暗黒龍討伐①
「ノエル君、紅茶はまだですかぁー?」
私が一人キッチンで回想シーンに浸っていると、リビングからマスターの声が響いた。
「はあい、今お持ちしますね!」
とは言ったものの、しまった! 時間が経ち過ぎてお茶が濃くなってしまった。なんといってもうちのマスターは紅茶の淹れ方には厳しい。
……そうだ、ちょっと水で薄めちゃえ!
「お待たせしました。今朝はマスターお気に入りのアールグレイサードです」
ちなみにこの紅茶というのは、マスターが事務所の裏にある自家製農園で栽培したお茶の葉を、発酵とかいう方法でかぴかぴの茶色にたものだ。
そのまま淹れても美味しいが、特別に香り付けをしたものがこのアールグレイサード。なんでもベルガモットとかいう薬草が無い為思った味にならず、試行錯誤の末に完成させたらしい。
……へぇ、である。
「ふむ」
優雅な手つきで一口それを飲んだマスターが、カチャリとティーカップを手元に置く。まさか!
「ノエル君、これ、薄めましたね」
!? やっぱりバレた!
「私はいつも言ってますよね。薄すぎたるは及ばざるが如し」
はい、初めて聞きました。
「どうせまたぼんやりしていたのでしょう。言いつけた適正時間を過ぎ慌てて水を足した。まあ、そんなところですか」
マスターが、ふぅと一息ついてその長く切れた瞳を細める。拙い! お説教が始まる。
と、私がそう覚悟を決めた時だった。
「ノエル君、誰か来ましたよ」
マスターが唐突に告げる。私は不意に角角鹿鹿亭と書かれた入り口のドアに目をやる。……と、微かに階段を上る靴音、そして。
やがて透明なドアのガラス越しに、スキンヘッドの武骨な大男が姿を見せた。ガチャリ。
「やあ、邪魔するぜ、サゴマイザーの旦那」
そう言ってちらり私を一瞥し満面の笑みを向けたのは、冒険者ギルドを束ねるギルド長のロンバルト氏だった。
「おう、ノエルちゃん。俺にはその紅茶というやつは要らないから」
お茶の準備をしようと背を向けた私に声をかけるロンバルト氏。承知している。彼はいつも眠れなくなると言って紅茶を飲まない。
そして彼がここにやって来たという事は!
「仕事のご依頼ですか? ロンバルトさん」
お茶を持って戻った私はマスターの隣、応接テーブルのロンバルト氏の向かいにちょこんと座った。
「ああ、ノエルちゃん、その通り。ちょっと厄介な事になってな。旦那、今抱えてる仕事はあるか?」
問われてマスターが肩を竦める。そう、仕事は失くなったばかりだ。
「そりゃ丁度良かった。今回はちょっと長くなりそうでな」
ふぅむ、遠征か? それはちょっと難しいかも。
「ロンバルト君、わかってると思うが」
そう言いかけたマスターを氏が片手を伸ばして制する。
「ああ、承知している。まあ、まずは話を聞いてくれ。条件はそれからだ。実はノースターテのダゴス山地でヴァギスタブルガを見たという話があってな」
ひぇ! ヴァギスタブルガといえば世界の厄災と言われる五大龍の一つ、暗黒龍ではないか。私はもちろんお伽噺の中でしか見た事がない。
「ダゴス山地は冒険者にとって格好の狩り場、ギルドの管轄だ。そして地龍の数が増えているという報告もある。これは俺の勘だがな、噂は本物だ」
しかし怯える私とは違って、マスターは目を細めたまま、にやりと口角を上げ。
「ロンバルト君、つまり君は勘で私を担ぎ出そうとしていると?」
「ふん、俺の勘は当たる。そして当たってからでは遅いんだ。ダゴス山地は大切な狩り場。大事になって王国騎士団案件にでもなってみろ、狩り場がめちゃくちゃにされちまう。そうなる前に噂の元凶を絶ちたい。と、まあそういう訳さ」
それに、とロンバルト氏が続ける。
「万が一、暗黒龍ヴァギスタブルガが何かの間違いだとしても問題無え。狩り場は安泰という事だからな」
なるほど、それは余程大事な場所だという事だろう。ギルドが被るかも知れない損害とマスターへの依頼料を天秤にかけた、といったところか。
「ふむ、騎士団はともかく、ギルドの冒険者でも対応不可能という事かな?」
「当たり前だ、相手は伝説級だぞ! いや、もしかしたら勝てるのかも知れん。だが念には念を、だ。それに冒険者にはダゴス山地周辺の地龍掃討依頼を出してある。増え過ぎれば厄介だ。その依頼を受けた冒険者の中から選りすぐって、旦那のお供に付ける」
ギルド長のロンバルト氏はさらりと言ってのけたが、この地龍というやつも魔物の中では相当に高ランクの筈だ。街に一匹現れただけで、騎士団の一個大隊が出動する事態になる程には。
ただ冒険者の間ではその討伐のやり方もある程度は確立しているのだろう。それがこのダゴス山地を格好の狩り場足らしめている要因の一つなのである。
「俺の知る限り、暗黒龍討伐が可能なのはサゴマイザー・栖川、ただ一人だけだ」
――――伝説には伝説を。ロンバルト氏は最後にそう付け加えた。
「ふぅむ、話は理解した。それで、条件は?」
おお! マスターはどうやらこの話に乗るつもりらしい。後は条件次第。
「ああ、まず期間は四日間。その内の一日は現地までの移動、二日間で討伐を終え、残り一日は予備だ」
実質マスターが働くのは二日間という事か。
「時間はそれぞれ日の出から日没まで。当然現地には宿が無い訳だが、旦那専用に移動用とは別の馬車を一台付けるから、それを自由に使ってもらいたい。
それと先程も少し話したが、俺のギルドに出入りする冒険者の中でも選りすぐりの精鋭五人をお供に付ける。こいつらは暗黒龍出没地点までの案内と地龍討伐を行う。つまり旦那は暗黒龍ヴァギスタブルガ討伐のみに力を注いでくれればいいって算段だ」
「仕事にはノエル君も連れていきますが、彼女の寝所はどうなっているのかな?」
「討伐期間は旦那用の馬車とは別に冒険者のやつらが夜営を敷く。そこを使ってもいいし、旦那の為に用意する馬車は二人、三人なら十分に過ごせる広さだ。どちらでも構わねぇよ」
あらら、これは完全に夜営コースだ。
「それと食料もこちらで全て用意する。あと武器やら必要な物があれば言ってくれ。それで」
これが冒険者ギルドが用意した費用だ、とロンバルト氏は懐から取り出した依頼書に書かれた金額を示した。
うはっ! なんて大金だろう。先刻の傭兵依頼の十回分程に相当する。私ならそのお金で十年は暮らしていけるだろう。
しかしマスターはその金額を見ても顔色を微塵も変えず、一つ大きく頷いて。
「ロンバルト君、君もなかなか物事の道理をわかってきたじゃないですか。よろしい、その依頼引き受けましょう。ノエル君、契約書の準備を。その間に詳細を詰めておきます」
うん、どうやら暗黒龍の討伐が決定したようだ。ロンバルト氏も何度かこの店に足を運ぶうちに、すっかりマスターの扱い方を心得たようで。
「受けてくれると思ったぜ。俺も最初のうちは旦那にこっぴどく追い返されてばかりだったからな。そりゃ成長もするってもんだぜ。ちゃんとした条件を示せば旦那はどんな無理難題だって受けてくれる。ありがてえ話だ」
そう言ってロンバルト氏は、契約書を用意する私に向かって、ガハハとその髪の毛の無い頭を叩きながら笑ったのだった。