青に染まる
澄んだ月明かりの落とす影は、闇よりも濃い。
時刻は深夜零時を回っていた。
かつ、かつ、かつ。
人けのない住宅街を歩く自分の足音が、なんだか遠く聞こえる。
あまりに長いこと、何も考えず彷徨い歩いたせいだ。そのうちどこかから来た自分と出会いそうな気さえする。
沢木茉莉は、アスファルトに落ちる街路樹の月影を見つめた。
ああ、何だか生きてるのが嫌になっちゃったな。
そんなつぶやきが泡のように浮かんできて意識の表層で消える。
こんなことを考えるのは大悟のせいだ、彼の顔さえ見れば治る、いつもの病気だ。わたしは生きていたくないんじゃない、行きたいんだ。どこに? もちろん彼のいる場所、帰ってくる場所、そこがわたしの家だから。
では彼が今いる場所は?
今は南米の高い山の上、いつも空に近いところ。だからわたしたちは頭上で繋がっている。こちらは真っ暗だけど、彼の目の前は開けていてとても明るいのだろう。
出会いは四年前。フォトミュージアムの山岳写真展だった。
茉莉は大悟の撮った写真の前から離れられず、かかとを浮かせるようにして見つめていた。どの写真も、空が画面の半分以上を占めている。朝焼け、夕焼け、突き抜ける青、はるかな巻層雲にかなとこ雲、鳥の影。どれもこれも、茉莉が病のようにして抱えている、この世に生きてあることの喜びと悲しみとせつなさをかきたててやまなかった。
後ろに立っていた彼は茉莉がたまたま持っていたトートバッグのファイルの絵に見とれていた。
「ちょっとそれ、見せていただいていいですか?」
「え? ええ、はい、どうぞ」
それが最初の会話だった。喉の奥、腹の底から響いてくるような深い声で、大悟は言った。
「青がいいですね。この色の中に住みたい」
「あなたの青も、素敵です。じゃあ、一緒に住んでみます?」
冗談で言ったつもりだった。
生まれ育った古い茉莉のマンションに、初対面から二週間後、大悟は登山道具ごと転がり込んできた。二人とも年齢は同じ、三十二歳だった。
引越し道具はあとどれぐらいあるの、とあきれ顔の茉莉が尋ねると、大丈夫、寝袋とカンテラとコンパスとシングルバーナー、コッフェル一式があればだいたいの穴で暮らせると言い、昔茉莉の母親が使っていたウォークインクロゼットの中を居場所に決めてしまった。時には鉄アレイやトレーニングチューブで筋肉づくり、地図とにらめっこ。のっそり基地から出ると「食事よりきみだ」と勝手に茉莉に食らいつく。茉莉の細い体はどこまでもしなり、奥深く大悟の体を受け止めた。
「うちのクロゼットに雪男が住み着いたわ」そう言って茉莉は笑った。
「きみに見せたい空がある。一緒にアジアの極限高地を旅しないか」
あるとき大悟に言われて、茉莉は首を振って目を伏せた。
「両親は、銀婚式記念に出かけたアメリカで、飛行事故で死んだの。わたし、飛行機には乗れない。わたしの代わりに、世界中の空を見てきて」
大悟は黙って茉莉を抱きしめた。
乏しい街灯の中にひときわ濃い、闇の塊を見つめる。
背の高い槇や楡の木の向こうに、風見鶏の乗った、勾配のきついうろこ屋根が見えてくる。
長い長いこと、無人のまま野ざらしになっている洋館だ。ハリボテでなく、本物の石造りの。
広い庭に向かって張り出した半円形の応接室、観音開きの高窓に木製の鎧戸。そのすべてを覆う猛々しいほどの蔦は、十二月の冷気の中、朱色に染まっている。その葉っぱもここのところの冷え込みで日々落ち始め、草木の生い茂る庭をひと色に染めていた。
半分崩れた煉瓦の塀、門柱の上の灯りもガス灯のようにどっしりしたデザインだ。この意匠にこだわった人は今、どこでなにをしているのか。
荒れ藪のようになった庭では、ときどき猫やハクビシンの走る姿も見えた。遠くに大きな石灯籠と、干上がったままの池も見える。
風見鶏がまだきしまずに回っていた小学校の四、五年の頃、茉莉には一度だけ、この家に上がった記憶があった。
母も父もあまり近所づきあいをしない人で、この家の住人とも交流があったわけでもなく、どういう経緯だったかははっきりしない。
確か、いつものようにとんがり屋根の上でくるくる回る風見鶏に見とれていたら、門の中から同年代か少し上ぐらいの男の子が出てきて、
「うちに来る?」
と唐突に誘ってきたのだ。
さらさらした茶色っぽい髪の毛で、色の薄い寂しげな眼をした、線の細い子だった。小学校で見た覚えはない。裕福そうな家だったから、私立小中に通っていたのだろうか。
そこからの記憶はばらばらのスナップショットのように、所どころが切り取られて鮮やかに残っている。
茉莉が最初に通されたのは、あの庭に向かって半円形に張り出した部屋だった。白いテーブルクロスのかけられた丸いテーブルを囲むように並ぶ豪華な椅子は、背もたれが凝った彫刻を施された木製で、くるりと先の曲がったひじ掛けがあり、座面は絹のような光沢のある縞模様の布だった。白い手首が「はい、どうぞ」と銀のお盆に乗ったお紅茶を出してくれた。
「この子ね、今日で十三歳になるのよ」
そのひとの顔ははっきりしない。そしてそのとき邸内にいた子どもたち、たぶん彼の兄たちだと思うのだが、品のいい服を着た二、三人が部屋に入ってきて、一緒にトランプ遊びをした。トランプの絵柄は確か、ロンドンブリッジを渡る二階建ての赤いバスだった。
最初のお茶菓子は白い砂糖菓子で、かじるとほろほろと崩れ、今でいえばマカロンのようなものだった。つぎつぎと出される果物や焼き菓子、上等な生クリームの乗ったケーキ。そんな贅沢なお菓子をいただきながら、大して親しくもない子とやる七ならべ。緊張と憧れと、頭上から微笑んで見守る年配の女性の記憶。
確か、初夏だった。
あの午後の不思議なひとときは、本当にあったのだろうか。少年はヒロ君、と呼ばれていた記憶がかすかにある。庭の池の錦鯉に麩をやったことも、去り際、少年がきゅっと思いを込めて茉莉の手を握ったことも、おぼろに覚えている。
この記憶を、大悟に語って聞かせたことがある。彼は笑って答えた。
「夢物語かもしれないし現実かもしれないし、でもホントにあったことだって思った方がロマンチックだね」
そんな会話を思い出していた時。
あの半円形の応接室の内側に、突然ぼうっとオレンジの光が見えた。
一瞬、街路灯の光でも反射したのかと周囲を見回したが、ぼうぼうと茂った雑木の陰のその窓に反射する光源はどこにもない。
光は廃屋の窓の内側に「突然、灯った」のだ。
茉莉は反射的に、太い電柱の陰に身を寄せた。
蔦の張った出窓の内側には目隠しのためか薄い紙のようなものが貼ってあったが、光源はその内側をオレンジ色にぼんやりと光りながらゆっくりと移動している。
上下を行きかいながら、ふらふらと揺れる。そしてときに消え、また現れる。それはまるで、光が「何かを探している」ようにも見えた。
そうするうちすっと光は消え、窓のなかはただの闇になった。と次の瞬間、それは、玄関ドアのひし形の窓の内側にぼうっと宿った。
それまで動いていた光が、こちらに向かったまま静止し、そしてひときわ光を強めた。それは現実の光というよりも、一つの意志、あるいは「目」のようにも見えた。
見つかった。なぜか茉莉は瞬間、そう思った。
凍るような風が青桐の枝をざわざわと揺らす。突然、玄関ドアが
きいいいいい
ときしみながら開いた。
茉莉は電柱の陰から飛び出て、夜道を走りに走った。振り向かない、絶対あとを見ない、と心に決め、もつれそうになる足を必死に前に運ぶ。後ろからの足音は聞こえない、けれど確実に何かが来るのがわかる。見てはいけない何かが。振り向いたら、持っていかれる……
やみくもに道を曲がり、やがて目の前にすらりと伸びた坂道に至る。ここを上るのだ、坂が終わるまで。
延々と続く勾配のゆるい坂道の、どん詰まりのカーブを道なりに左に曲がってすぐ見える背の高い山茶花の木、その隣の古びたマンションがわが家だ。色の濃い花は今が花盛りで、街灯に照らされて夜目にも鮮やかだ。オートロックのキーを穴に差し込み、両手でマンションのドアノブを押して入る。がちゃんと重い音を立ててドアは閉まった。一階で止まっていたエレベーターのドアはすぐに開いた。
半分目を閉じるようにしてエレベーターを降り、三階の外廊下を歩き、部屋に入る。ドアを閉め、チェーンをかける。誰もいない部屋の、冷え切った空気。聞こえるのは、タニシと水草の入った水槽のエアーポンプのぷくぷくぷくという音だけ。茉莉は灯りをつけると靴を脱ぎ、ぺたりとフローリングの床に座りこんだ。
目の前の飾り棚の木枠のフレームの中で、大悟がチベットのカイラス山をバックに笑っている。髭面の笑顔の向こうの空は、突き抜けるように青い。ろくに部屋にいつかないのに、部屋の中には彼の、焦げ臭いような清々しいような、不思議な香りが漂っている。ときには知らない花の香りがすることもある。茉莉はそんなとき、根拠もなく、ああ彼が今歩いている山道の花の香りなんだ、と思う。
そのとき、薄いレースのカーテンを引いたままの窓の外から、微かな声が聞こえた。
「にあぁおう」
「クロちゃん!」
茉莉は駆け寄って窓を開けた。水にぬれた鴉のようにつやつやした闇色の黒猫が、ベランダから飛び込んできた。鼻の頭だけがちょっと白いのが特徴の、青い目の美猫だ。
「やっと帰ってきた。一週間も留守にして、悪い子ね。もう、会えないと思ったのよ」
クロは茉莉の胸に抱かれると、ゴロゴロと喉を鳴らして濡れた鼻を摺り寄せてきた。
この子はもともと自分の飼い猫ではない。三階建ての背の低いマンションの外に生えている山茶花の枝を伝って入り込むようになった気ままな野良ネコだ。おそらくは何軒かの家を渡り歩いては、甘い声と愛想の良さで餌をもらっているということが、体つきと人懐こさでわかる。
遠い国から大悟が帰還して、二人でいられる短い時間、よくクロを中心に川の字になって寝た。こいつ邪魔だなあ、ホントに図々しいわね、と笑いあい、それぞれの手でお腹を頭を撫でながら。
「おなかすいてる?」
小皿に煮干しと鰹節をあけると、クロはひとくちふたくち舐めた後、窓を振り向いた。
「なにか、いるの?」
茉莉は恐る恐る話しかけた。今しがた走って逃げて振り切ったものが、背の高い山茶花の根元に立っているような、そんな気がしたのだ。
クロはひと声、なんでもないよ、という風になーお、と鳴くと、そのまま隣の茉莉のアトリエにしずしずと入っていった。白い壁にいくつも描きかけのアクリル画や油絵が乱雑に立てかけてあり、さまざまな絵の具を混ぜたにおいがねっとりと充満している。その隅に敷いたマットが、茉莉の創作中の寝床だ。目が覚めればすぐに、大悟の撮ってきた写真が目に入る。壁を埋め尽くす絵に邪魔されないように、写真はみな引き延ばして天井に貼ってあるのだ。その写真のイメージをモデルに、茉莉は毎日カンバスに向かう。
「チベットの高地でよく見るカラフルな旗がある。祈祷旗といってね。そのひとつひとつには経典が書いてあるんだ」
カイラス山から帰った夜、大悟はラム酒をたらしたホットミルクを飲みながら説明してくれた。
「山の頂上とか湖の畔、あちこちに旗がはためいてる。その旗が揺れるたびに仏の教えが世界に広まると、チベットでは考えられているんだ。
中央には、馬が描いてある。色の順番は決まっていて、青・白・赤・緑・黄の順、それぞれが天・風・火・水・地を表現してるんだ。旗が風にはためくと仏法が風に乗って広がると信じられているんだよ。壮大だろう?
風葬、というか鳥葬のための平岩のはたに、よくボロボロになって揺れてたな。あのあたりは木も生えないし土色一色なんで、余計にあのカラフルな旗の色は忘れられないよ」
一旦喋りだすと大吾はいつも饒舌になる。高地の紫外線に焼けた肌は渋紙色で、髪はくせっ気でくるくる、目は奥深く穏やかだ。そして、実際に死者を平岩の上でどのように鳥葬にするかを、淡々とよどみなく語る。
「遺体を寺まで運ぶのは家族とか親戚だけど、父親が若くして死んだ場合、長男にあたる年端も行かない少年が背負って岩山をのぼることもあるよ。なんだか、胸迫る光景だった。
そしてその道中、どんな拍子であれ後ろを振り向いてはいけない。これが掟だ。振り向くと、死者に家への道を教えてしまうことになるからね」
なにかを思い出した時のそのゆっくりとしたまばたきも、茉莉は好きだった。
「ハゲタカや野犬の待ち構えている荒野の平岩の周囲を旗で囲い、ラマ僧が祈りを捧げ、体にまいていた白い布をほどく。そして素っ裸にされた体が、鳥葬師の斧に任せられる。ここから先のことは、ちょっときみには言わない方がいいと思う」
「うん、だいたい想像つくわ。わたしだって生きのいい鯵をまな板に乗せて、おなかを包丁で裂いて内臓ひきずり出して、ぜいごをとって三枚におろして、小骨取って、包丁で身を叩いてネギと混ぜるもの。要するにそういうことでしょ」
「凄い返事だね。そこに味噌をまぜて焼けば、ぼくの好きなサンガ焼きだ」あっさりと受け止める茉莉に驚きながら、冗談交じりに大悟は言った。
「確かにきみが日常包丁を握ってやってることだね。それを、ひとのからだで、ハゲタカたちに供するために黙々とやるんだ。処理も終わらないうちに、腹をすかせた鳥や犬たちが寄ってたかって食いあさって、あっという間になくなる。砕いた骨は青麦を山羊の乳で練ったもので団子にしてあまさず与えるからね。ほんとに何にも残らない。あれは風葬とか鳥葬とかいうより、野の命への施しだな。いっさい、恩を着せない形でのね」
「親族はそういう葬儀に対してどう感じてるのかな。誰も泣かないの? 遺品は大事にするの?」ミルクを両手で抱えながら、茉莉は聞いた。
「その場には鳥葬師と介添え人しか参加しない、遺族は寺で待つ。縋って泣く遺体なんて、なんにも帰ってこないんだよ。終わった、という報告だけだ。でも彼らにとって、魂の去った肉体には価値はない。共に生きる命たちへの、供物、というよりは、施しの食べ物。そんな風にして、生と死をあっさり見送る。死者のものは持ち物から服から、何も残さない。写真も焼き捨てる」
「そんな場所の空の色は、天に近い分、凄い色でしょうね」
「そう、空は吸い込まれるように青くてとても近い。そして果てしなく広い。空は翼を広げた鳥の場所だ。人は見上げることしかできない。多分いつか、あいつらに食われるんだな、と、川の流れでも見るように思いながら、地上で家畜を殺して食べて生きる。そして死んで、川の魚のように鳥に食われる」
ああまっとうなことだ、とてもまっとうだ、と茉莉は思った。
それから、とても自分ではカメラにおさめられなかったという大悟の語る、死んだ父親を背に負う少年の絵を自分のイメージで描いてみた。
勢いをつけてひと晩で描き上げたその絵は、縦横一メートル以上あり、アトリエの一番目立つ場所にかけてある。背を丸めながらもまっすぐ前を見つめる少年の地を踏みしめる細い脚、その背中で布にくるまりながら長い腕をだらりとたらす父親、足もとをついて歩く野犬。黒の輪郭線の上に、さまざまな種類の水彩の青をにじませながら何色も何色も重ねた。
いい、とてもこれはいい、なんでわかるのかと思うぐらいぼくが見たとおりだ。とその力強い絵を大悟は何度も褒めた。でも、寝室にはかけたくないけどね、と笑いながら付け加えて。
クロがなあお、と小さな声で鳴いて茉莉のあごに頭を擦り付けてきた。茉莉はその柔い体を抱きしめた。あたたかい、やわらかい。あなたは生きている。生きているって、こういうことだ。
わたしはどうなの? わたしのからだは、ほんとうに、ここにあるの? 大悟は、生きてるの?
「おいで、クロ。一緒に寝よう」
茉莉はクロをマットの上の羽根布団の中に引き込んで毛布を掛けた。クロは久しぶりの好待遇に喜んで、茉莉の頬をザラザラと舐めた。
「ありがと、でもちょっと痛い。もうちょっと、やさしくね」
茉莉は笑いながら顔を左右に振った。
ああ、このざらざら、大悟の無精ひげみたいだ。
もう、ひと月も大悟の顔を見ていない。
大悟に会いたい。あの大きな体に思いきり抱き付きたい。あなたと一緒に、天空の青に染まりたい。
青く澄んだ水を湛えたミスカンティ湖、フラミンゴの飛来する真紅の湖コロラダ湖、そして世界最大のウユニ塩湖の絶景。空と大地と水が境目なくつながる、鏡のような夕焼け。その中を、彼の乗ったジープが行く。彼の見ているであろう風景が、幻の映像のように茉莉のまぶたの裏に広がる。
茉莉、マリちゃん……
窓の外から風に乗って、かすかな声が聞こえてきた。鼓膜を震わせているのか頭の中から湧いているのかも定かでない、男とも女ともつかない優しい声。でも、きっと寂しさが作り出した幻聴だ。それでもなぜか、茉莉は切なくうれしく、クロを胸に抱きながら、ほろりと涙がこぼれた。
一面のオレンジ色の湖面に、優しい誰かの声が重なる。
おやすみ。何も考えずにおやすみ、マリちゃん……
「あと一回、一回でいいの、わたくしの家に入らせてちょうだいよ」
「ほらほら、お望みに従っておうちの周り一周しましたから、もうこれでいいでしょう」
その朝、外から聞こえてきた声に眠りを破られて、茉莉は布団から体を起こした。クロの姿はない。細くあいた窓から出て行ったのだろう。山茶花の木伝いにそっと道を見下ろすと、車道の向かいで、施設の名前の書かれた車椅子を介護士であろう女性がしきりになだめながら押しているところだった。
「富美子さん、頭はまだまだしっかりしていると思うからこそ、閉鎖じゃなくて一般居住階にいられるんですよ。目だってお悪いのに、あんまり何度も脱走されると閉鎖階に入れられちゃいますよ」
「わたくしがわたくしの足で家に帰って何が悪いの。あそこはわたくしの家なのよ、だいじな家なのよ、あなたがたがわたくしをとじこめてるのは、ただの収容所じゃない」
白髪を上品に頭の後ろで結ってひざ掛けをかけ、手袋をした老婦人は、白い額に皺を寄せて抗議していた。
「痛風がお酷いのに、よくそんなお体でおうちまでお帰りになれるものですねえ」
「世の中にはタクシーってものがあるのよ、それにまったく歩けないわけじゃないわ。昨日なんて、タクシーを降りてからこの足で鍵を開けて、自分の足で探し物を見つけて帰ったのよ。車椅子なんていらないわ」
「困りましたねえ。もううちの『希望の家』にいらして十年近くになるんですよ。そろそろ、知らない収容所から知ってる家に格上げしていただいても……」
「わたくしのおうちは、あそこです。あなたなんかの口出すことじゃありません。息子たちがもし帰っていたら、どうするんですか。お茶のひとつも出さなくちゃ」
「それでもまあ、探していたものが見つかってよかったですね。これでもう、懐中電灯なんか持って入り込む必要はないですね」
「あるわよ。わたくしが行くと集まってくれる子たちがいるもの。みんなお腹を空かせて、わたくしのあげるごはんを待っているのよ」
「猫とかハクビシンのことなら屋根裏に巣でもつくられると家が荒れますよ」
「名前がちゃんとあるのよ、青い目の黒猫のクロちゃんにハクビシンのタロちゃん、タヌキの親子だっているんだから」
青い目の黒猫? クロのこと?
茉莉は思わず立ち上がり、部屋着の上に長めのコートを羽織ると、玄関のドアを開けた。
「さ、帰りましょう。もうお気が済んだでしょ」
「済んだなんて誰が言ったの。……あら」
老婦人は玄関から現れた茉莉を見ると、言葉をとぎらせ、介護士を見上げた。
「この道を渡ってちょうだい。あのマンションまで」
「でも、あそこは……」
「いいから早く。そしたら帰るわ」
介護士は仕方なく車椅子を押して車道を渡り、茉莉の前まで来た。そしてとまどったように立ち尽くした。老婦人はにっこりと笑うと、
「こんにちは」
とはっきりした声で茉莉に言った。
「こんにちは」茉莉も挨拶すると、知り合いにいたかしら、と彼女の親し気な笑みを不思議に思いながら尋ねた。
「あの、突然すみませんけど、部屋の中からお話が聞こえてしまったんです。青い目の黒猫のお世話をしていらした、とか……」
「ええ。野良にしては毛並みのいい、ほっそりした美しい子よ。黒いからクロちゃん。簡単にそう呼んでたの。鼻の先だけちょっと白いんだけどね。わたくしのおうちに通ってくるから、時々帰ってはご飯をあげているのよ」
「その猫、たぶん、うちでも飼ってます。いえ、……時々来てます。わたしも、クロって呼んでるんです」勢い込んで、茉莉は言った。
「まあ、どちらが本宅かしら」
「多分ごはんの美味しい方ですね」
「ごはんの美味しい別宅が他にもあるかもしれないわねえ」
お互いに笑いあったあと、老婦人はふと笑みを引くと、しみじみした顔になって、皺だらけの手を伸ばして茉莉の手をそっと握った。
「ああ、大きくなって、お綺麗になって……」
「え?」
「たったひと晩で、こんなに大きくなって。それでも、綺麗なお目目は、あの時から変わらないわ」
「……?」
白内障気味の老婦人の灰色の目には、深い遠い悲しみと喜び、憧憬と悔恨、さらに何か名指し難い思いが揺れているようだった。
そのとき、マンションの角から大柄な男性の姿がふっと現れた。
濃紺のライダースジャケットを着て、背には大きめのリュック、足元は登山靴。鼻の下と顎にひげを伸ばし、サングラスをかけている。片手には青い薔薇の花束。
茉莉は男の姿を見ると両手を口元にあて、短く叫び声をあげると、思わず駆け寄った。
「大悟!」
男はサングラスを外した。顔面は蒼白で、充血した目は中空を泳いでいた。
そのとき、老婦人の手元からひらりひらりと小さなカードのようなものが飛んできた。風に乗り、大悟に向けて、真っ直線に。
つま先でつととどまったそれを拾うと、トランプのカードだった。ハートのエースだ。カードの背表紙を見た大悟は、思わず瞳を広げた。
ロンドンブリッジを渡る、赤い二階建てのバス……
……記憶の中で、何かがはじける音がする。
「あらあら、拾ってくださって、どうもありがとうございます」車椅子を押していた女性が走り寄ってにこやかにカードを受け取った。車椅子の老婦人は手で懸命に車輪を回し、すぐそこまで来ていた。
介護士は大悟に頭を下げると小声で言った。
「ごめんなさいねえ、この方ちょっと痴呆気味で、介護施設の脱走の名人なんです。今も、誰もいない空間に向かってひとりでしゃべっていたでしょ。よくやることなんです、変に思われたでしょう」そこで言葉を切ると、ふと驚いた顔つきになった。「ところで、あなた、あら、失礼ですけど、もしかして冒険家の、あの、沢木……」
大悟が答えずにいると、
「大悟さん、ですよねえ、テレビで拝見したことがあるわ。本も読んだことがあります。あ……の」そこまで言って彼女は大悟の顔色に気づき、後ろのマンションを見上げた。
真っ黒に焼け落ち、外側だけを残してがらんどうになったマンションの前には「立ち入り禁止」の黄色いテープが張られ、山茶花の木が炭の棒のようになって突っ立っていた。
「ひどいですよねえ、ここ。一階の洋食屋さんの油の不始末で全焼ですってね。一週間もたつのにまだ焦げ臭いわ。女性がおひとり、亡くなったそうですね」
「自宅です。妻の茉莉が僕の帰りを待っていました」大悟は短く答えた。
介護士は両手を口に当てて絶句した。
老婦人は灰色の目で大悟を見ると、嬉しそうに言った。
「あなたから、すがすがしい空の匂いがするわ。高い高い、はるかな風の匂いだわ」
大悟は老婦人を見下ろすと、囁くような声で答えた。
「……空の匂いがしますか」
「ええ、とても蒼い香り。山から下りてきたばかりなのね、遠い山から。よくご無事で」
「あのね、富美子さん、そこまでで……」介護者が声を抑え気味にして言うと、大悟は続けて呟いた。
「いつも雲の上にばかりいて、親戚から知らせを受けてできるだけの手を使って帰国したんですが……。間にあいませんでした」
振り仰ぐように最上階の真っ黒な窓を見上げる。
いつも見下ろして手を振ってくれた茉莉の姿は、そこにはもう、ない。
「火事の知らせを受けたのがボリビアの高地で、ジープが落石の連続で故障して修理もできず、他人の車を乗り継いで空港にたどり着いて、やっとチケットを手に入れて日本に帰ったのが、火事から一週間後です。で、もう、何もない。妻も、猫のクロも、彼女の絵も、痕跡も、なにもかも…… 全部、燃えてしまった」
そこまで言うと大悟は口を閉じ、しばらく喉の震えを押さえてから絞り出すように言った。
「おかしなものですね。
ぼくは、見続けてきたんです。
痕跡も残さず葬られる人々、ひと言も残さず地の果てで息絶える巡礼者の死、崖から落ちていく車、野生のものたちの最後も。
いっさい未練を残さないその最後を、まるで日常のことのような思いで見てきた。それでも消化しきれない感情もあった。
だから妻に帰るたび、語って聞かせてきたんです。彼女はその風景に宿る痛みを、絵にして浄化してくれた。
でも、だめですね。なにも言わず、いきなりいなくなる、消えてしまう、ことに、あれだけ見てきてわかったつもりでも、いざ自分のことになると涙も出ない。なにがなんだか納得のしようもなくて。今も思ってます、これは幻の中の情景なんじゃないか、死んでいるのはぼくの方なんじゃないかと」
そんなものです、……ひとの気持ちってそんなものですよ。
介護士の女性は囁きながらそっと右手を大悟の背にあてた。その隣でトランプのカードをくるくるとひっくり返していた車椅子の老婦人は、からりと言った。
「でも、黒猫ちゃんは大丈夫。ちゃんとご飯を食べに来てますよ、わたくしのおうちに。ネズミもモグラも住み放題ですからね」
「こんなときに、また。おやめなさい」慌てて遮る彼女を押しとどめ、大悟は尋ねた。
「クロをご存じなんですか」
「ええ、よく見たわ。すばしこい子だから、火事のとききっとマンションの窓から逃げたのね。お鼻の頭だけ白い、美人さん。そしてね、山男さん、あなたが拾ってくださった、これ」
老婦人は大事に握っていたトランプのハートのエースを大悟の目の前に翳した。
「わたくしの宝物なの。ようく見てちょうだい」
そう言って、赤いハートの面を指差した。大悟は手に取ってカードを見つめた。とても小さな字で、ハートの下にこう書いてあった。
『また、遊びに来てね。マリちゃんへ』
「わたくしの息子がね。ヒロカズが、本当はトランプごとプレゼントするつもりで、でも、恥ずかしくてできなかったみたいなの。あの子の初恋ですのよ」
そう言ってひざ掛けの下から残りのカードが入った古びたプラスチックのケースを出して見せた。
「あなたのおうちには、風見鶏がありますか」大悟は震える声で尋ねた。
「はい、それはわたくしの家です。そしてこれは、わたくしの大事な思い出の品です。十四歳で肺炎で死んだわたくしの息子、ヒロカズが、十三歳のお誕生日にマリちゃんという女の子と遊んだ、思い出のトランプですのよ。きのう、やっと自分でおうちに入って見つけてきたの」
赤いハートと稚拙な字を、大悟はじっと見つめた。
「わたくしはね、地方の名のある旧家の出なのよ。でも親の歓迎しない妊娠をしてしまい、相手は逃げ、親には堕ろせと言われました。
その子を産むために家を出てからは、口にできないような苦労の連続でしたわ。東京でシャンソン喫茶の歌手になって、亡くなった主人に見初められるまではね。彼は裕福な実業家で、奥様を早くになくして三人の息子さんがいました。そこに、四十を過ぎて後妻に入ったんです。子連れでね。
わたくしはもちろん、実子も継子も平等に育てるつもりでしたよ。でもあの子は転校した学校でも、血のつながらない兄たちからも距離を置かれて、寂しい寂しい毎日でした。そして十三歳の誕生日、時々見かける可愛いお嬢さんを、おうちにお招きしてしまったのよ」
「……」
「わたくしは歓迎しましたよ、もう嬉しくて。マリちゃんという、お人形のようなお顔のそれはかわいらしいお嬢さんでしたよ。美味しそうにお菓子を食べて、トランプをして、お庭をあの子と見て回って、二人ともとても楽しそうでした。
でも数年して夫がなくなると図々しい親戚が入り込んできて、それからは修羅場よ。こんな売女は追い出せ、とこうですからね。それで一度軽い脳こうそくを起こしたあと、気が付いてみたら知らない施設に入っていたわ。義理の息子夫婦たちも仲が悪くて、みな出て行ってあの家は空っぽ。きれいなのはあの日の思い出だけです」
ほんとうは、……夢だと思っていました。妻の話を。
大悟は心の中で呟いた。
「ね。わたくしとあなたが語り合っている今も、わたくしが道を走るマリちゃんを見たのも、夢かもしれないわね」
「見た? いつのことですか」胸の中を読まれた気がして、大悟は語尾に重ねるようにして尋ねた。
「昨日の夜よ。トランプを探しに家に戻ったとき。相変わらずの小さな背で、初めて会った時と同じ姿で、ふわふわカールしたお人形のような髪型で、暗いお道をおうちに向かって急いでいたわ」
老婦人の後ろで介護士が無言で胸の前で腕をバツにして見せた。まともにとらないで、というしるしと知りつつ、大悟は背をかがめて老婦人に尋ねた。
「そして、クロは生きているんですね」
「ええ、あなたの抱えているその薔薇と同じようにね」
「安心しました。いろいろ、……大切な思い出をお聞かせくださって、ありがとうございました。
なんだか、救われた気持ちがします」
大悟は深く頭を下げた。そして、一抱えもある青い薔薇の花束を両手で老婦人に手渡した。
「よろしければ、これ、受け取ってください」
「あの、これはだって、亡くなった奥様への……」介護士が狼狽した様子で言うと、大悟は静かな声で言った。
「いいんです。火事現場に捧げるつもりでしたが、それでは枯れるだけです。
お話を伺って、何か、山の中でたどり着いた泉で綺麗な水を飲んだような気分なんです。
この子たちにも水をたっぷりやって、お部屋で香りを楽しんでください」
老婦人は薔薇の花束を押し頂き、花々に顔をうずめて囁いた。よかったわね、あなたたち。優しい人に買ってもらって。一緒に生きましょうね……
ああ、なんて、なんていい香り……
「富美子さん、よかったですね。さあ、もうこれで安心して帰れるでしょう」
老婦人は介護士の言葉に頷くと、大悟の顔を眩しげに見上げて言った。
「ねえ、山男さん。
あなたが愛する人に心を込めて言う言葉は、みんなきっとちゃんと届いていますよ。茉莉ちゃんはそばにいて、一生懸命聞いていますよ。あなたからは見えなくても。
眠れない夜は、子守歌を歌うといいわ。わたくしも、息子を失ってからよく泣きながら歌いました。歌はね、子守歌は、歌う人の魂も聞く人の魂も、清めてくれるのよ。
寂しかったら、語りかけてあげてちょうだい、失った人に。
ちゃんと、そばにいらっしゃいますよ。わたくしが保証します」
「ありがとうございます。毎日、語り掛けます」
言ったとたん、見ないふりをしていた現実がいきなり魂に届いた。
茉莉はいない。
生身の茉莉はもう、どこにも、どこにもいないのだ。
別れの言葉も感謝の言葉も置きざりにして、消えてしまった。もう、逢えない。どこへ行っても、決して、あのすがたと声には逢えないのだ。
手で口を覆い、俯いて身を震わせる彼の下で、老婦人は手元の布袋を探り、金魚の模様のタオルハンカチを取り出して手を伸ばした。
「届かないわ。いやあね、生きれば生きるほど小さくなるってどういうことかしら。あなたの頬っぺた、富士山のてっぺんにあるみたい」
大悟は泣き笑い顔で老婦人のハンカチを受け取り、両目にあてると、しばらく声もたてずに慟哭した。その背中を、介護士の手が優しくさすった。涙は止まらず、手は暖かくそこにあり続けた。
ふと目を開ける。手元にハンカチを残したまま、花束を抱く老婦人が介護士に押されて去って行くのが見える。
施設の送迎バスが揺れながら十二月の道を遠ざかるのを、大悟は茫然と見送った。
そのとき。
肩にひとひら、赤い花びらが舞いおちた。
あの玄関前にかつて咲いていた、山茶花の花びらだ……
大悟は花びらをつまみ、濡れた頬を手の甲で拭くと、空を見上げて深呼吸して、花びらにくちづけた。
茉莉。そこにいるのかい。
さあ、行こう。
きみにはもう、飛行機なんていらないだろう。
キリマンジャロの雪、エチオピアの高地。ボリビアのウユニ塩湖、カイラス山、五千メートルの標高を巡礼する南米の人々。青い青い、果てしなく広い空。そして、エベレスト。どこよりも、天に近い場所。
言葉でも、写真でも、とても伝えきれなかった、ぼくの見た世界。
茉莉、聞こえているかい。
一緒に、青に染まろう。