魔法使いの毒入りパンは勇者のため
一匹の悪竜によって、世界は滅亡の危機に瀕していた。
その息吹は全てを灰燼に帰し、その鱗は生半可な攻撃を通さない。
そんな存在に人々は怯え、恐怖と不安を抱えて暮らしていた。
しかし、待望の悪竜に挑む勇者と魔法使いが現れた。
勇者と魔法使いは世界のために戦うのではなかった。
愛し合う二人は平和に暮らしていたいだけ。
……ただそれだけの想いで悪竜を討つ。
――悪竜は勇者に向かって全てを焼き尽くす火炎の息を吐こうとしていた。
「ソフィー!」
勇者の声に応えるように魔法使いは魔法の詠唱を終え、勇者の周囲に結界を作る。
「シュー! 結界があっても無事に済むか、わからないんだからね!」
無茶はしないで、という魔法使いの心配は勇者にも伝わっていたが、これで勝負を決めるつもりでいた。
ソフィアの結界を信じて、勇者シュナンは炎の奔流に正面から突破しようとする。
「シュー!!」
炎に飲まれたシュナンを見てしまったソフィアの悲痛な叫びがシュナンに届いた。
――結界に罅が入った。
まだ結界の外は灼熱地獄だ。
それでもシュナンは足を止めず、さらに加速する。
――結界が砕け散った。
シュナンは盾に身を隠して炎を浴びながら、さらに悪竜へと近づく。
――ついに悪竜のブレスが終わる。
シュナンは火傷を負いながらも悪竜のブレスを凌いだ。
それを機にシュナンの勢いが一気に増し、悪竜に迫る。
そして――。
悪竜の断末魔が響き渡る。
シュナンの剣が悪竜の命を絶ったのだ。
だが、怪我を負ったシュナンは立っていることができず、膝をついてしまった。
それに慌てたソフィアはシュナンの下に駆け寄り、魔法でシュナンを治療した。
「もう! 私がどれだけ心配したと思っているの!?」
「……ソフィー、許してくれ」
シュナンはあの危険な行動をソフィアに咎められていた。
「次はそんなことしないでよ!」
「わかった。わかった。もうしないさ」
ソフィアは疑いの目でシュナンを見る。
「本当?」
「本当」
ソフィアはじっと、シュナンの顔を見つめ、ため息をついた。
「……信じる。約束よ?」
「ああ。必ず守る」
そう言って、シュナンはソフィアを優しく抱きしめた。
ソフィアとシュナンは悪竜討伐を称えられ、王城に招待された。
そして、二人は豪華な料理を食べた後に楽団の演奏を聴いていた。
「勇者シュナン、魔法使いソフィア、お二人とも食事はどうでした?」
王国一の美姫である王女が声をかけた。
「ええ、美味しかったです」
「本当にありがとうございます」
シュナンは食事の味を答え、ソフィアは歓待の礼を言った。
「お気になさらず。お二人は悪竜を討った英雄ですから」
王女は二人に微笑んだ。
男なら誰もが虜になるほど魅力的な笑みであったが、シュナンはソフィアを愛していたので、特に反応することはなかった。
それに王女は不満を抱いたが、表情を偽ることに長けていたので、二人に気づかれることはなかった。
「これを渡しておきますね」
王女は一人の男に大量の金貨が入った袋をソフィアに渡させる。
「それは悪竜討伐の報酬です。勇者シュナンには話がありますので、一人で家に帰って保管していてください。大金ですから、盗まれるかもしれません」
王女の言葉にソフィアは戸惑う。
「……えっ、でも――」
「――さあ、こちらです」
ソフィアを置いて、王女は歩き出した。
「ソフィー、すぐに帰るから先に家で待ってて」
王女にシュナンを連れていかれることに、言い表せない不安をソフィアは感じていた。
シュナンが遠くに行ってしまう。――そんな気がした。
「……待ってよ、シュナン。一緒に帰りましょう」
その声が、すでに離れていたシュナンに伝わることはなかった。
ソフィアは王城に仕えている女性に促され、一人で家に帰るしかなかった。
シュナンが王女に案内されたのは、大きな広間だった。
王女の護衛騎士とは別に十人広間の端に立っていた。
広間の中央に位置するテーブルの両側に椅子が用意されており、そこに王女が座る。
「勇者シュナン、貴方はその椅子に座ってください」
シュナンはわざわざ部屋を変える必要があったのか、と疑問に思いながら王女の向かい側の椅子に座った。
シュナンはしばらく王女と会話していると、少し離れた所から声が聞こえた気がした。
それを誤魔化すように王女は話を続ける。
王女の話を無視するわけにはいかないので、シュナンは違和感を感じたが、話を止めなかった。
(――体が動かない)
突然、シュナンは異変に襲われた。
ソフィアに一定の魔法知識を教わっていたシュナンは、それが拘束の魔法だと気づく。
(あの声は魔法の詠唱だったのか)
そう考えながら、シュナンは拘束を破ろうと力を込める。
このまま拘束を破ろうとしたとき、四つの出入り口から広間に大勢の人が入って来た。
――シュナンを拘束する力が増す。
シュナンは力ずくで拘束を抜け出すことができなくなってしまう。
広間の中央にいる王女とシュナンを囲む集団、その全てが一流の魔法使いだった。
「さすが、悪竜を討伐した勇者ですね。魔法使い十人の拘束魔法を易々と破るなんて。……けれど、この数では抜け出せないでしょう?」
嘲笑を浮かべた王女がシュナンに言った。
「一体、何のつもりですか?」
シュナンは王女に尋ねた。
「王国にとって、高い名声と実力を持った貴方達は危険なの。だから、毒を含んだ食事で殺そうとしたのに、まったく効かない。貴方達、本当に人間かしら? まぁ、これで貴方は終わり。後はあの女だけね」
「私達は人里離れた場所で暮らします! どうかお許しください」
必死にシュナンは訴えるが、王女は取り合わない。
「ダメよ。嘘かもしれないじゃない? さぁ、勇者を殺しなさい!!」
王女の護衛騎士は勇者の首に剣を振り下ろす。
「――なにっ!」
護衛騎士は勿論、広間の全員が驚いた。
シュナンの首は全力で振るわれた護衛騎士の剣を受け止めていたのだ。
「……やっぱり、化け物じゃない……。毒も剣も効果がないなんて……。そうすると、勇者と同じようにあの女も殺せないかもしれないわね……」
しばらく王女はソフィアとシュナンを殺す方法を考え、一つの名案を思いついた。
「……そうね。こうなったら、化け物同士殺し合わせましょうか」
それを聞いたシュナンは、再び拘束を抜け出そうと暴れるが、強固な拘束はそれを許さない。
「そんなことしても無駄だって理解できないの? ほら、勇者に魔法をかけなさい」
王女は魔法使い達に指示を出し、魔法使い達に詠唱を始めさせる。
「やめろ! 何でもするから!! ソフィーだけはぁぁぁぁぁぁ!!」
シュナンの必死な叫びと魔法の詠唱だけが広間に響く。
――詠われる言葉。
――次第に薄れる意識。
シュナンは懸命に意識を保ちながら、喉が潰れるほど声を発する。
その絶叫は完全に意識を失うまで続いた。
(……帰るって…………言ったのに…………ごめん………………な)
家でソフィアは椅子に座り、シュナンの帰りを待っていた。
早くシュナンが帰ってこないか、何度も時計を見てしまう。
けれども針の進みは遅い。
一分も経っていないのに、またソフィアは時計を見つめる。
寒い夜だから、とシュナンのために用意した温かいスープは、すっかり冷めてしまった。
(……遅いわね。すぐに帰るって言っていたのに……)
ソフィアは真夜中になっても帰って来ないシュナンを心配していると、家の外から足音が聞こえた。
家の周りは空き地しかないないので、きっとシュナンだろうと思い、ソフィアは玄関を出て迎えに行った。
夜の風がソフィアの体を凍てつかせる。
暗闇の中にいるシュナンの姿を見て、ソフィアは言う。
「もう……こんな遅くまで何していたの? 冷えるから早く中に入りなさい」
しかし、シュナンの返事はない。
「シュー?」
訝しむソフィア。
――結界が剣を弾いた。
ソフィアの危険を察知して自動的に展開された結界が、一瞬で抜剣してソフィアに突きを放ったシュナンの攻撃を防いだ。
「えっ! シュー!?」
愛する人に刃を向けられ、ソフィアは狼狽する。
ソフィアの声がシュナンに届いていないのか、またシュナンは斬りかかる。
勇者の攻撃は鉄壁の守りのはずの結界をたった二度で破壊した。
さすがに身の危険を感じ、魔法でシュナンを吹き飛ばして距離を取った。
魔法使いは一定の間合いを保てれば、遠距離攻撃ができない相手を一方的に魔法で攻撃できる。
しかし、接近されれば詠唱する必要がある魔法使いは負けてしまうことが多い。
戦闘経験豊富なソフィアは混乱していても、対処を誤らない。
シュナンがソフィアとの距離を詰めようとする度に魔法で妨害する。
「何か言ってよ! シュー! 何もわからないじゃない!」
すると、シュナンは立ち止まった。
「王女様にお前を殺すように言われた。だから、殺す。……それだけだ」
いつもの優しいシュナンはいない。
無表情でソフィアを見るシュナン。
「私を覚えていないの!?」
「お前のことなど知らない。……何も覚えていない。自分のことも……。ただお前を殺すだけ」
「……そんな……」
そして、またシュナンはソフィアに接近しようとする。
ソフィアは魔法でシュナンの動きを止めようとしたが、一度使った魔法は対処されてしまう。
シュナンは勇者と呼ばれるくらい戦闘能力が高く、成長も早い。
次々に魔法を突破され、徐々に余裕がなくなるソフィア。
そして――覚悟を決めた。
シュナンを傷つけ、失神させることを。
設置した魔法の罠にシュナンの注意が逸れた瞬間に、ソフィアは強力な魔法を炸裂させた。
――爆音と爆炎。
真っ暗で見通しがよくなかった視界が、土埃で完全になくなった。
ソフィアは気を失ったシュナンの手当を行ない、ベッドに寝かせた。
念のため、シュナンをベッドに縛り上げる。
そして、ソフィアは放置していたスープを保存し、今日の悪夢を忘れるために眠った。
朝、ソフィアが目を覚ましても悪夢は覚めなかった。
シュナンが拘束を外そうと暴れていたからだ。
「まだ怪我が治っていないんだから、大人しくしていなさい!」
ソフィアがシュナンに注意すると、動きを止めたシュナンが言う。
「お前を殺そうとしたのに、なぜ俺を殺さない?」
「……そんなの決まってるじゃない。あなたを愛しているからよ」
「そんな記憶はない」
「それでも愛しているわ」
ソフィアがそう言うと、シュナンは黙った。
だが、シュナンは一転して無理に拘束を抜け出そうとする。
「やめて! 体が傷つくだけよ!」
必死にソフィアがシュナンを落ち着かせようとするが、上手くいかない。
やがて、シュナンの体から血が出ると、ソフィアは魔法で強制的にシュナンを眠らせた。
(……早く元のシューに戻ってよ……。あなたがいないと、私は…………)
ソフィアの嘆きはシュナンに届かない。
「何か食べないと死んでしまうわ。……お願いだから食べてよ」
あの日から三日経っても食べようとしないシュナンにソフィアは懇願する。
ベッドに縛られたままのシュナンの口にスプーンで食べさせようとするソフィアをシュナンは拒絶する。
シュナンはそんな状態でも、頑なにソフィアの命を狙う。
ソフィアがシュナンに食事を取らせようとしたときに、ソフィアの手を咬み千切ろうとしたこともあった。
(どうにかして、シュナンに食べさせないと……)
ソフィアはシュナンが自分の命を狙っていることを利用することにした。
「この九個のパンの中に一つだけ毒が入っているわ。交互に一つずつ食べましょう」
「わかった」
シュナンは迷わず一つ目のパンを口にする。
「次はお前の番だ」
シュナンが食べてくれたことが嬉しくて、ソフィアは笑った。
「ええ、私はこれにするわ」
ソフィアは手に取ったパンを食べ終える。
「――次はあなたの番よ」
最後にパンが一つだけ残ると、ソフィアは言う。
「毒入りのパンが残るなんて、運がいいわね」
(……シューが食べるものに毒を入れるわけがないのに)
当然、こんな嘘が通じるのは数日くらいだろう。
ソフィアは分かっていた。
――こんな日が続かないことを。
ついに恐れていたことが起きた。
「今日も運良く毒入りパンを避けたようね」
ソフィアが残ったパンを片付けようとしたとき、シュナンが言う。
「そのパンが毒入りか確かめたいから、よこせ」
「……自分から毒が入ったパンを食べようと言うの? ダメよ。それで死んだら、つまらないじゃない」
なんとかソフィアは誤魔化そうとするが、シュナンの疑いは晴れなかった。
「その態度を見る限り、毒は入っていないようだな」
ほとんどシュナンと話せていなかったので、ソフィアは少しでも話を長引かせようとした。
「だって、私達に毒なんて効かないじゃない?」
「……そうだったのか」
しかし、シュナンはすぐに黙ってしまう。
(シューともっと話がしたかったのに……)
それから、シュナンは再び食事を取らなくなった。
ソフィアがシュナンに不安を募らせていると、来客があったので、玄関の扉を開けた。
その瞬間、ナイフが飛んできた。
それを自動的に展開された結界が防ぐと、ナイフを投げたらしき人物が逃げだした。
脅威を排除するため、ソフィアはその人を追う。
意外と足が速かったが、魔法を用いて追いつき、拘束した。
シュナンが心配だったので、ソフィアはその人物を衛兵に引き渡し、すぐに家に帰った。
かけ忘れていた玄関の鍵を閉め、ソフィアはシュナンの下に行く。
「シュー? 大丈夫だった?」
怪我もなくベッドにいたシュナンを見て、何事もなかったようだ、とソフィアは安心した。
――鋭い痛み。
いつの間にか、シュナンが手にしていた剣でソフィアは心臓を正確に貫かれていた。
どうやってシュナンが拘束を抜け出したのか、それはもう死んでしまうのでソフィアはどうでも良かった。
胸に剣が刺さったまま、ソフィアはシュナンを抱きしめた。
「……シュー。あなただけは……生きてね…………」
小さな声でシュナンの耳に口を近づけ、ソフィアは言った。
そして、最後の言葉を詠う。
(……ああ……もっと…………一緒に………………)
ソフィアの命の灯火が消えたのと同時に命を代償に発動した魔法が起こる。
シュナンにかかっていた魔法は、最高峰の魔法使いの集団によって施された魔法だった。
その魔法を解析し、解くにはソフィアでさえ二週間必要で、あと少しで魔法を解除できる矢先に致命傷を負ってしまった。
だから、せめてシュナンだけは――
その思いでシュナンの魔法を解く最終工程をソフィアは死の寸前に終わらせた。
その甲斐あって、シュナンは全てを思い出した。
――すでに息絶えた愛する人に抱きしめられて。
「ああああああああああぁぁぁぁ! ソフィー!!」
自らの手で愛しい人を殺めたシュナンは、涙と声が止まらなかった。
後悔、絶望、憎しみ……
自分でも何を考えているのか、わからないほどの感情が溢れ出す。
「…………ソフィー、俺はどうすればいいのかな? ただ君が側にいてくれるだけで幸せだったのに……」
シュナンは血に染まった手でソフィアの頬を撫でながら、ソフィアに尋ねた。
シュナンの怒りを表すかのように、家の外では豪雨が降り注ぎ、雷鳴が轟いていた。
――雨ではこの悲しみは流されない。
――雷ではこの嘆きはかき消されない。