよほど嬉しかったのか、彼はその場で立ち上がり
「みなさん! この人すごいよ! 小説家! 僕の好きな作品書いた人!」
と叫んだ。
*
彼の叫び声に、周りが何か知らんが作家がいるらしいという騒然とした雰囲気が漂う。
スタッフかマネージャーが持ってきた本を受け取った彼は「ここにサインもらえますか?」と保田に聞いた。
「も、もちろんです」と答えたものの、保田はサインなんてしたことがなかった。だから、ただの記名になった。それでも彼はとても喜んでくれた。
「僕の隣で、あなたのサイン会もしよう! 椅子とペン持ってきて!」
彼はまたしてもスタッフかマネージャーだかに指示を出す。え? え? とまごまごしているうちに準備が整い、保田は彼の隣で人生初のサイン会をすることになった。
有名作家でもない自分のサインなんて欲しがる人いないんじゃ……と居心地の悪さを感じたが、それは杞憂だった。
地域がら「何かわからへんけど、すごい人おるみたいやから、ついでにサインもろとこ」という人々ばかりで、ピアニスト彼の後で保田にもサインを求める人がほとんどだった。
「今度、本屋行ったら作品さがしてみます」なんて言ってくれる人もいた。
人生初のサイン会が書店ではなくコンサートホールになるとは……
二時間ほどかけてサイン会は終了した。彼はペンのキャップを閉めると、保田の方に体を向けて聞いた。
「そろそろ新作出る? 楽しみにしているよ」
保田は武者震いした。憧れの人が自分の新作を待ってくれている。
「楽しい話、書きます!」
宣言するように言うと、彼は握手を求めてきた。保田はその手を握る。彼はこの手で音を生み出す。保田はこの手で文章を生み出す。
帰宅したらすぐパソコンを立ち上げよう。
保田はそう思いながら彼の手を握る指に力を込めた。
読んでいただき、ありがとうございました。