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文学少女を形容したい

 最終下校時刻まで、まだ十五分ある。


 上靴に履き替えて、夕焼けのオレンジ色になった上り階段に踏み込んだ。


 背景音楽を選べるのなら、ロベルト・シューマンの『トロイメライ』がいい。静かな温もりに包まれ夢のひとときを過ごしたい。部活上がりの充足感さえ忘れてしまうほどに、僕はこの時を待ちわびていた。


 一度息を整えてから扉を開くと、静謐(せいひつ)の図書室にはその子だけが取り残されていた。


 教室では目立たない黒髪の少女、名前を水谷さんという。放課後の長い時間を彼女が図書室で過ごしていることなど、他に誰も知らないのではなかろうか。戸締りにくる司書教諭が声を掛けるまで、水谷さんは延々ここで本を読んでいる。


 彼女は本の虫、つまりは文学少女なのだ。


 僕はボストンバッグを床に下ろすと、借りていた本を取りだした。本を返却ポストに投函(とうかん)する(わず)かな間にも、しゅるりしゅるりとページを(めく)る音がする。音の間隔は十秒くらい。僕より何倍も読むのが速い。


 彼女が読んでいる単行本のタイトルは『ロング・グッドバイ』で、昨日読んでいた『長いお別れ』とよく似ている。昨晩調べたのだが、この二つの本は原作が同じ『The Long Goodbye』という海外の小説で、それぞれ翻訳者が異なるらしい。要するに、彼女は二日続きで同じ物語を辿(たど)っているのだ。


 ところがそれを嘘と思わせるほどに、活字を追う瞳は好奇心で満ちている。口元には控えめな笑みがあり、いま目の前に物語がある幸福をじっくりと噛みしめる。とかく彼女は楽しそうに本を読む。


 この光景に出会うまで僕は読書に興味がなかった。水谷さんとは言葉を交わしたことさえないのだが、彼女に幸せのお裾分けを貰ってから、僕の住む世界は以前よりずっと広くなった。


 小さな文字が整然と並び、文章によって構築される本の世界を堪能するには、もちろん一筋縄ではいかないことがままある。理解が追いつかないことだって珍しくない。時には理解できないのに面白い文章と遭遇したりもする。


 本の世界は、思っていたよりずっと自由だ。


 たとえ一人ぼっちの図書室で本を読んでいても、水谷さんはまるで旅人のように、次の瞬間に期待してしゅるりと淀みなくページを捲る。目まぐるしい展開に一喜一憂することがあれば、美しい表現や著者の気遣いに(ほお)を緩めることもあるのだろう。


 彼女はいつも静かだが表情には細かな喜怒哀楽の変化があって、いつだって全力で読書を楽しんでいる。


 きっと彼女の背中には、透明な想像力の翼があるのだ。想像力の翼がある限り、水谷さんはどんな世界にだって気の向くままに飛んでいける。そしたら活字が並ぶばかりの世界を鮮やかに再構築して、現実と変わらない彩り豊かな景色を見つめるのだ。


 僕もいつか彼女と同じ景色を見てみたい。


 彼女に話しかけて本の話ができれば嬉しいのだが、それを理由に読書の邪魔をしたくはない。しかし彼女は気がつくと本を読んでいるから、話しかけるタイミングが難しくて、今後も僕の望みは叶いそうにない。


 下校時刻になったら話しかけてみようか? 待ち伏せしているみたいで警戒されるだろうか?


 そんな具合で次に借りる本を決めかねていると、ころりと(しずく)が落ちるような声がした。


「ああ、そうか」


 水谷さんの目元は喜びを隠しきれていない。


 指先がしゅるりとページを捲ると、また新しい表情が浮かんでくる。


 僕は『長いお別れ』を探して、暮れなずむ図書室を歩きだした。


読んでいただき、ありがとうございます。

この物語と関連した長編小説も執筆しています。

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