死者の館事件①
ピリリと肌を刺すような空気、それは本格的な冬の到来を間近に控えた寒さのせいばかりではない。森を抜ける先程まで確かに聴こえていた山鳥の囀ずりも今は聴こえない。
しんしんと耳の奥を静寂が支配する中、目の前の朝靄に浮かぶのは、周囲を湖に囲まれた砦の如き館であった。
――――ボルドヴィン邸、通称死者の館。
ノースターテ王国の北部辺境、私がかつて見習い騎士時代に配属された前線基地よりもさらに北の地にその館はひっそりと佇む。
なんでも遥か昔、戦場から落ち延びた一団がこの館で集団自決を図ったという。それが死者の館と呼ばれる所以だ。
その湖に架けられた城門の様な跳ね橋を私は一人渡る。頬を撫でる風がまるで手招きする死者の怨霊であるかの様に首にまとわりつき。
その時私は彼岸に一歩足を踏み入れた事を悟ったのだった。
「……なんてね! はへぇ、だよ全く。マスターったら私一人で先に行け、だなんて。変なの、あんなに楽しみにはしゃいでたのに」
そう、それは数日前の事だった。閑古鳥が鳴く角角鹿鹿亭に勢い駆け込んできたマスターは、満面の笑みで私に告げたのだ。
「ノエル君、仕事です!」
うん、良かった。仕事が無い日が続くと私も心配になってしまう。だけどこれは一体どうしたというのだろう。普段の冷静なマスターは仕事の依頼がきたくらいでは顔色一つ変えないというのに。
「これが冷静でいられますか! やっと、私の望んだ依頼が来たのです。いやぁ、何でも屋をやっていて良かった! 依頼内容を聞けば、きっとノエル君も胸弾ませて踊り出したくなるに違いありません。あ、胸が弾むというのはワクワクするという表現で、決して君の胸がどうのというセクハラ発言ではありませんからね!」
ね! と言われても困る。言っている意味がわからない。それにしても今日はやけによく喋るなぁ、もう。私が魔法の事を聞いてもほとんど喋ってくれないのに! ぷんすか。
「いや、勿体ぶるつもりはないのです。いいですか、聞いて驚きなさい。今回、北部辺境に住むボルドヴィン侯爵から探偵の依頼を受けたのです!」
ドヤッ! と言わんばかりの勢いに私は一歩後退る。はて、そのボルドヴィン侯爵というのは、マスターが嬉々として語る程の人物なのだろうか。確かに侯爵といえば貴族の中でも爵位が上の方で、私からすると雲の上の人なのだが。
「ちっ、ちっ、何を言っているんですか、ノエル君。重要なのはそこではありません。私はついに探偵の仕事が舞い込んできたから喜んでいるのです」
探……偵? よくわからないが、迷子の猫を捜したりとか?
「ふぅ、ノエル君は何か勘違いをしているようですね」
マスターの目がキラリと輝きを放つ。そしてこう言い切ったのだ。
――――探偵とは、神なのです!
なるほど……やっぱりよくわからない。多分これは私には解らない類の話だ。それに加えて今回は、理由はわからないが無性に腹が立つ。生理的に受け付けないというか。
「いわくありげな洋館! 憎悪渦巻く人間関係! 吹雪、それとも嵐かも知れません。きっと我々は閉じ込められます。そうクローズドサークル! そして私は皆に言うのです。……さて、と!」
私を置いて一人盛り上がるマスター。その顔には子供の様な無邪気さが浮かぶ。まあ、マスターが嬉しいのならそれでいいか。
「で、マスター。探偵はわかりましたが、具体的に何を依頼されたのですか? 私は何をすればいいのでしょう?」
そうですね。そう言ってマスターは瞳を閉じる。
「ボルドヴィン侯爵には三人の子供がいます。まあ、子供といっても侯爵は七十歳、三人共既にいい歳なんですがね」
長男のユーゼフ、長女のカテリナ、次男のタナトス。そして彼らにはそれぞれ伴侶と子供がいるという。
「侯爵は数年前に実務の一線から退き、長男ユーゼフに領地経営を任せ、死者の館と呼ばれる山奥の邸宅に引き籠りました。手付かずだったその館を買い取ったんですね」
何を好き好んで、と私などは思ってしまう。
「そして七十歳を迎えたこの機会に家督をユーゼフに譲ると。その為に家族一同がその館に集まる事になりました」
という事は皆それぞればらばらに暮らしているのだろう。ただ、それがどうしてマスターへの依頼に繋がるのだろうか。
「ふふん、甘いですね、ノエル君。侯爵ともあろう者の家族会議となれば争い事が起こるに決まっています。その証拠にボルドヴィン侯爵の元にはこういったものが届きました」
そう言ってマスターは懐から一枚の紙を取り出し、私に示した。……ああ、なるほど、どっからどう見ても脅迫状だ、これ。
「そこで侯爵からの依頼です。この家族会議に同席し、侯爵に仇なす者を見つけ出してくれ、とそういう訳です。どうです? 実に楽しそうな依頼じゃないですか!」
そうしてマスターはニヤリと嬉しそうに笑ったのだった。
……しかし当日になって、マスターは突然別の用事があるから私に先に行くようにと指示を出した。後から行くから、と。
「あーあ、死者の館とはよく言ったものだよ。洋館だと言ってマスターは喜んでたけど、何がいいんだろう」
しかし怖いからといって指示に背く訳にもいかない。そして私が仕方なく館の内扉に手を掛けたその時だった。
「ひぃっ!」
思わず喉の奥から声が漏れる。だってしょうがないじゃない。視界の隅に奇妙な人の姿を捉えたのだから。
「な、なんだろう……」
白い仮面、いやマスクと言った方がいいかも知れない。のっぺりとした白のマスクをずっぽり被った何者かが、遠くに見える木々の隙間を横切ったのだ。
「怪しい……誰だろう」
しかし一瞬驚きに顔を背けた私が再び視線を戻した時、その人物の姿は無かった。
「まさか……いや、考え過ぎかな、でも」
だが動き出した私の思考は直ぐに遮られる。館の内扉が開いたのだ。
「ようこそおいでくださいました。おや? あなたがサゴマイザー殿ですかな?」
流麗な物腰に清潔感のある装い。いかにも執事、といった様子の男が訝しげに首を捻る。
「私はサゴマイザー・栖川の助手で、ノエルと申します。マスターは間も無く到着すると思いますが、先に事情を伺っておくように、と。早速ボルドヴィン侯爵にお目通りを願いたいのですが、宜しいでしょうか」
私がそう言うと、初老の男は納得した様に大きく頷いた。
「左様でございましたか。私は侯爵より執事長を仰せつかっておりますヤースと申します。とはいっても私以外に植木職人と数名の女中しかおりませんが」
はは、と笑みを浮かべるヤースさん。私はその優しそうな表情に、ここに来てから初めて安堵を覚えた。
「生憎と侯爵は不在でございますが、どうぞ中へお入り下さい。ご事情は侯爵より伺っておりますので、私からお話し致しましょう」
ヤースさんに促されて館の中へと進む。しかし、侯爵は不在。少し気にはなるが、居ないものは仕方ない。私一人で貴族の偉い方に会うのは気が引けるので丁度良いといえば丁度良いのだけど。
「さあ、どうぞこちらでおくつろぎ下さい。今、お茶を用意しますので」
そう言われて私は高価そうなソファーに腰を下ろす。なるほど、外の様子とはうって変わって、綺麗に保たれた入り口直ぐの大広間は落ち着いた雰囲気を醸し出していた。
まあ、そりゃそうか。実際に侯爵が住んでいるんだものね。
と、私がキョロキョロと辺りを見渡していると、ヤースさんがお茶を携えて戻ってきた。そしてその後ろからもう一人……
「なんだぁ? じいさんの客だと来てみれば子供じゃねえか。全く、大事な時に部外者なんか呼びやがって。じいさんも何を考えてんだ!」
「コラント様、この方はれっきとした侯爵閣下のお客人ですぞ。口を慎まれるが宜しいかと」
ふむ、短く刈り上げた金髪。私の事を子供扱いしているが、そう言う彼も歳は私と変わらなく見える。コラント、と言ったか。侯爵の息子でなはく、おそらく孫といったところだろう。
「はん! 当の親父も何処へ行っちまったんだ? わざわざ俺達を呼んどいてよ」
「ノエル様、ご無礼をお許し下さい。こちらはタナトス様のご長男、コラント様です。少々気性の激しいとこがございまして」
少々、ね。まあ、子供だからしょうがないか。でもよかったね、マスターがいたら大変な事になってたよ。
「おい、ヤース。本当はじいさん、部屋にでも籠ってんじゃねえのか? ちょっくら俺が見てきてやるよ」
そう言ってコラント青年が部屋の中央に据えられた階段に目をやったその時だった。
ガゴゴゴゴッ! という轟音が鳴り響いたのだ。
「なんですかっ、この音は」
「まさか、跳ね橋が!」
跳ね橋? ああ、ヤースさんが言うのは館の外扉、湖に架けられたあの跳ね橋の事か。
私は急ぎヤースさんとコラント青年の後を追うように窓際に走る。そして丁度窓の外に目をやったその時……
ガチャリと音を立て、巨大な跳ね橋が入り口を塞ぐように閉じたのだった。