プロローグ
好きな食べ物はありますか?
この質問に対して、大概の人は『はい』と答えると思う。誰にだって好みというものはあって、それは人それぞれであるのが当然だろう。その多い少ないにだって差はあるし好きの度合いに関してもそうだろう。
もう一つ質問。
どうしてその食べ物が好きなのですか?
これは『はい』や『いいえ』で答えられないので、色々な答え方があるはずだ。トマトが好きな人だったら、『あのプチプチした食感がたまらない!』と答える人や、もっと根本的に『味が好きだから』と答える人など、様々だろう。
きっと誰しも、食べ物に関してではなくとも好みというものはあると思う。ドラマやアニメ、漫画に小説、勉強の科目や服のデザイン、エアコンの温度。好みの理由は様々で、人に聞けばいろんな意見がきっとたくさん出てくると思う。
あなたは誰かと、このような好みについて話したことはあるだろうか?例えば、『あのアイドルグループのなかだったら誰推し?』のような。そんなとき、推しが一緒になることもあるはずだ。そんな時はだよねだよね、なんて言いながらお互いに魅力について語り合う、なんてこともあるのだろう。反対に、意見が食い違うこともあるだろう。また、そのグループに興味がないこともあるかもしれない。
そのように、自分の立場が相手と異なったとき、なんとかその魅力を相手に伝えようとしたことはないだろうか。こういうところが良くて、こういうところが素晴らしくて、みたいにアピールをしてみたりはしないだろうか。
私は、そういうことがよくあった。けれども大概の場合その魅力が伝わって関心を持ってもらうということはなく、そもそも話の途中でその話はもういいよ、と言われてしまうのが大半だった。私も伝わればいいなとは思うけれど自分だって全然知らない興味もないようなジャンルの本や音楽などを紹介されても正直うざったいなと思うことがあるので、仕方がないと諦める。興味が湧くことだってあるが、ごく稀だ。
だが、どうしてそんなにも興味がわかないものに関して関心を持つのは難しいのだろうか。一度関心を持って詳しく掘り下げてしまえば興味が湧くこともあるというのに、その関心を持つことはなかなか大変だ。それが無関心であるわけではなくて、嫌いであるというのならば尚更好きになるのは難しい。
そこで私はある一つの仮説を立てた。
『自分とは異なった立場にある人のことを理解できないのは、その感覚や考え方が自分の中にはないからではないだろうか。』と。
自分の考え方の中にその考え方がないからわからないのだと思ったのだ。だから、共感することも関心を持つことも難しいのではないかと。自分の嫌いな食べ物を美味しいという人の気持ちが理解できないのは、美味しいと思っている人の感覚が自分の中にはないから。外国の文化が理解できないのは、自分とは異なった習慣や文化の中で生きる感覚やその考え方が自分の中にはないから。人それぞれ育った環境が違えば、考え方も違う。思考する量だって違うし生きた時代や時間が違うかもしれない。
共感するのは難しい。だってそれはあなたの中にあって私の中にない。私にあってもあなたにはないかもしれない。理解できないことがあるのは仕方ない。だって、わからないことすらわからないから。自分の常識が通用する世界の中で普通は生きていくから、常識が常識じゃないなんて考えない。
私は以前死にたいと思った時に、ネットの記事を読んだ。死んではいけない、死ぬことは幸せになることではないと画面越しの知らない人は自分の経験や知識なんかを交えて、たまに後悔なんかも書き記しながら死ぬことのデメリットや生きることの素晴らしさを唱えていた。世の中でだって生きることは素晴らしいことだと言われていて、それが当たり前だとされている。そのどれもが私には納得ができなかった。共感ができなかった。その考え方や理屈を素直に自分の中に取り入れることが難しかった。
でも、後から考えてみて思ったことがある。その人たちは生きているから私は共感できないのだ、と。私が共感できなかった人は死ぬことを考えたことがない人かもしれないし、はたまた自殺未遂までした人かもしれない。でも、その時の私のように、今この瞬間に死にたいという感覚を憶えている人ではない。今死にたがっている人の文章ではないし、意見ではない。その人たちは、今私と繋がることができるのは、生きている人や、生きていた人なのだ。生きることを讃えて死ぬことを咎める記事を書きながら死にたいと願う人なんて、私は知らない。だから、共感できないのも納得できないのも当たり前ではないのか、なんて思ったのだった。
その場に立った人しかわからない感覚、その場に立っている人しかわからない感覚。そんなもので世界は溢れていて、私は傷つけたり傷つけられたりしている。それが私には嫌だった。理解できないというだけで、わからないというだけで視野は狭くなる。だからみんな自分勝手に生きる。自分ばっかり可愛がって相手がどうなったって知らないなんて言って、相手のことをわからないから区別するし、貶す。そんな汚くて醜いところも嫌だった。
コミュニケーションで共感を得ることにも限界を感じていた。会話で伝えられることもある。そこから何かを得て糧にできる人もいるかもしれない。それでも、それが本当に自分の持っているものと同じであるのか、それとも全く別のものであるのかなんてわからない。ずっと一緒に生活していたって、伝えられないこともある。
だからといって、考え方や感覚なんていうものをどうやったら習得できるのかなんて皆目見当もつかない。手詰まりだ。
だから私は『共感するための装置』というものを生み出そうと思ったのだった。
共感することができるということ。
その感覚を得ることができるいうこと。
その考え方が理解できるということ。
世界が変わるはずだ。わからないものがわかるのだから。そこに感情を植え付けるのではなく、そういう感覚や考えがあるということを知ることが大切だと思ったのだ。
それを誰かと共有しているのならば、きっと今より優しい世界になる。全員が共有することで、変わることもきっとある。
嫌いな食べ物だって、新たな気持ちで再挑戦できるはずだ。興味のなかったアイドルだっていろんな見方を知れば魅力をみつけられるかもしれない。どんなに嫌味な先輩だって、先輩がどんな考えでどんな心持ちで生きているのかを知ることができたのなら少しは好きになれるかもしれない。妊娠している女の人の感覚を学校教育で義務化すれば、席を譲る人が増えたり、無責任な行為が減ったりして、命に対する配慮が今より徹底されるかもしれない。自殺したい人が生きている人の考え方を知ることができたのなら、もう少し頑張れるのかもしれない。もしくは親の出産時の感情を共感できたのなら、自分に生きる意味を生み出してくれるかもしれない。子供だった頃の感覚を思い出せるかもしれない。大人になった人の考え方を得られたらもっと広い視野を持てるのかもしれない。極悪な犯罪者も被害者の感覚を得たらもしかしたら考え方も変わるのかもしれない。
そんな希望を抱いた。そんな夢を見ていた。そんな世界に生きてみたかった。
私はそんな世界に憧れた。
試作品をいくつも作り出しては改良を重ね、研究に没頭すること約20年。理想に合致する装置はできあがった。
共有できるのは記憶、感覚、思想、そして心。共有される人、つまり自分が相手に共有するものを送る人が共感してほしいと望んでいる場合にのみ送ることができる。
この完成品は98%の確率で望むような程度で共感を促すことができる。残りの2%は、精神的に不安定であったり薬物を使用していたり、物心がついていない小さな子だったりである。
この装置が社会に浸透すればきっと、もっと優しい世界ができる。傷つく人も、傷つける人も減るはずだ。わからないことが減れば、暖かい世界になるに違いない。きっと、そうだ。
だが、ノーリスクでハイリターンなことなんてこの世界にはそうそうなかった。そう、この装置は危険も孕んでいる。これは精神に干渉する機械だ。精神というものは非常に不安定である。精神学というものが発達してからも未だに解明されない謎は多く残っているため、この装置は望んだ通りのはたらきをしてくれるが、そのはたらきが精神にどういう影響を及ぼした上で共有をしているのかということが明確に解明できていなかった。
また、この装置は悪用しようと試みれば世界征服だって不可能ではない威力をもっていた。共感の度合いを強めてしまえばマインドコントロールさえできてしまう。
装置の効力の程度も人によって様々で同じ大きさで共感を促しても、こんな感じなのかで終わる人もいれば、共感が強すぎて思考が歪められてしまい、洗脳に近い状態に陥ってしまう人もいる。そのため、装置を使用する前には必ず『共感耐性検査』というものを行うように義務付けることにした。この検査を事前に行うことで求める共感の大きさを与えることができる。
しかし私は研究に費やした時間のためにそれほど長い人生が残されていなかった。この装置の存在を公表する前に知ってしまえば、私の目的とは違った歪んだ理想を叶えるために私の命を狙う者もでてくるだろう。だから私は効果が得られることを確認できた時点で、装置を発表することに決めた。
この装置が世間に広まりさえすれば、きっと優しい世界になって悪用しようとする人もいなくなることだろうとも思っていたのだ。何かが変わる、そう信じた。そんな淡い希望を未来に抱きながら私は、この装置の存在を公開した。