まだそこにいる
『いやね、近所の人は涼華ちゃんのことすごい心配してましたよ』
『小さいころはご両親がいないときとか、外で泣いたりしててね。さみしいのか、怖いのか、わからなかったけど、声をかけても、平気、大丈夫……返ってくるのは短い言葉だけでね。余計気になっちゃって』
『たまに出かけて帰ってきた時なんて、ご主人の怒鳴り声と涼華ちゃんのすすり泣く声がしてねえ。西園さんもお忙しくて色々大変だったと思うんだけど……児童相談所に届けるべきかずいぶん迷ったのよ」
だけどいつしか彼女の泣く声がやんだと。それが、西園涼華が絵を描き始めた時と一致するのだそうだ。
「そこにどんな繋がりがあるのかは知らないし、家庭には他人にはわからない悩みがあるものさ。だから、詮索するつもりはないけど、もしそれが簡単に想像できる範囲のものだったとしたら、彼女は絵を描くことを見つけて良かったんじゃないかな」
「でも、有名になったおかげで知らなくていいことまで掘り返されちゃうんじゃ、なんか可愛そうですよね」
そんなことまで記事になっていたのか。
想像できることと言えば虐待か?
それが表に出たから、あいつ……
いやそうとは限らない。
表に出ているメニューを書いた黒板ボードをしまいに肌寒い外へと出た時だった。
「こ、これは……」
それを目にしたとき、あまりの衝撃で身動きが出来なくなり、モンブランパニックの原因を否応にも理解させられてしまった。
普段、ボードに書かれているのはお勧めのケーキとセットにするとお得だというメッセージ。
なのに、それがいつのまにかモンブランのイラストと女の子の似顔絵まで付け加えられていたのだ。
モンブランの絵は誰が見ても美味しそうで興味を引くものだった。
だが、問題は女の子のイラストの方だろう。
もうこの機を逃したら、一生食べられない。
そんな悲壮感が漂う表情の女の子が心に訴えてくる。
こんなものを描ける人間なんて、心当たりは1人しかいない。
一体どういうつもりだ?
☆☆☆
降り出した粉雪を踏みしめ、体を縮こませながら自宅へと急ぐ。
さすがに夜勤明け、授業、バイトの3連コンボは体に応える。
帰ってお風呂に入って寝る。今の俺にとってその2つこそ幸せを感じることが出来る瞬間。
「んっ……?」
視界にアパートが見え始めた時、何かがぼんやりと見えた。
ま、まさか――
近づくにつれ、段々とはっきりしてくる――
それは見間違いではないことに気づき――
確信したときには走り出していた。
あんなに遠ざけたのに――
「……あっ、お、かえり……な……さい」
西園涼華はアパートの前で小さく体を曲げて膝を抱えていた。
俺が息を切らしながら見下ろすと、申し訳ない程度に顔が上がる。
水温の低いプールに入った後みたいに、がくがくとその体は震えていた。
当たり前だ、この寒さをカクテルドレス姿で耐え忍べるわけがない。
「な、なにしてるんだよ、お前!」
「……このアパートには…………きっと……だ、だから、私…………」
昼間と同じように袖を握るが、その手に力はなかった。
髪や肩には白い雪が降り積もっている。
彼女の手に触れると、冷たさだけが感じ取れた。
せめて、屋根があるところで待っていればいいだろ、こいつは――
「ばっかやろう!」
「……ご、めんな……さい」
安心したのかはわからない、気力の限界だったのかもしれない。
彼女は俺にもたれ掛かるようにその身を預ける。
いらいらと、申し訳なさと、少しの安心を感じながら、冷え切ったから彼女を背負い俺はボロアパートの玄関をくぐった。