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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

真面目仮面歴史シリーズ

最初の将軍と最後の将軍との出会い《江戸だけはなぜか幕末と呼ぶ、そして鎌倉から数えても最後の将軍となる慶喜さん》

時は、1868年…。


ここは二条城。徳川幕府第15代将軍、徳川慶喜(とくがわ・よしのぶ)が、今まさに大政奉還(たいせいほうかん)を行おうとしていた。


「私、徳川慶喜(とくがわ・よしのぶ)は、政権を朝廷に返還いたします。

大政(たいせい)奉還(ほうかん)いたしたく存じます。」


二条城で大政奉還(たいせいほうかん)を行った徳川慶喜(とくがわ・よしのぶ)


これでもう、最後の将軍としての役割は果たせたと思った。


ここに、徳川家康以来、約265年にも及んだ江戸幕府の治世は終わりを告げ、鎌倉幕府以来続いてきた武家政治の時代もまた、終わりを告げた。


ところが、それにも関わらず、武力倒幕を掲げる一派は、旧幕府の者たちを全滅させるか、完全に屈服させるまで戦うことを主張。


こっちはやるべきことをやったのに、喧嘩(けんか)を吹っ掛けてきたのは、そっちじゃないのか。


慶喜は初めは戦う気などなかった。


大政奉還の本当の狙いは、降伏ではなく、旧幕府とも違う、明治新政府、つまり薩長や岩倉具視らが掲げる新体制とも違う、全く新たな構想だった。


フランス公使ロッシュを出迎え、慶喜はフランス式の軍備、法律、制度、文化、価値観を取り入れようとしていたのに。


武力倒幕派は、旧幕府に降伏すら許さないとでも言わんばかりの構えだった。


こうなったらもう、仕方がない。慶喜は大阪城に戻り、新政府軍と対決することになった。


が、後に戊辰戦争と呼ばれることになるこの戦いでは、鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍は敗れ、


慶喜は江戸への撤退を考えていた。


が、結果的には1人で江戸まで向かうことになってしまった。


戦場にいた家来の侍たちにも、慶喜がいなくなったということが伝わっていた。


「慶喜様がいない!慶喜様はわしらを置いて、自分だけ逃げたのか!?」


そう思われても仕方がなかった。が、慶喜としてはできるだけ味方の兵の犠牲を増やしたくなかったのだった。


武士の習わしは、最後まで戦って討ち死にすることこそ名誉という考えがあった。


いわば、慶喜の行動はそれに背いた形となってしまったのだった。


薩長軍、そして岩倉具視らが率いる新政府軍は、慶喜を朝敵と見なし、錦の御旗を掲げて江戸まで進軍。


このままでは、江戸が戦に巻き込まれ、火の海となってしまう…。


それが、ここまでの話。




江戸幕府の崩壊はもはや誰が見ても明らかだった。


大奥の女中なども、逃げ失せる者が続出。


最後まで戦い、討ち死にせよという意見と、逃げたくば逃げよという意見が対立していた。


新政府軍の代表として、西郷どんこと、西郷隆盛が、江戸城に姿を見せる。


一方で、旧幕府軍の代表として指名されたのは、勝海舟。


この2人が、江戸無血開城に向けた交渉を行っているさなか、


慶喜(よしのぶ)は歴代の徳川将軍の位牌(いはい)が奉られている墓所に、1人いた。


東照大権現(とうしょうだいごんげん)、家康公、それと歴代の将軍の皆様方、

ついに徳川幕府の治世も、この慶喜(よしのぶ)の代にて、

終焉(しゅうえん)の時を迎えることにあいなってしまいました。

このうえは、この場にて腹を切るか、

最後まで薩長軍らと戦い、いさぎよく討ち死にを果たすか、どちらかです。」


そこに、1人の人物が姿を現す。


「おお…!あなたさまは、もしや…!」


その人物こそ、徳川家康その人だった。


「おお、家康公…!」


慶喜(よしのぶ)…、そなたが慶喜(よしのぶ)か…。」




慶喜「家康公、今まさに薩長軍が江戸に総攻撃を仕掛けようとしております。

薩長の逆賊どもは、葵の御紋を踏みつけにし、そして家康公が築き上げたこの江戸を、戦場にし、火の海にしようとくわだてておるのです!

このうえはこの場にて腹を切るか、さもなくば、江戸を守るべく自ら戦に赴き、討ち死にする所存。」


家康「ほほう、城を枕に討ち死にとな。

つまらぬ!実につまらぬ!」


慶喜「家康公!?何と!?」


家康「この家康が生きた時代は、まさに戦国の世。

徳川が天下をとるために戦い、時を待ち、そして徳川の天下の(いしずえ)を築き上げるために奔走してきたのじゃ。」


と、ここで慶喜についてきた家来の者たちが、中の様子を伺う。


「慶喜様、慶喜様はどなたと喋られておいでなのですか?」


しかしそこには慶喜1人しかいなかった。


家康の姿は慶喜以外の人間たちには見えていなかった。


家康「ああ、話を続けよう。

慶喜よ、ここで討ち死にしてはならぬ、そなたは生きよ。

楽しく、愉快に、趣味などを楽しみながら、生きるがよい。

この家康も、本当のことをいえば、戦ではなく、趣味などを楽しみながら生きたかった。

わしができなかったこと、慶喜、そなたならできる。」


実際、慶喜は多趣味なことで有名になった。


慶喜「おお!それならば、家康公と、写真を撮りたくなった。

これはカメラといって、その写真というものを撮るための機械にございます。」


家康「ほほう、カメラ、写真機とな。」


かくして慶喜は家康と、カメラで写真を撮り、2人で写真におさまったのだった。




そして西郷どんと勝海舟の交渉により、江戸は無血開城となり、


さらには京の都から江戸への遷都(せんと)も決まり、江戸は東京と改められることになった。


そして慶喜は、ようやく将軍職の重圧から解放されたのか、


その後は実に多種多彩な趣味を楽しみながら、長い、長い、隠居生活を満喫したのだった。



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