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さとり  作者: 紫木さくま
4/18

被害者M

 咲鳥たちの通う西鶴高等学校は、県内でも有名なマンモス校だ。生徒人数は約千五百人をほこり、一学年で五百人を超える。

それだけ生徒がいれば、顔も分からない同級生の方が、知っている生徒の数よりも多いのは普通のことだ。

千五百もの人間が活動する学校は一つの生き物のようで、生徒の一人一人は、酸素を運ぶ赤血球のようなものだ。

つまるところ、誰が何をしようと、人間が赤血球の働きを知る由がないように、生徒たちの行動が極端な注目を浴びることはほとんどない。盗みを働いた生徒がいたとしても、人気のあの子が援助交際をしていたとしても、その噂は大海に落ちる一滴の赤と同じように、人という大海原の情報の中に消えていくだけだ。

 真里から相談を受けて四日がたった。樹は、膨大な生徒を抱える石の砦から、事件や事故で死亡した生徒がいるかどうか、十年前から現在までの情報を集めてきた。

十年前ともなれば、生徒はもちろん、先生すら当時の人はほとんどいないだろう。

たとえ情報を持っている人がいたとしても、生徒はもちろん、学校側が生徒の身に起こった事件や事故を教えてくれるとも考えにくい。必要とする情報の一つを手に入れるだけでも、途方もない作業だっただろう。

どのように調べたのかは分からないが、樹のフットワークの軽さと迅速な情報収集力には、趣味の領域を超えたものを感じる。咲鳥は樹の話を聞きながら、内容よりもその行動力に感心していた。

「結論を言いますと、年に一人、生徒が死ぬという噂は嘘ということです」

 真里は部活終わりのポニーテールを揺らす。安心と関心が真里の顔に浮かんでいた。

「すごいね黒田くん。正直、ここまでしてくれるとは思わなかった」

 樹の調べでは、一年に一人生徒が死んでいるという事実はなかったそうだ。つまり、真里が噂どおりに死ぬということは無い。女の霊と噂の関連性はなかったということだ。

 真里はうわさが嘘だと聞いて、ほっと胸をなでおろした。そんな真里の様子を見て、樹は少し考えるそぶりを見せる。口元に人差し指をあてて、一拍おかせてから再び話し出した。

「ただ、気になることがあります」

「気になることって?」

 すかさず朝陽が聞く。樹は、朝陽、真里、咲鳥と視線を移した。

「去年の話になりますが、一年間で、自殺した生徒が三人いるんです」

「一年で三人も?」

 真里は口元に手を当てて驚いた。

「変な話ですよね」

「でも、そんな話し聞いたことがないけど」

 真里が言って、咲鳥もうなずく。噂に疎いところがあるが、生徒の自殺ともなれば咲鳥の耳に入りそうなものだ。

「一年という短期間で三人も自殺者を出せば、かなりの醜聞でしょう。学校側も大事にしたりしませんよ」

 それもその通りだ。いくらマンモス校で生徒が多いと言っても、三人も自殺者を出せばただ事では済まされない。学校側はできるだけ静かに問題を取り扱うだろう。しかし、それにしても、そんなことが起これば噂になりそうなものだが。

 樹は、そんな咲鳥の疑問に答えるように言った。

「それに、自殺というには奇妙な死に方をしたらしいんです。それで、自殺ではなく、事故ということになっています。事故なら、自殺ほど学校側の責任も問われませんから、生徒たちの口を抑制することも難しくないでしょう」

 話を途中に、朝陽が疑問を投げかける。

「それじゃ、どうして黒田は自殺だって言い切ったわけ?」

「ご遺族の方に聞きに行ったんだよ」

 樹は即答する。そこまで手が回っているのかと、咲鳥は驚いた。

「え、それじゃあ、学校側が自殺を隠ぺいしたってこと?」

 真里が小さな声で言う。

「どうでしょう。隠ぺい、とは言い切れないのかもしれません」

 少し、妙な話しでしたから。と樹は続ける。

「遺族の方は自殺だと言っていましたが、亡くなった生徒は遺書も書いていなければ、死に方も奇妙だったらしいんです。ご家族の方の気持ちを尊重して自殺と言いましたが、僕もこの三件は事故だと思っています。それぐらい不自然な点が多かったですから。まぁ、その不自然な死に方まで根掘り葉掘りと聞けるほど、僕の神経は図太くありませんでしたけどね」

「……十分、じゃないかな」

 十分に図々しいと言おうとして、やめておいた。咲鳥は、樹の仕事ぶりに感心してねぎらいの言葉をかけた。

真里は、ひとつ、ふたつと瞬きをする。何でもないその動作に、悲惨な事件に対する同情が見えた。咲鳥は真里の心労をおもい、できるだけ明るい声で伝えた。

「この話は気になるところだと思いますが、相談内容とは関係ありません。そんなことより、真里先輩が見た霊のことですが、真里先輩に危害をおよぼす存在ではありませんでした」

 真里が咲鳥を見る。

「もしかして、霊媒師の人に聞いてくれたの?」

「はい。うわさも嘘でしたし、女性の霊が安全だということもハッキリしました。明日までに、女の霊も消えていることでしょう。すべて、解決したんです」

 真里は複雑な表情を浮かべる。

「そう、なるのかな?」

「ええ、何も気にすることはありません。三人の生徒については、成仏できるよう、霊媒師の方に祈願を頼んでおきます」

 真里は残った不安を払拭するように笑みを浮かべた。

「それなら、安心だね。ありがとう、みんなに相談できてよかった。実は、相談した日から女の霊の影を感じなくなっていたんだ。その時点で、ほとんど悩みは解決したようなものだったんだけどね。本当にありがとう」

 真里は立ち上がり、深々と頭を下げる。

「いえ、こちらも貴重な話が聞けました。もし記事になることがあれば、先輩の名前は伏せておくので安心してください」

 立ち上がり樹がそう言った。樹に合わせて咲鳥たちも立ち上がる。

「何かあったらまた相談に来ちゃおっかな」

「歓迎しますよ。新聞部はいつもネタ探しで忙しいので」

「黒田くんのお悩み相談コーナーとか作ったら? 私がレビューで星5つけてあげる」

「その時はお願いします」

 真里はもう一度あたまを下げると、気さくに手を振って美術室を出て行った。木の板が叩きつけられる乾いた音を聞いてから、咲鳥は黒い瞳を樹に向ける。

「おつかれさま」

 咲鳥たちの中で、一仕事終えた時のような緩やかな空気が流れた。朝陽は大きく背伸びをする。

「いやぁ、それにしても! すでに女の霊を祓っていたなんてな。神和はまだ見習い巫女なのかと思っていたけど、なんか慣れてる感じするわ」

 樹が説明を加えるように言った。

「咲鳥は昔から家の手伝いをしていたからな。それにしても、仕事が早くて助かるよ」

 咲鳥は黙って微笑んだ。そして、朝陽と樹を通して色あせた美術室を見る。微かな水音が、日に当たらない薄暗い影に隠れて咲鳥を待っていた。

「どうだろうね」

女の霊を祓えているわけではなかった。女の霊が、前任者から離れて咲鳥を選んだだけだ。女の霊が咲鳥に何を感じ取ったかはわからない。ただ、何かを伝えようとしているのは確かだった。

「あのままだと、朝陽くんについていっただろうけど」

 どういうわけか、自分のところに来てしまった。咲鳥が何気なく言うと、朝陽の軽快な口元がひきつる。

「あはは、冗談だろ?」

「…………」

「え、ガチ?」

 朝陽は無意味に後ろをふり返ってから、気を取りなおして咲鳥に言う。

「まあ、それはともかく……」

 朝陽が言い終える前に、咲鳥は朝陽に向かって言った。

「その前に、朝陽くんに聞いておきたいんだけど」

「……なに?」

 咲鳥は見透かすように朝陽を見る。朝陽の肩がわずかに上がった。

「第三校舎へ行ったでしょ?」

「え、いや、そりゃあ。あそこは俺たちの集合場所じゃん。黒田も神和も第三校舎に行くだろ?」

 当たり前のことを言うなよと、そんな口調で朝陽は言った。その様子があまりにも自然で、咲鳥は声色を鋭くさせる。朝陽が何かを誤魔化そうとしていることは明白だった。

「第三校舎の中に入ったよね? それも、私たちが真里先輩から相談を受ける前から」

 朝陽が、その一言に眉をピクリと動かす。

「……ええっ、なんでわかったの?」

 思ったよりも、朝陽はすんなりと認めた。これ以上ごまかす気はないようだ。困惑しながらも、朝陽は諦めたように笑う。

「あの女性の霊は、第三校舎へ入った生徒に興味があるみたいだった。だから、女性の霊が朝陽くんの後ろにいるのを見て、朝陽くんが憑りつかれているのには訳があると思っていたんだ」

 理解した朝陽は、調子のいい口を結ぶ。そして、開き直ったように、いつもの軽薄な様子で話し始める。

「いやぁ、試しに第三校舎へ入ってみたんだけど、まさか直近で先輩から第三校舎の相談を受けるなんてなぁ。運がないのやら、あるのやら」

 真里が相談した日から女の霊の影を感じなくなったのは、おそらく、朝陽、咲鳥と女の霊が移動したからだ。実際には、相談前から真里の悩みは解決していたことになる。

「そういうことは早く言ってくれないと。何かの手がかりになったかもしれないんだから」

 話しを聞いていた樹が、不満そうに朝陽に言った。朝陽はそんな樹の肩を軽く叩く。

「結果オーライ! オーライ!」

「あのなぁ……」

 樹は呆れてため息をつく。それもそうだろう。今回、一番の功労者は樹であるのだから。身内から情報を隠されては、ため息もつきたくなるというものだ。

咲鳥はおもむろにカバンを持つ。その様子を見て、朝陽が声をかける。

「あれ、もう帰んの?」

「私は第三校舎へ行ってみる。まだ、気になることがあるから」

 咲鳥が告げると、樹と朝陽もカバンを持った。

「ちょっと待って! 俺らも行くって!」

「ここまで来て咲鳥ひとりに任せるつもりはないし、僕もまだ、この話には何かある気がするんだ」

 女の霊が何に固執しているのか。その女の霊は何かを咲鳥に伝えようとしている。

咲鳥は、朝陽と樹と共に第三校舎へと向かった。死んでなお第三校舎にとどまり続ける彼女の、真相を突き止めるために。

 時間は十八時をとっくに過ぎている。カラスが鳴いて、咲鳥たちは薄暗い校舎へと足を踏み入れた。

 もう使われていない古い校舎は、八十年前に建てられた木造建築だ。雨に濡れた時のような湿った匂いが鼻をかすめ、黒ずんだ木の板は、踏むたびに痛んだ音をあげた。

咲鳥たちは、電球もつかない校舎をスマホのライトで照らしながら進む。

「いったい、どこに向かっているんだ?」

 いつ下が抜けてしまうかわからない階段に差し掛かったところで、樹が聞いてくる。真里が女の霊を目撃した場所だ。足を踏み出すたびに、人の悲鳴に似た音で階段は軋んだ。

「私にもわからない」

「えっ?」

 咲鳥の前には、複数人の足跡が白く浮かび上がって続いていた。それを追って、咲鳥は進んでいるのだ。樹や朝陽には見えない足跡は、階段の先まで続いている。

三校舎に入ったときから異様な雰囲気が強まったように感じていたが、咲鳥を導こうとしている存在は、女の霊だけでなかったようだった。

「おい、どうしたんだよ」

咲鳥が急に足を止めたため、朝陽は咲鳥に声をかけた。

「少し待って」

大小さまざまな足跡はぱたりと途切れ、咲鳥は足跡に追いつていた。途切れた足跡を見つめていると、一つの足跡が、ペタペタと湿った音をたてて動き出す。それに合わせて咲鳥もまた足を進めた。

さらにそれを追っていくと、ある教室の前で止まる。そして、扉に向き合うように、きれいにそろえられた足跡は、徐々に薄れて消えていった。

上を見上げ教室のプレートを確認してみるが、文字がすれてここが何の教室かはわからない。この場所が終着点なのは間違いないと、咲鳥は扉を開けた。

「っ……!」

 その瞬間、夕焼けの赤が全身を照らした。眩いほど閃光に手で目を覆う。何度か瞬きをして、少しずつ目を開けると、本に埋もれた部屋が視界に飛び込んできた。

本を敷き詰めた部屋はサウナのようだった。空気が溜まっていたらしく、湿った熱気が体を包みこむ。蜃気楼を見るような視界の歪みを感じるほど、気だるい暑さだった。外から聞こえてくる蝉の合唱も、神経をすり減らしていく。

じわりと額に汗が滲んだ。かすかに感じる風も生暖かく、まるで白昼夢を見ているように頭がぼんやりとする。現実感がないまま、部屋を見渡す。

 いたるところに本が山積みされている。足の踏み場もないほどだ。本棚にも本が整列しており、そのどれもが古い本だった。昔使われていたのだろう教科書なども見受けられる。

 制服のスカートを少しだけめくって、足をのばす。なんとか足場を見つけて中へ入り、本棚の本を一冊、手に取ってみる。

たしか、ここにあるはずだ。

そう考えて、何があるはずなのか、咲鳥は自分でもわかっていないことに気づく。

しかし、それを追求する前に、本棚の奥に不自然にたおれている本が意識を引いた。本を取って空いた細長い隙間から、うしろの本の存在に気づいたのだ。

 数冊の本をよけて、うしろに横たわる本に手を伸ばす。題名のない、薄汚れた本だった。百ページあるか、ないかというぐらいの厚みで、表紙はざらざらとした質感をしている。

 これに違いない、そう思って本を開いた。数ページ、目を通す。その間も、蝉の声と熱気がじわじわと体に張り付いてきた。

「……………」

ページを閉じ、本を睨み下ろす。

どうやら本は、呪いについて書かれた本のようだった。古い文献のようで、発刊元も書かれていない怪しい本だ。

内容は簡素なものだが、なんとも不愉快な心地がした。嫌悪感が腹の底から沸いてくる。ヘドロを飲み込んだような不快感に咲鳥は眉を顰めた。

いったい誰がこんなものを書いたのか、そして、校舎の本棚になんて置いたのか。

夏の鬱陶しさが、そのまま怒りに変わっていくようだった。なんとか気持ちを抑え、まずは本のことを樹と朝陽に伝えなければと、うしろを振り返る。

「え……?」

 うしろを振り返りハッとする。樹や朝陽の姿がどこにも見当たらなかった。さっきまで後ろにいたはずの二人がいない。本をバッグにしまい、慌てて教室を出た。

 校舎の外へ出て、ふと、自分の服装が変わっていることに気づく。夏用の制服だったはずだが、冬ものの制服に変わっていた。外の風も冷たく変わっていて、とても夏のものだとは思えない。

とにかく、二人が無事なのか、確認することが先決だろう。第三校舎の周りを一通り見まわってみる。

しかし、いくら探しても二人の姿はなかった。先に帰ってしまったのだろうか、それならそれで、二人がきちんと家に帰れているかを確認しておこうとカバンを開く。

スマホを取り出そうとして、あることに気づいた。さっきしまったはずの本がないのだ。たしかに持ってきたはずの本が消えている。

 あれだけは放置しておけない。もう一度、校舎に戻って本を探そうと思い立ったとき、冷たい感触が頬にあたった。

先ほどまで赤かった空が……自分はいつの話をしているんだ? 朝から空は重い灰色に染まっていたはずだ。そこから落ちてきた水滴が頬にあたったのだ。

このままだと雨が降り始める、しかも、豪雨だ。そう思ったのも束の間で、ぱらぱらと降り始めた雨は、すぐに激しい水の弾丸となった。

 傘は持っていない、いち早く家に帰るために、泥を跳ねさせながら走りだした。

「ハァ……」

校門のところまで走って、ふと、学校を振り返る。

なんとく、振り返っただけだった。しかし、その行動には意味があるのだと、誰かが自分に伝えている気がした。

学校の正面玄関の近く、見慣れた景色の中に、こびりついた汚れのような異物が混じっている。

その小さいようで強烈な違和感に、心ごと体を支配されてしまうような感覚に襲われる。胸に、大きな黒い穴をねじり開けられたような感覚だった。

黒髪を伝った水滴が震える唇をつたう。体の芯から湧き上がった悪寒が背筋にはしった。

 雨でぼやける視界の奥で、黒い何かが揺れている。もっと、目を凝らしてみる。影は次第にはっきりと見えるようになった。

それは、ピントが合ったというよりも、影が近づいてきているからだった。壊れた画面のバグのように、黒い影は、こちらに向かって体をうねらせていた。

あの黒い影に追いつかれてはいけないと思った。

「っ!」

 体は率直な本能によって走りだす。学校の敷地を抜けて、通い慣れた帰路のコンクリートを力いっぱいに蹴り上げた。

雨で前が見えずとも、とにかく走る。震える足も、雨が当たって冷たくなると、感覚がなくなっていった。いや、むしろ熱いぐらいに燃えている。足底からふくらはぎにかけて、車のマフラーのようにうねりをあげていた。

 何度も影を振り返りながら走る。人のような形をしているが、絶対に人間ではないことはハッキリとわかった。

雨の中に閉じ込められてしまったように、耳元に自分の息遣いが立体音響のように響いてくる。肌に張り付いた制服と、絶え間なく降りそそぐ雨が体温を奪った。それでも不思議と、熱した鉄球を内包したように体は火照っている。その熱に突き動かされるように重い足を進めた。

「ハァ、ハァ、ハァ……!」

見慣れた道まで来た。ここをまっすぐに進み、住宅街に出れば、そのすぐに家がある。

河川敷から見下ろせる濁った川は、まるで自分の未来を暗示するように底がみえない濁流だ。もうすぐで帰れるという気持ちと、間に合わないのではないかという不安が交じり合った。

心臓がせりあがりそうで、過呼吸のように息を吸う。酸素を取り入れる前に、雨が肺に入ってむせた。影は、すぐそこまで来ている。

「あっ!」小さな悲鳴が口からもれる。絡まった足が勢いのままに進み、バランスを崩したのだ。

盛大に前に倒れ込んだ。とっさに体を支えた手には血がにじんでいた。膝も擦れて血が出ている。浅い呼吸を繰り返しながら、うしろを見ると、すぐそこに影があった。

「……ッ!」

いや、アレが陰でないことはもうわかっている。アレは化け物だ。自分を連れていこうとしている化け物だ。捕まったら引きずり込まれるに違いないのだ。

化け物の引き裂かれた口はニタついていて、温度のない残忍な目でこちらを見ている。その目に睨まれると、自分がいかに無力なのか実感させられた。

 迫る化け物に、足を掴まれる。

「いやっ!」

 とっさにバッグで化け物を殴る。一瞬ひるんだのか、軽くなった足首に、急いで体勢を立て直す。ローファーなんてその場に捨てて、よろけながらもまた走り出した。

 今度うしろを振り返ると、恨めしそうにこちらを見るだけで、化け物は追って来なかった。もう後ろを振り返ることもなく、家の扉を開けるまで全力で走り切った。

「あら、おかえり……って、どうしたの!」

 家につくと、いつものように母が迎えてくれる。びしょ濡れの姿を見ると、驚きながらもあたたかいタオルで包んでくれた。

もう大丈夫なんだ、助かったんだ。タオルの温かさに、緊張の糸が切れて、涙に視界が滲む。

 自分の異常な様子に母も心配したようで、とりあえずお風呂に入りなさいと言って、スクールバックを奪うように取った。

お風呂をあがったら、傷の手当をしてくれると言った。暖かいココアを入れて待っていると、母は優しい笑みを浮かべた。

 体が異様に冷えていることをようやく自覚する。そして、「はぁい」と間の抜けた返事をした。ありがとうと伝えたかったが、泣いてしまいそうで、そう返事をするので精一杯だった。

 制服を脱ぎ、浴室に入る。シャワーからは暖かいお湯が降り注いだ。最初は熱く感じた熱さも、心地のよい極楽へと変わっていく。

体が徐々に温まっていく瞬間は、言葉では表せられない至福のひと時だった。白い湯気が体を包むと、心に残った一抹の不安も湯気の中に消えていくようだった。

心からの安堵を込めて、大きく息を吐く。体を洗い、髪を結んでからシャワーを止めた。

湯船に入ろうとしたところで、水面に映る影を見た。人の形をした影がこちらを覗いる。ドキリと心臓が鳴った。

「っ!」

 慌ててのけぞる。

まさかあいつが? と嫌な予感がよぎる。しかし、よくよく様子を見ていると、それは水面に映った自分の姿だった。

なんだ、自分だ。一瞬にして冷えきった心臓が、もう一度緩んだ。あんなことがあった後で、まだ気を張っているのだと、湯船に手を伸ばす。

湯船に触れると、自分の顔がぐにゃりと歪んだ。くだらないと思いつつ、クスリと笑みがもれる。

「…………」

 ゴーゴー、ゴーゴー。家を打ち付ける雨の音は、まるで生き物の声のようだった。何重にも重なった音の中で、ぴちゃぴちゃと舌なめずりをしているような水の音も聞こえる。

 雨が家に打ち付けられ、浴室にもその音が反響した。髪やシャワーヘッドから水滴が落ちると、その音が雨の反響音と融和した。


ぽたっ、ぽたっ、たんたん、ぽたっ、たんたん


いつもは気にして聞いたことが無かったが、浴室では水の音がよく聞こえる。耳が積極的に水の音を集めているからかもしれない。浴室で雨が降っているみたいに、よく聞こえてくる。落ち着くようで、寂しい雨の音。

 

バシャンッ


 耳元で水が弾ける音がした。

歪む視界に、ここは何処だろうと思った。揺れる世界が、まるで水底の様なのだ。


ゴボッ!


すぐに、自分が湯船に顔を付けているということに気づいた。その息が苦しさに、手足が反射的に動き回った。


ゴボッ ゴッ ゴッ!


引きずり込まれるように、上半身が浴槽のヘリを乗り越える。自分の力ではどうすることもできない、もの凄い力で頭を引っぱられた。連れていかれる! ヘリにしがみつき、こちらも必死に頭を引いた。


バシャン! バシャン! バシャン!

 

自分が抵抗するたびに湯船が大きく揺れる。恐ろしい唸り声が聞こえると思ったら、それは自分の喉から発せられる声だった。グー、グーと、自分で聞いていても虚しくなるような声だ。蛇に飲み込まれてしまいそうな蛙の声。違うのは、自分が蛙ではないという点だけだろうか。ゴポゴポと口から息がもれて、息も体力も限界に近づいていった。

自分の四肢が思っていたよりも激しく動いたらしく、暴れた手がシャワーのハンドルを回す。コントロールをなくしたシャワーヘッドが、自分と同じように激しくうねる。そのお湯が、体の四方八方に当たったように感じた。

「――、着替え、おいておくからねー」

「っ!」

 遠い場所で母の声が聞こえてきた。母が着替えを用意し、すぐそこまできていた。死に物狂いで浴槽を叩き、母を呼ぶ。


お母さん! 助けて! お母さん! 


動転したためか、興奮したためか、いつのまにか閉じていた目をあけていた。しかし、見えたのは、湯の透明さではない。

異質な黒と視線を交える。湯船にあるはずのない、生き物によく似た目がそこにあった。闇をそのまま映したような、ぞっとするほど冷たい目だった。

体が脱力して、死ぬ寸前の草食動物のように動きを鈍らせる。


トクン、トン、トン………

 

浴槽が叩かれる音が、心臓の動きとともに弱まっていく。少女の訴えも、母親が立ち去っていく音も、シャワーの音でかき消された。

上半身がズルリと引き込まれる。そのまま体が軽くなったと思ったら、水面に力なく体が浮いているだけだった。

 


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