悪夢が覚めて
咲鳥はハッとして目を覚ます。
「咲鳥! 大丈夫か!」
すぐそこに、樹と朝陽の顔があった。
「っ!」
夢で見た化け物の冷たい目を思い出し、樹の支えを退ける。
「はっ、はぁっ……」
鼓動の音が耳奥に響いてくるほど、心臓が高鳴っていた。冷や汗を全身にかいており、体も気分も気持ちが悪い。
「とにかく、ゆっくり呼吸しろって」
朝陽の誘導に従い、深い呼吸を繰り返していく。そのうち気持ちも落ち着いていき、頭が冷静になっていった。ようやく、自分に何が起きたのかを理解する。
「わたし、どれぐらい気絶していたの?」
樹は腕時計を確認する。
「十分くらいかな。だいぶうなされているようだったけど、発作だったりする? 一応、咲鳥のお兄さんには連絡したんだけど」
「いや、大丈夫。発作じゃないよ」
周りを見ると、第三校舎の書庫の前の廊下だった。教室の扉を開ける寸前までは現実だったようだ。
「真里先輩に憑いていた女の霊の、生前の記憶を見ていたみたい。本人とリンクしすぎたせいで、うなされたんだと思う。あの女の霊が亡くなる直前のことがわかったよ。どんな風に彼女が死んだのかね……」
朝陽は膝をつく。視線を咲鳥に合わせると、親身な様子で問いかけた。
「そんなことより、本当に大丈夫なのか。顔色悪いけど……」
温度のある朝陽の目を見て、元の世界に帰ってきたのだと実感する。咲鳥はようやく、強張っていた体の力を抜いた。
「すぐに回復するから大丈夫だよ」
「おれ、そういうのよく分かんないけどさ、とにかくすげぇ精神に悪そう」
「まぁ、良い気分ではないかな」
樹の手を借りながら立ち上がる。咲鳥は、夢で見た内容を樹と朝陽に伝えた。
女の霊が西鶴高等学校の生徒であったこと。女の霊は、第三校舎で本を探していたこと。その本は呪いに関して書かれた本であり、おそらくそれが原因で、女の霊は不幸な死に方をしたこと。
朝陽はすぐには理解できていないようだったが、樹は咲鳥の話を慣れたものだと聞いていた。
「なるほど。その呪いの本が、女の霊の死と関係しているわけか。B級映画なみの陳腐さはあるけど、そんな死に方をすれば化けで出るわけだ」
樹は呪いの本という存在に食いついているようだった。朝陽はうなずきながら、冗談かどうなのか分からない様子で言う。
「最近は呪いもネットで調べる時代だしな。本で調べただけ風情はあるんじゃね」
咲鳥は緊張感のない二人にため息をつく。
「本当に危ないこともあるんだからね。実際に女性の霊はその本が原因で死んでいるんだよ。それに、その女性の霊は私たちの学校の生徒だった」
夢の中にいて、それが夢だと気づけなかった理由はここにある。視点を共有していた女子生徒の制服が、咲鳥の制服と同じだったのだ。女の霊は西鶴の生徒で、しかも、死んだ理由も学校にあった。
「そう怒るなって。あくまで記事映えするかどうかの話だろ」
樹は書庫の扉を開ける。目に飛び込んでくるのは大量の本の山だった。夢と雰囲気が違うと感じるのは、夢で見た夕暮れの明るさがないせいだろう。スマホのライトの光の中でホコリが舞い、薄暗い部屋は辛気臭かった。
部屋をじっくり見わたし、ここが夢でいた場所だと確信する。夢で見つけた足場を通り、咲鳥は本棚に手を伸ばした。数冊の本をとり、その奥を確かめる。案の定、夢で見た本がそのままの位置で横たわっていた。
「これが神和の言っていた本か」
朝陽が咲鳥の手元にライトを近づける。
「題名がないじゃん。マジで本物なの?」
「夢で見た本はこの本だと思う。生きていたころの女子生徒の霊が、この本を探していたのは間違いよ。私をこの本まで導いたのもね」
なぜ女の霊が第三校舎に来た生徒に付きまとったのか、その理由はこの本にあったのだ。第三校舎にあるこの本の存在を誰かに知らせたかったのだろう。
樹は本の写真を何枚かとってから、確かめるように言った。
「探していたって言うけど、その女子生徒はもともとこの本のことを知っていたのか?」
「うん、そうなるんじゃないかな」
「つまり、死んだ女子生徒には呪いたい相手がいたってことか」
横にいる樹を見る。沈黙して、咲鳥は口を開く。
「そうなるね」
本を開き、夢と同じように数ページをめくった。内容はよくあるようなものだった。
道具は何を用意するだとか、どのような手順で儀式を行うだとか。そうして、いくつかの手段が記されている。これが本物だと分かったのは、咲鳥にその手の知識と直感があったからだった。
「おそらく、亡くなった女子生徒は誰かを呪ったんだと思う。人を呪わば穴二つと言うけど、最後はそういうことだったんだろうね。女子生徒は、お風呂場で上半身を湯船につけて溺死したはずだけど、自殺でも事故でもなかった。悪意を持った何か……あれは悪霊って言うのかな。そういう存在に、女子生徒は湯船に引きずり込まれて殺された」
風呂場でのことを思い出し、心苦しくなった。女の霊が裸だったのも、その姿が濡れていたのも、最後があのような悲惨なものだったからだろう。
「神和の話って、マジで夢みたいだよな。時系列がバラバラだったり、化け物が出てきたり。なんか、現実感がわかなくて不気味っていうか。ここは一つ、怖くなくなるようなこと言ってよ」
朝陽は茶化すように咲鳥に言った。朝陽なりに場の雰囲気を明るくしようとしたのだ。それに気づくはずもない咲鳥は真面目に答えた。
「時間帯や天気、季節が変わっていたから、時系列はたしかにバラバラだったと思う。制服も夏服から冬服になっていたしね。たぶん私が見た夢は、女子生徒が本を手に入れて、呪いを行って、死ぬまでの走馬灯のようなものだったんじゃないかな」
朝陽はガクリと肩を落とす。
「考察じゃなくて、もっと優しい言葉をかけてってこと。朝陽くんに害はないよ、とかさ。一応おれ、女の霊に憑りつかれかけたんだぜ? 幽霊とか、俺じゃ対処できないんだからさ」
難しい依頼だと思いながら、咲鳥はその希望に応えた。
「朝陽くんに害はないよ」
あまりにも淡々とした言い方だったせいか、朝陽は咲鳥の言葉に納得していないようだった。
「……気休めにしか聞こえないんだけど」
「そんなことないよ。朝陽くんに害はない。私と一緒にいればね」
「ああ、黒田じゃダメなんだ」
「駄目じゃないよ。気休めにはなるんじゃないかな」
「お前も容赦ないな……」
すると、樹が注目を集めるようにスマホのライトを咲鳥と朝陽にあてた。朝陽はとっさに目元を手で隠す。
「うわっ、眩しっ」
「咲鳥」
樹は朝陽を気にすることなく咲鳥の名前を呼ぶ。
「その女子生徒の名前はわかる?」
そう問われて、夢で見た情景を振り返る。そして、カバンを探っているときに、女子生徒のノートを見たことを思い出す。そこには、女子生徒の名前が書かれていたはずだ。
「たしか、増岡令奈、だったかな」
下の名前はうろ覚えだが、家の表札が増岡だったので苗字は間違いないはずだ。
「そうか……」
樹は深々とした声でつぶやく。おもむろに手帳を取り出し、あるページを開くとそれを咲鳥に見せた。
そこには、知らない三人の名前が書かれている。そして、その名前の一つが、「増岡令奈」だった。
咲鳥は弾かれたように顔をあげる。
「これは、どういうこと?」
「自殺か事故死か、去年に亡くなった三人の生徒の、ご遺族に会いに行ったって話しただろ」
「そういえば、そんなことも言ってたな。えっ、ていうか、そういうこと?」
朝陽の言葉を肯定するように樹はうなずく。そして、静かに告げた。
「その中の一つが、増岡令奈さんのご両親だった」
混乱しながらも、咲鳥は今までの情報を頭の中を整理する。不自然な死に方をした三人の生徒、その一人が増岡令奈。真里が目撃した女の霊であり、夢で見た女子生徒。
「咲鳥が夢で見た少女の死に方を聞いたとき、ゾっとしたよ。なにせ、増岡令奈は、浴槽で溺死していたんだから」
咲鳥は言葉を失った。
「おいおい、マジかよ……」
さすがの朝陽も、これには言葉が見つからないようだった。咲鳥は次の可能性に思考を巡らせる。
樹の話が本当なら、樹が調べた三人の生徒の死が、夢で見たあの本と、繋がっているのではないだろうか。三人の不可解な死には「呪いの本」という共通点があったとしたら。
そこまで考えて、咲鳥は樹を見る。樹もまた咲鳥を見て口を開いた。
「もしかしたら、不自然な死に方をした三人の生徒は、この本で呪いを試したんじゃないか。どうしても、残りの二人がこの本と無関係には思えないんだ」
記者の勘というのもあるのだろう。樹は確信しているように見えた。朝陽は樹の手帳をのぞき込み、改めた様子で言う。
「もっと三人の生徒のことを調べてみる価値はありそうじゃん」
樹は眼鏡をかけなおすと、手帳をしまう。そして、右の手のひらを上に向けた。
「とりあえず咲鳥、その本をいったん僕に預けてくれないか?」
「どうして?」
まさか試すつもりじゃないかと樹を疑って見ると、咲鳥の思っていることが伝わったのか、樹は慌てて説明を加えた。
「調査をするのに参考にしたいだけで、試したりしないよ」
「何の参考にするの?」
「この本に見覚えがないか、聞くことができるだろ」
咲鳥は悩んだ末、長い間柄の樹を信用することにした。
「わかった」
咲鳥は樹に本を渡す。樹は頬を緩ませ、いきいきと本に手を伸ばす。
「助かるよ!」
樹が本を受け取ったところで、咲鳥は手に力を込める。本は樹と咲鳥に握られた状態になった。
「悪用したら、それ相応の対応をするから」
そう念を押すと、樹は頬を引きつらせる。
「わ、わかっているって。約束するよ、三日後、必ず咲鳥に返す」
咲鳥はまだ手を離さない。
「問題も起こさない!」
ここでようやく咲鳥の手が離れた。樹はホッと息を吐く。
「調べてくれるのはありがたいからね。三日後の報告を待ってるよ」
「も、もちろんだよ」
樹は本をバッグにしまう。こうして、三人は校舎を出た。
朝陽は第三校舎を見上げて、腕を頭の後ろに組む。
「それにしても、なんで学校に呪いの本なんかがあるんだよ」
「さぁ、それが一番の謎かもしれないな。先生の趣味で置かれた本なのか。はたまた、昔だれかが個人で所有していた呪いの本が、置き忘れられてあそこに放置されただけなのか」
朝陽は腕を降ろして、第三校舎に背を向ける。
「どちらにせよ、ろくな話じゃないな。それでうちの生徒が、少なくとも一人は死んでいるんだからさ」
見上げた第三校舎は、大きな生き物のようだった。そして、闇に誘い込むように手を招いている。
窓には、いくつもの白い影が浮かび上がっていた。自分にしか見えない彼らに、咲鳥はかるく頭を下げる。もう少しだけ、第三校舎の番人たちはこの場所で生徒たちを見下ろし続けるのだろう。
「咲鳥さん!」
澄んだ夜の空気に、親しい声が聞こえてくる。校門の方を見ると、少し離れたところに兄の姿があった。
ひどく慌てた様子でこちらに駆けよると、兄の神和凛斗は乱れた息を整えるのも後に、咲鳥の腕を掴んだ。
「倒れたと聞きました。大丈夫ですか」
凛斗の呼吸が落ち着くまで、咲鳥は無言で凛斗の瞳を見つめる。そのあいだ凛斗は、不安そうに瞳を揺らす。
「大丈夫だよ。眩暈がしてクラついただけで、倒れたなんて大げさなことはないの。心配をかけてごめんなさい」
「そう、ですか」
凛斗は咲鳥の腕から手を放し、額から流れる汗をぬぐった。ここまで、そうとう急いで来たらしかった。
「よかった、よかったです。咲鳥さんに何かあったのではないかと、気が気じゃなかったですから」
安堵したと全身で伝えるように凛斗は言った。目を細めると、凛斗は咲鳥の姿を頭からつま先まで確かめる。どこも悪くなさそうだと判断したようで、次に樹と朝陽に視線を向ける。
「こんな時間まで、何をしていたのか聞かせてもらっても?」
丁寧な口調だが、どこか威圧的な声だった。樹と朝陽を見る目も、咲鳥へのものとは違い、排他的な意味を含んでいる。
「あれ、えっと、神和のお兄さんが来るって……」
朝陽が控えめに聞く。慌てて樹が、朝陽に肘を当てた。
「バカ! この人が咲鳥のお兄さんだよ」
「えっ!」
驚いた声が自分で思っていたよりも大きかったらしく、朝陽は口を抑える。そして、ぺこりと頭を下げた。
「いやぁ、すみません。その、妹に敬語なのが珍しくて、気づきませんでした」
凛斗は何も言わず、回答になっていないと言うように朝陽を見るだけだ。樹はすかさずお得意の言い訳を始めた。
「新聞部の作業を二人に手伝ってもらっていたんです。そうしたらこんな時間になってしまいました。咲鳥の体調をもっと考えるべきでした」
どうやら樹は本のことは秘密にしておくらしかった。説明しづらい内容であるのもそうだが、凛斗がこのことを知れば、咲鳥の協力を止めに入るのが目に見えていたからなのもあるだろう。
「咲鳥さんは新聞部じゃないですよね?」
凛斗が咲鳥に聞く。
「うん、そうだね」
凛斗は問い詰めるようにまた樹に質問する。
「作業と言ったけど、具体的にはどんなことを?」
「文字起こしです」
「それにしては、時間がかかっているような気もするけど」
「雑談を挟んでいたので、作業効率は悪かったかもしれません」
「文字起こしぐらいなら、咲鳥さん以外に頼めたんじゃないか」
「そうですね……今度からは別の友人に手伝ってもらいます」
尋問の時間は終わったが、凛斗はまだ納得がいっていないようだった。凛斗が訝しげに樹を見る。樹も、負けじと目線を逸らさなかった。
「本当は、別のことをしていたんじゃないのか」
核心をついた言葉に、樹はうしろで結んでいる手を閉じたり開いたりした。
「文字起こしの作業は本当なんです、ただ、少しだけ第三校舎にも行きました。必要な資料が第三校舎にあると先生から聞いたので、咲鳥に付きそってもらったんです。すみません、たいしたことではなかったので、伝え忘れていました」
凛斗は、隣に建っている、くたびれた木づくりが第三校舎と直感したらしく、咲鳥にも抗議の視線を投げた。
「第三校舎って、この校舎ですか」
「そうだよ」
嘘をついても仕方がないと、咲鳥は素直に答える。
「この場所なら、先生の同行が必要でしょう。先生がいたなら、咲鳥さんが行く必要はなかったのではないですか」
実際には忍び込んだため、先生の同行などない。咲鳥も樹に合わせて嘘をついた。
「私が行くって言ったの。文字起こしも、私に手伝わせてほしいって無理を言っただけ。樹くんは私の我儘を聞いてくれただけだよ。帰るのが遅くなったのも、眩暈を起こしたのも、私の見通しが甘かったせいだから、本当にごめんなさい」
樹をかばう態度が気に食わなかったのか、やはり凛斗の表情は険しかった。凛斗は眉を寄せるが、すぐに顔をすます。
「いえ、咲鳥さんの選択なら、それでいいんです。咲鳥さんが謝ることは何もありません」
朝陽は話を聞きながら、落ち着きなく体を揺らしていた。そして、自分が話せるタイミングをうかがって口をひらく。
「俺が言うのもあれですけど、もう帰りませんか。けっこう暗くなりましたし」
凛斗も長居するつもりはなかったようで、咲鳥のカバンを受け取ると、帰りましょうと言って、急かすように咲鳥の背中に手を添えた。そして、釘を刺すように樹と朝陽を一瞥し背を向ける。
「気を付けて帰ってね」
咲鳥は二人に手を振って、凛斗と共に帰路についた。