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線路上で大人になろう

作者: しろくま

「ノスタルジアをもう一度」の続編になっています。

 



 頬をかすめる春の風。そろそろ桜も咲くころだろう。そんな春の初めに僕は、震える手を必死に抑えることに命を注いでいた。…サイン会をやるのはこれで5回目になる。正直に言うと慣れるものではない。お客さんに自分の本を買ってもらい、最後のページに自分の名前を添えるだけのことなのに、手が震えるのだ。お客さんと一対一で向かい合うのがつらい。一歩間違えればニート一直線のこの性格は東京に出たからといって治るわけではなさそうだ。編集者さんに突如サイン会やるよーなんて5日前に言われたわけだから心の準備というものも十分ではなかったらしい。場所は京都で新しくオープンした、大きなビルのなかにある本屋だった。一般書から専門書まで幅広く本棚に並べられており、お客さんとして訪れるなら楽園のような場所なのに。相当まいってるのか膝ががくがくと震える、それを見て編集者さんが呆れた顔をしているのは振り返らなくてもわかることだった。中年のおばさん、若いお兄さんから女子高生まで幅広くサイン会を訪れてくれる。高校生でデビューした天才新人小説家という重い看板を背負いながら僕は戦い続けている。大きな賞はまだ取っていないけれど、評判は上々だ。と考えを別の世界に飛ばしていると、大学生と思われる女性を最後にこの胃の痛いサイン会は終了した。現在午後12時半。少しお腹がすいたところで、サイン会の後片づけを手伝いつつ、本屋の責任者に挨拶をする。


「いやー。お会いできて光栄です。しかし急なことでして、申し訳ありません」

「いえいえ。こちらこそ企画していただきありがとうございました。読者の方と触れ合う機会はあまりないのでいい経験になるんですよ」


 内心ビビり大爆発だったくせに。口だけは達者になったと思う。病弱で学校も休みがちだった僕は必然的にふさぎがちになり、他人とコミュニケーションをとる機会も少なかった。それに比べれば成長してると許してほしい。


「大宮先生の作品、わたくしも読ませていただいています。最新作読みましたよ」

「ありがとうございます」

「この後はどういたします?」

「あー、実家に久しぶりに帰ります」

「そうですか、お疲れ様でした。どうかお気をつけて」


 そういって担当者と別れる。どこかで適当に昼食をすませて、実家に帰ろう。数年ぶりに、母のもとを訪れる。一人地元に残してきた母。寂しい思いをさせているに違いない。たくさんの東京土産を抱えて店を出ようとしたときだった。入り口付近で誰かに呼び止められる。女性だった。彼女はすっと僕の著書を差し出し、こう言った。


「大宮先生ですよね、サインもらいに来ました」

「あっ、えっと、すみません、サインの時間は終わって・・・・・」


 聞き覚えのある声に、はっと顔を上げた瞬間、息が止まりそうになった。少し髪が伸びて大人びていたものの、間違えるはずがない。地元を離れて片時も忘れることのできなかった彼女がそこに立っていたのだ。何度会いたいと願ったか。自分の考えを、やり方を、そして自分の描くお話を、誰よりも伝えたかったあの人が、目の前に立っていたのだ。


「階条さん…!?」


 今まで鍵を掛けていた気持ちがわっと溢れ出すように、言いたいことが頭の中で廻った。けれどそれに反して苦しくなるくらい言葉が口から出ていかない。彼女は嬉しそうに笑うと、昼食ご一緒しませんかと、僕を近くの喫茶店に誘った。


「久しぶり、元気だった?」

「うん、ああ驚いた…本当に階条さんだよね?」

「やだ、そんなに変わった?」

「いや、なんだか信じられなくて…」


 彼女と僕は紅茶とサンドイッチを注文し、向かい合う。


「本当に久しぶり、連絡結局とらなかったもんね」

「受験の邪魔しちゃ悪いかなって…いま、どこに行ってるの?」

「K大」

「K大かー……ってえええええええええええ?!」


 周囲の人がばっとこちらを見るくらいに大きな声を出してしまった。幸いだったのは持っていたティーカップをひっくり返さなかったことだ


「医学部」

「えええええええええええ?!」

「医学科」

「ええええええええええええええええ?!」


 喫茶店中の人の、僕の苦手な人の視線が刺さるのも気にならないくらい、大きな声をあげた。自分でもびっくりするほど声が出た。いつもは僕の話し声はぼそぼそどもっていて聞き取りづらいと師匠には怒られるのに。


「ふふ、頑張ったでしょ」

「そ、そっか、うん……」


 彼女は僕と別れてからのことをぽつりぽつりと話し始めた。あの後、僕たちが別れた後、彼女はすぐに高校を辞めて、高卒認定試験にさらっと合格したのち、青春の日々を犠牲にしながら黙々とただ孤独に勉強をし続けたという。そして、喫茶店のど真ん中で叫んでしまうほど、彼女の到達した地点は日本でも最高峰の大学だったのだ。しかも医学部だという。


「本当はね、連絡したかった。何度も何度も電話しそうになった時があった。でも、柏木くんも頑張ってるんだって思ったら、迷惑なんてかけてられないって、思い直してまた頑張れたんだ」


 引っ越す前に彼女に渡した電話番号。結局一度もかかってくることはなく、忘れられてしまったのだとため息をつく日々が続いた。そんな理由があったのか。どこまでも自分に厳しい人だ。


「せめて大学に合格したなら報告してくれればよかったのに」


 てっきりだめで、落ち込んでそれどころじゃないのか、浪人したのか、はたまた忘れられたのか、心の中でずっともやもやしていた。


「あはは、ごめんね。何度も電話を掛けようとしたんだけど、気恥ずかしかったんだ。そんなうちに大学が忙しくなって結局数か月もずるずるとしてしまったの、本当にごめんね」

「でもどうして今日サイン会があるって知ってたの?」


 すると彼女はおもむろにカバンの中から一冊の雑誌を取り出した。その表紙に見覚えがあった僕はあっ、と声をもらす。数か月前、新刊を発売したときに来たインタビュー取材が掲載されたものだ。


「これを見たの?」

「うん。びっくりしちゃった。こんなに有名になってたんだ」

「僕なんてまだまだだよ、高校生デビューの作家~っていうレッテルがなきゃやっていけなかったかもしれなかったし」

「そんなことないよ、柏木くんの本、全部読んだよ」

「本当?」

「それで京都でサイン会があるからって、絶対行ってやるって思って自主休講しちゃった!」

「大丈夫なの?」

「平気よ、普段はまじめだから」


 大学生になった彼女は、雰囲気がなんとなく柔らかくなった気がする。高校の時の彼女はなんとなく近寄りがたく、言葉もつんと尖っていた。あとぐっと女性らしさが増している、なんていうと少し変態くさいけれど。短かった髪は長くなり、肩近くでゆるく結ばれていた。


「それより、柏木くんのことが知りたい。あれから何があったの?」


 あれから。その前に、師匠との出会いを言わなければならないと思った。


 師匠と出会ったのは中学二年のとき。ほんの気まぐれで応募した、とある文芸雑誌の小説大賞で、なんと入選してしまったのだ。受賞の知らせの電話をとったのは母で、全く身に覚えのないことに何かの詐欺かと勘違いしたという。当然母には応募したことは告げていなかった。


 入賞した作品は、即出版してもらえる。それがこの企画の売りだったのだが、その権利は最優秀賞のみで、僕がもらった賞は優秀賞だった。しかし電話の向こうの人物に、どうか東京で行われる授賞式に参加してほしいと告げられた。どうしよう、入賞が現実のものになったとき、なぜか喜べなかった。この、僕が?やっぱりだまされているのでは。しかしその一方母親はすごく喜んで、ぜひ行きなさいと僕の手を握った。思えば、僕は病弱で母に迷惑ばかりをかけて生きてきた。父親は僕が生まれて2年後に病気で死に、記憶にはほとんどない。僕の親はこの母親一人のようなものだった。そんな恩義を感じている母親が、こんなに喜んでくれるなら、と僕は授賞式に出席することに決めた。


 …が、その選択をすぐに後悔することとなった。

 授賞式は東京のとある高級ホテルで催された。人、人、見渡す限りの人。学校にもろくに行っておらず、話す相手と言えば、母親と担当医師ぐらいしかいない僕にとって、そこは地獄だった。それに当時中学生だった僕は制服の学ランで赴いたものだから余計に奇異な存在だったのだ。周りの大人がちらちらと僕に痛いほどの視線を送ってくる。今まで感じたことがないくらいの人の気配に、吐き気、眩暈すら覚えた。


 やっぱり来なきゃよかった…


 しかし、母親の、本当に久しぶりの母親のあんな笑顔を見て、どうにも断りきれなかった。でも。これはまずい、意識が朦朧としてきた。慣れない都会の喧騒、人の蠢き、囁き、慣れない社交辞令、僕の体と心を攻撃する。


「ねぇ、あそこの子、受賞者?」

「まさか…中学生くらいじゃないか」

「そういえば、今回、すっごく若い子が入賞したって…」

「じゃああの子が」


 ざわざわと僕の方を見る。視線が痛い。この程度で僕はへばってしまうのか、あまりに間抜けで情けない。ああ、どうしよう。早く帰りたい。来なきゃよかった。そんな時だった。


「おい、君、大丈夫か、顔色が悪いぞ」


 ふらついた体を支えたのは、年は40過ぎくらいの背が高い男性だった。彼は僕に近くのイスに座るよう促し、水を持ってきてくれた。それを受けとり、一気に飲み干す。火照った喉にそれは、とても心地良かった。


「ありがとう…ございます」

「本当に大丈夫か?体調悪いならここ座って………学ラン、もしかして君が柏木文太君か?」


 目の前の男性は真剣そうに問うた。嘘をつく理由もなく、素直に頷いた。


「え…ああ、は、はい。そうですけど…」

「やっぱりか。私は三河孝一郎だ、君に会いたかったよ」

「え…三河…孝一郎…って」


 今回のコンテストの審査委員にも選ばれている、知る人ぞ知る大物作家だ。そんな人が僕に声をかけてくれるなんて、突然の出来事に動揺してか、僕は急にイスの上で正座した。すると目の前の大御所は吹き出すように笑って、


「はは、そんなに改まらなくていいよ、やっぱり、君の文章を見た時から、こいつは面白い奴だと思っていたんだ」


 そんな風にして、三河孝一郎…のちに僕の師匠となる人は、周りのことはお構いなく、授賞式から僕を引っ張り出し、近くのファミレスに連れてきた。好きなものを食えとメニューを渡され、僕は緊張のあまり何を注文したか覚えていない。そして、何を言われるのだろうと身構えていたら、彼はすぐに僕の書いた小説の話を始めた。


「率直な話、私は君が最優秀賞だと思うんだ」

「そんな…」

「何度も言ったんだが、ほかの審査委員の奴らときたら…本当に見る目がない。だからあんな軟弱な文章を書き続けるんだ…」


 そういってほかの審査委員の悪態をつく。三河孝一郎、ジャンルにとらわれず、様々な作風を生み出し、今中学生から大人まで幅広い層に人気の作家。もちろん僕も何作も読んだことがある。そんなすごい人が僕の目の前にいて、自分の作品を批評をしてくれている、これは夢か。僕はまた倒れて病院に運ばれて意識を失っているのかもしれない。それくらい現実味がなかった。


「私は非常に君の文章が気に入った。若いのに素晴らしい。無理強いはしない。これから私と一緒に、ここで小説をもっと書いてみないか?君なら、学十分やっていけるだろう」

「そんな、僕なんて、」

「…君は文章を書くのが嫌いか?」

「そんなことないです!ただ…」


 自分の抱えている病気、母親に迷惑をかけていること、学校にもろくに行けてないこと、人が怖いことを告げる。…口に出せば出すほど自分の嫌な部分が次々と溢れてくる。あまりの惨めさに涙が出そうになったがそれは何とかこらえた。


「なるほど…何か抱えているな、とは思ったが」

「…変な話してごめんなさい。こんな夢みたいなこと、お会いできただけでも光栄なのに、でも僕は…」


 俯く僕の話をじっと聞いてくれた。こんな僕のお話を褒めてくれた。それで十分だ。

 すると、急に改まったように、彼はじっとこっちを見て、笑顔でこう言った。


「君は作家になりたいか?」

「作家…?」


 作家。昔から憧れがないといえば嘘だ。そうじゃなければこんな賞に応募したりなんかしない。好きだ。幼いころから病弱だった僕がなんだってできるのは空想上の世界だけだった、というとベタな表現になるかもしれないが、それだけその「あるはずもない世界」を形にする作業が楽しくてたまらなかった。僕の世界は、病室と、薬品の匂いと、ペンを握る感触と、ぐちゃぐちゃに書きなぐった原稿用紙だけだった。返事なんて決まっている。


「なり…たいです」

「そうか、わかった。私はお前の描く世界を見てみたい。もし君が中学を卒業して、それでもその気持ちがあったらこっちに来い。お母さんの心配もあるだろうから、あと1年悩んで。私は待っているから。本気で小説を書き続けたいなら、おいで」

「はい…」

「今日は来てくれてありがとう、話ができてよかった」

 最後に、電話番号とアドレスが書かれた紙、そして彼の著書を渡され、僕はそれを胸に抱きながら、東京を後にした。そんな、こちらこそ。夢のような1日。僕の人生の大きな転機の1日だった。


「お前の描く世界を見てみたい」…そう後に師匠となる、僕の尊敬する作家は言った。お前はそんな狭い世界にいてはだめだ、もっと大きな世界を見て、たくさん話を生み出すのだ、と。


 迷った。本当に僕はやっていけるのか?人と違うことをして、僕は生きていけるのか?高校にもいかず、文章ばっかり書いていて生きていけるのか?

 けれど、師匠と約束した1年間はあっという間に過ぎた。悩みに悩み続けて僕が選んだのは、進学するという、作家への道とは外れた選択だった。


 高校に行こう。もしかしたらそこに行けば自分の居場所が見つかるかもしれないと、私のことは気にしなくていいから、と言う母親と師匠の反対を押し切って、家から一番通いやすい私立の学校を選んだ。その選択は僕の意地も込められていた。どうしても世間一般の人と同じように、普通の人になって、普通の人生を歩もうとしたのだ。いくら有名な作家が褒めてくれたとはいえ、小説の道に進む、不安定な場所に身をゆだねる怖さや恐ろしさもあったかもしれない。それから逃げたかったのだ。しかしそのあまりに中途半端な決断は結局僕を苦しめることになる。


 高校進学後も病気がよくなることはなく、休みがちになった。僕を味方する義務教育はすでに高校の世界には存在せず、出席日数が足りないという事態に陥った。頭は決して悪いほうではなかったが、何度も休んで授業に出ていないのだから、理解が追い付かない。どんどん置き去りにされていく。足りない出席日数をレポートで埋め合わせうようにも量が膨大だ。このままでは卒業どころか進級もままならない。それでも、続けた執筆活動。書いている小説の締め切りは迫ってきて、担当編集者さんには何度も渋い顔をさせている。師匠は依然、東京に来るように強く勧めるが、それでも煮えきらず、何もかも中途半端になりかけた時だった。



 彼女と出会った。


 少し不機嫌そうに、けれど決して突き放さずに見ず知らずの、まるで得体の知れない同級生に勉強を教えてくれた。たとえそれが先生に頼まれたということでも、今までろくに友達のいなかった僕にとって、それは新鮮だった。友達がいて、一緒に勉強して、ずっと求めていた学校生活が手に入ったのだ。少し歪でもなんだってよかった。彼女と過ごしたくて、少し体調が良くない時でも、体を引きずりながら学校に行った。その結果倒れてしまって迷惑をかけるということになってしまったけれど。


 僕が作家をしていることを言った、師匠と母の次に、僕の夢を応援してくれた。そんな初めてできたかけがえのない人と接しているうちに、僕はようやく決意した。


 もう十分だろう、自分に嘘をつき続けるのはやめよう?

 僕の望んでいた学生生活は、彼女がくれた。けれどいつまでも彼女に依存し続けるのはだめだ。高校受験に失敗したと笑いながらも、すごく傷ついた顔で語る彼女を見てそう思った。苦しんで、どうにもならないけれど、手探りなんとか前を向こうとしている彼女の隣に、示されているはずの自分の道すら決めきれない僕がそばにいるわけには行かないと思った。


 彼女と、逃げ続ける自分に別れを告げよう。

 そうして、僕は夏の終わり、初めてできたかけがえのない彼女と、自分のたった一人、大切な母を残し、僕は師匠の家に転がり込んだ。そこでの生活は、とても楽しかった。好きに、時間を気にせず、いつまでも文章を書いていられる。高校と掛け持ちしていた時からは考えられないくらい、驚くほどペンが動く。そして師匠に意見を求め、時に褒められ、時に大いに貶され、貪るように本を読み、勉強し、書き、眠る。なんて幸せなんだろう。


 …ただし、東京に行ったからといって、好きな文章を書き続けていたって、病気が治ることはなかった。毎月のように寝込んでは師匠とその奥さんを困らせていた。師匠はそれを知って受け入れたんだ、と迷惑かけてごめんなさいと謝るたびになんで謝るんだと逆に怒られてしまった。


 ある梅雨の日のこと、僕は風邪をこじらせ、一週間以上寝込んだ。布団の上でずっと咳き込み、熱が下がらない状況が続く。ずっと布団から出られないと、身体的はもちろん精神的に参ってしまう。


「大丈夫か、気にせず休めよ」

「…師匠」

「どうした」

「僕はここに来て、毎日楽しいです。好きな文章が書けて幸せです」


 師匠の手を握る。


「けれど、たった一つだけ苦しいんです」


 熱に浮かされ、頭が回らない。今まで必死に文章を書き続けたのは、忘れたいことがあったから。頭の中で振り切りたい思いがあったから。けれど何もできない布団の中では、振り切ろうとすればするほど思い出してしまうのだ。彼女のことを。


「僕の夢を応援してくれた友達に、無性に会いたくなるんです」

 たった一人の、最初の友達。大切な、大切でしょうがないあの子。別れてから連絡は一度もなかった。


 気付けば師匠に泣きつく形で、今まで抑えていた感情が熱によって堰を切るように零れ落ちていった。押し込んで押し込んで自分自身をだまし続けていた反動が、今になって、溢れ出る。降り続ける雨の音すら掻き消すぐらいに大きな声で泣いた。


「会いたい。彼女に会いたいんです」

「……」

「でも彼女は僕のことを忘れてるかもしれない。どうして、どうして伝えられなかったんだろう、一緒にいたいって、忘れないでって、でもそれは無理だって、僕は作家になりたい、もっとお話が書きたい、認められたい。でも、でも…でも彼女にもう一度会いたいんです」


 いま彼女は何をしているだろうか?幸せなのか、それともまだ苦しんでいるのか。何一つ僕にはわからない。そんな状況が悔しくて悲しくて堪らなくなる。



 そんな僕に対し、師匠はあの時の…東京で初めて会ったとき、作家になりたいか?と聞いた時のような優しい笑顔を浮かべていた。


「……初めてだな、お前が何かが欲しくて駄々をこねるなんて」


 僕は驚いて顔を上げた。師匠はあの時のようにまた僕に水を差しだし、飲むように促す。


「なればいいじゃないか、作家に。頂点に。それで彼女に会いに行けばいい。別にどっちかを選び取る必要はない。…お前は求めることに臆病すぎる。そりゃあ、そうなってしまうくらいの過去を持ってるのは認めるが。でも、いいじゃないか。もっと貪欲なれ、人に迷惑をかけることを恐れるな。それが大事な人ならなおさらだ。大丈夫だ、お前がこんなに執心するんだ、相手だって覚えてるさ。…書き続ければ会える。満足するまで、自分が本当に満足する作品が書ける頃にはきっと。」


 きっとまた会えるさ、


 その優しい声を聞きながら僕はまた涙を流して、気が付けば眠っていた。そしてその2日後熱は引き、ようやく普通に生活できるくらいには回復した。


 その後、僕はまた文章を書き始めた。師匠は、あの思いっきり気持ちを吐き出して以来、僕の中にまだ残っていた迷いが完全に消えたようだった、と後になって教えてくれた。


 書き続けよう、それが僕の存在意義で、彼女へのエールだ。きっと今も苦しんでいることだろう。僕と同じように、落ち込んだり体を壊しているかもしれない。けれど折れない、きっとあの子は折れないで今も戦い続けているのだ。僕が勝手にいなくなったんじゃないか、こんなところで立ち止まっていてはダメだ。そう自分を奮い立たせて、ペンを取り続ける日々を選んだ。







「そっか……いろいろあったんだね」

「うん、でも片時も君のことを忘れたことはなかったよ」

「うん、私もだよ。柏木くんが頑張ってるんだと思ったから頑張れたの」


 なんだかお互い恥ずかしくなって黙り込んでしまった。つかの間の沈黙を破ったのは彼女の方だった。


「え、えーっと、柏木くん、この後どうするの?」

「うーんとね、久しぶりに実家に帰ろうと思って…」

「あ、そっか…せっかくだしどこか京都でも案内しようと思ったけれど、そうだね、お母さんが一番だ」


 けれどせっかく会えたのに、このまま別れるのは僕だって嫌だった。しかし実家には向かうと連絡してしまった。かくなる上は…


「…階条さんも、よかったら、だけれど、うちに来ない?」





 僕の実家は通っていた(中退したが)高校に本当に近いところにある。歩いて10分もかからないだろう。そこに向かう間、周りの変わらない風景を懐かしみながら彼女の話を聞いていた。そして、僕らが出会った高校前につく。変わっていない。


「もう本当なんで私、私立調べなかったんだろう…とりあえず近いところって選んじゃってこれだよ…」

「僕も一緒だよ、近いからここに決めた」

「ふふ、辞めるって言ったとき、担任にすごい形相で止められたなぁ…まぁ理解してくれたんだけれど」


 僕と階条さんを引き合わせた担任の先生。今もここにいるのだろう。しかし自分のクラスから二人も学校を辞める生徒を出してしまった、ということになる。そう思えば少し気の毒だった。しかし過ぎてしまえば懐かしい。彼女はもう自身の失敗を自虐として笑い飛ばせるようになっていたのだ。


「着いたよ」

「うわぁ、本当に近いね」


 狭い一軒家。けれど二人にはちょうどよかった。僕と、母が十数年暮らしたこの家に、帰ってきた。




「母さん、ただいま」


 居間で座っている母親が顔を綻ばせる。少し痩せたようだが元気そうな様子に安堵する。


「おかえりなさい文太、あら…?」

「突然すみません、お邪魔します」


 隣で階条さんが頭を下げ、右手に持っていた、京都のお土産を母に手渡す


「文太くんの高校時代の友達の、階条理子です」


 母は僕を見た時よりもぱっと顔を明るくして、僕たちを招き入れた。





「あなたが、文太が話してた子なのね、初めまして、うちの息子がお世話になったみたいで」

「いえ、そんな、私の方こそ急に押しかけて本当にすみません」

「あっ、違うよ、母さん、僕が呼んだんだ」


 世間話から始まる。そこから、僕と彼女が買ってきたお土産とお茶を飲み食いしながら、高校時代の思い出を僕と彼女とで語った。出会いから、別れまで。今まで友達を家に呼んだことがなかったせいか、母はものすごく彼女を歓迎しているようで、安心した。


「えええ!!K大に通ってるの?!」

「はい…一応、ですけれど」

「ちょっと文太、あんた勉強教えてもらいなさい」


 にこにこと、隣の彼女は謙遜するけれど嬉しそうだった。母との会話を楽しんでいてくれているようでよかった。どうしても母に、彼女を紹介したかったのだ。自分のことのように誇らしげに。


「文太、ちゃんとご飯食べてる?三河さんに迷惑かけてない?」

「食べてるよ。迷惑は…かけているかな、この前も寝込んじゃったし…」

「でも顔色がいいわ、東京に出るって、心配だったけど、ここで肩身の狭い思いをするよりは体にいいみたいで安心したわ」

「母さんこそ大丈夫なの?」

「私は元気よ!」


 母は強い人だと思う。僕を産んですぐ夫を亡くし、手のかかる子供だったに違いない僕を育て上げてくれた。どんな苦労があっただろう。子育てしながら必死に働いて、それでもいつだって明るい人だった。僕が東京に行くときにも、笑顔で、「あなたは今まで散々我慢してきたんだから、自分のやりたいことをやりなさい」と送り出してくれた。本当に、強くて優しい人だった。


「文太、あなた何時の新幹線で帰るの?」

「えーっと…8時10分」

「そっか、じゃあそろそろね。なんとかやってるみたいで安心したわ。…これ、三河さんに。息子がお世話になっていますって。また挨拶に伺うのでよろしくお願いしますって伝えておいてね」


 母は手土産を僕に渡し、そして、僕の手を握った。


「新刊読んだわよ、とても面白かったわ、ごめんね、こんな小学生でも言える感想しか私はあなたにあげられなくて」

「ううん、ありがとう、読んでくれて」


 大事な人が僕の文章を読んで、面白いと言ってくれる。それだけでいい、それだけのために僕は生きているのだ。ああ、僕は本当に幸せ者だ。







「本当にお邪魔しました」

「いいのよー。いつでも来てね、文太がいない時でも全然かまわないからね!見ての通り一人なもんだから、おばさん寂しくて…ありがとう、文太のお友達になってくれて、よければこれからも仲良くしてやってね」

「もちろんです!また来ます!」


 そのまま実家を後にしようとしたとき、母は僕にそっと耳打ちをした。「彼女なの?」 …僕は持っていた師匠へのお土産を危うく落としかけた。手をぶんぶん振って否定する。


「ち、違うよ!」

「ん?何が?」

「な、なんでもないよ階条さん!」


 母はいたずらっぽい笑みを浮かべ、「まぁ、がんばれ」と意味深な言葉を残して手を振った。まだまだ母には勝てそうにもない。




 彼女の家は多少遠いが、歩いて帰れる距離なので、ここで別れようとしたが、駅まで見送りに行くと聞かないので、一緒に来てもらうことになった。


「お母さんいい人だねー。柏木くんのお母さんって感じがする?」

「え?そうかな?そんなに似てる?」

「似てる、というよりは雰囲気が一緒かな…」

「雰囲気と言えば、階条さんも変わったよ」

「え?本当に?」

「うん、優しくなったよ」

「あはは、あの頃はとげとげしてたからね。変わったよ、私も」


 駅に着いた。田舎の方の駅だから、人はまばらで、ほとんどいないと言っていい。そこで、僕は彼女に、どうしても聞いておきたい、先ほどは聞けなかった質問を投げかけた。


「ねぇ、階条さん、医学部を志したのはなんで?」

「……」


 彼女は困ったように、ぽつぽつと話し始めた。

「実はね、私、医学部の同期に比べて、明確な目標をもってこの道を選んだわけじゃないんだ。たとえば世界を飛び回って貧困地区の子供たちを救いたいとか、昔、入院して看護師に憧れて自分も強くその存在になりたいとか、そんな崇高な理由はないんだ」


「もちろん興味のある分野であることに間違いはないよ。ただ、私がこれから生きていくことにおいて、誰かを助けようと思うなら、この道が一番だと思ったの。立場の弱い人を救うには、心身共に救わなきゃならない」

「どこか立ち止まっている人がいたら、手を差し伸べられる人間になりたいと思った。自分に、しょうもないけれど挫折経験があるから。どんな理由にしても、誰かが苦しんでるなら」


「私は、高校時代ふてくされて、どうにもならなくなってた。けれど柏木くんが私を助けてくれた…。だから、私と同じように、ちょっと落ち込んだり傷ついたりしてる人を助けたいと思って」


 なーんて、言ってるけど、考えてみて、私には理工系向いてないって思ったから消去法だったりするけどー、と彼女は照れ隠しをするように笑う。




「…すごいよ。誰かを救おうとする道を選んだんだ」

「なかなか難しいよ、今は私の自己満足でしかならないから。でもね、本当は、いつだって不安なんだ、この選択が正しかったのかわからない、大学に受かったのはいいものの、本当に自分が進みたい道はこれなのかって」

「大丈夫、だよ」




「君は僕に助けられたって言ってくれるけど、助けられたのは僕の方だよ。迷っていた僕の背中を押してくれたのは君じゃないか。大丈夫、階条さんは、人を救える、君なら、何かに躓いている人を見つけられる…僕はそんな君に助けられたんだから」

「うん…」


 いつの間にか目から涙が零れていた。それは彼女の方も同じで、駅のプラットホームのベンチで、泣き合った。僕たち二人はようやく、お互いの前で泣くことを覚えたのだ。


 僕らの実家の近くの田舎駅からは当然新幹線に乗ることができず、当然、大きな駅に行かなければならない。彼女とはここでお別れになる。あの時のように、駅でお別れするのだ。時は変わらず、僕たちを待ってはくれない。



「いつか柏木くんの病気も治してあげられるようになればいいなぁ、まずは卒業しないと。それで…」

「うん、待ってる。僕も新しい話を書き始めないと…」


 二人の時間がまた大きくずれていく。お別れの時間が迫ってきた。あっという間の1日だった。再会できてうれしかった。自分の話を聞いてもらえて、彼女の話が聞けて、楽しかった。ただ時間は過ぎていく。もうすぐ電車がやってくる。あの時と同じように。真夏のプラットホームで、電車越しに見た彼女の顔を思い出した。不安に満ちた、けれど意志の強い真剣なまなざしを、未だに覚えている。


「階条さん、今日は本当にありがとう、元気そうでよかった」

「こっちこそ、すごく楽しかった。サボった甲斐があったよ」

「…大学、頑張ってね」

「うん、柏木くんも、体に気を付けてね」


 また離れ離れ。

 東京は遠い。次いつ会えるかわからない。もしかしたら、もう会えないかもしれない。お互い忙しくなるかもしれない。彼女がほかに大切な人を見つけて僕のことなんか忘れて…


 その時だった。彼女が僕の腕をつかんだ。驚いて振り返る。


「行かないで……」


 2年前とは、違っていた。


「階条さん…?」

「っ!ごめん、何でもない、何でもないよ!あっ、も、もうすぐ電車くるみたい」

「階条さん」


 彼女は泣きそうな顔でこちらを見た。きっと僕も同じ顔をしている。ああ、確かに君は変わった。けれどきっとそれは僕も一緒だ。会えない期間は人を強くするというけれど、僕らの場合は違うのかもしれない。僕たちは、あの時から、どこかできっと無理をしていたのだ。高校生という、大人と子供の境目で、必要以上に背伸びをしていたのだ。わがままを言えるようになった。自分の欲を隠せなくなった。背伸びしすぎてなおざりにしてきた感情を掬いあげるよう、僕たちは今日、子供に戻って、ようやく大人になる道へと踏み出すことができるようになったのだ。


 一緒に大人になろう、ゆっくり、少しずつでいいから。



「…夏休みになったら東京においで。が案内する、君に見せたい景色がある。師匠に会ってほしい。たくさんのお話を用意してる。また遊園地にでも行こう、だから……」


「また会おう!」


 電車がやってきた。彼女は泣きながら、それでも嬉しそうに笑った。



「行く!絶対また会いに行くよ!」







 こうして、僕たちはまた駅のプラットホームで別れてしまったのだけれど、前のお別れとは違った。「また会おう」……入道雲が立ち込めるあの青い夏の空の下、キャリーケースを下げた君がやってくる。君がいる夏を僕はまた、いや、ずっと待ち続けていくのだ……いつも肌身離さず持っているネタ帳を胸に抱き、新幹線の小さな窓を眺めた。

2013年に高校の時に所属していた文芸部の部誌に載せたものです。


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