雨嵐の花
友は私を恨んでいるだろうか。
空を蠢めく大蛇の如し稲光り。それは遅れることなく唸り上げ、その咆哮と時を同じく、激しい怨嗟の雨が降る。
死者が永久に睡りし大地は、古来より、こんな怨嗟の雨を吸い、大地が恨みつらみを濾過して、雫を綺麗な地下水へと変える。土地に止めた怨念は、一帯に黄色の小さな花を咲かせた。
黄泉に触れし染まるは怨花。怨嗟に黄ばんだ五枚の花弁。ひとひら千切りし、痛みを伴う。
故郷を捨てた私を拒むよう、十年ぶりの帰省は、とんだ嵐に見舞われた。
友は私を恨んでいるだろうか。
葉月も半ば。それなのに、躯と気持ちに幾許か、水を含んで冷えていた。備え付けの暖炉に、紙くずと小枝を落とし、それに幾度と石を打ち付ければ、ちりちりと焦げ、ゆっくりと白い煙が細く揺蕩う。そこに湿気かけた燃料を焚べ、なんとかそれは金色に揺られる炎となる。
墓地は山奥にあり、私は墓地の直ぐ側にある、誰も居ぬ山小屋にて雨が止むのを待った。生乾く自臭とどくだみの香が混じり合い、酷い匂いが鼻を衝く。女である私は、それが不快であった。
窓の外には雨嵐花。数多の未練を吸い上げて、妬みの花を可憐に咲かす。
——お前も可哀想な花。
薙ぐように吹き散らかす強い風。それに晒された小さな花を、自分に見立てては刹那くなる。私は此処に何をしにきたか。此処に足が向くまでに、薄情にも十年も掛かってしまった。
私は背嚢から、墓前に供える筈だった一升瓶を出し、瓶の中身を水筒の蓋と、別に用意していた檜の枡に注いだ。友と飲み交わす為に、持ってきたものである。
友は私を恨んでいるであろうか。
友の実家は杜氏の家系にあり、家業で酒を醸造していた。子供だった私たちは、それが飲めず、いつか大人になったら飲みかわそう。そう誓い合っていた。
老人の多いこの集落で、友は私にとって唯一の話し相手であり、私は友の唯一であった。それくらいに私たちの世は狭かった。
彼には愛嬌があって、それでもいざという時頼りになる、何一つ落ち度の無い男子であった。
ーーいつか大人になったら、飲み交わそう。
そんな約束が私たち二人の生きる全てだったように今でも想う。彼と話をするのが全てだった。きっといつしか友への気持ちは淡くなり、熟れた果実のように恋に落ち、そして幸せな夫婦となる。そんな決まり事かのような定められた未来が、幼き日より目に浮かんだ。
他に唯一の楽しみと云ったら、葉月の半ばに、都会から若い先生が来ることだった。先生は薬に遣える植物を採取しにくるのである。刺激の少ない暮らしをしている私たちは、毎年晩夏が迫ると必ず先生の許に訪れ、様々な話を訊きに行ったものである。
先生は幼い私たちに、薬学のこと、都会のこと、世の中のことを丁寧に教えてくれた。先生は私たちが恨みの花と呼び忌み嫌うその花を、薬になると好んで採取した。私たちも沢山手伝った。先生から話を訊いた私は、外の世界に憧れた。いつしか私も彼みたく、世の中を知りたいと想い願ってしまった。友はそれを否定した。彼のことをつまらない人だと思った。
変わろうとする私、変わろうとしない友。ぶつかる事が多くなった。
ある日、若い先生の薬草詰みを手伝っていた私は、迂闊にも樹を這う土斑猫の毒に触れてしまい、手首の裏から半尺ほどが、火傷のように赤く爛れた。
先生は私一人を自分の宿に連れて帰り、あの黄色の花を潰して作った薬を塗ってくれた。薬は腐ったような腐臭がして、先生の冷たい指先の体温と混じり、傷口から私の躯に溶け込んだ。
その指先は、徐々に腕から肘へ、そして袖口から衣の中に侵入し、未だ熟れ切らぬ私の体躯を蛆虫のように這いずった。薬の生臭い匂いが、呪いのように私の自由を奪うのである。
躯に這入りし腐爛花。生きた骸に蛆が湧き、毛穴の一つ、耳の穴、全ての穴から私を犯し、がらんどうとした奈落より、流され流され脳髄までもを侵してしまう。
その日から、友と会うことは少なくなった。友は一人になり待ちぼうけの日々を過ごした。宵待ちの私は、孤月が昇ると、実家の母屋を抜け出して、先生の宿に忍び込み、褥に狂うばかりとなった。
狭い集落である。人々に気づかれるのに、月が満ちるほどの時も要さなかった。先生が追い出されるように集落を出る時、私は故郷を捨て、家族も捨て、友さえも捨て、彼に着いていくことにした。駆け落ちである。
友は私を恨んでいるであろうか。
私を現に戻すは蝉時雨。どうやら眠っていたようだ。酷く昔の夢を視た。気が付けば永遠にも続きそうな雨は止み、微睡む思考で私は、乾いた四肢を動かす。嵐は過ぎたようである。
空は晴れ、窓から差し込むは紅蓮の夕焼け小焼け。暮れ泥む眩しさが、窓辺に立つ男に影を造る。嗚呼、君なのか。
夕闇に狂い咲くのは卯卵花。この胸に産声を上げた熱に、必死に忘れ、必死に嫌いになった過去が込み上げる。
友は、
君は私を恨んでいるだろうか。
もしも私の前頭葉が、君の幻を形造ってしまったのであるのならば、どうか君は私の都合のいいように。
——良い気になるなよ。とうにお前の事など忘れていたわ。
そう嘯いて男は、机の上に置かれた、私の持ってきた酒を飲んだ。口を付けてくれた。
——なんと不味い酒か。もう少しマシなのは、無かったのか。自分で一度飲んでみたらどうだ。
そんな風に悪態を吐きながら、残さずに全て飲んでくれた。こうやって友と飲み交わすのが、昔の私の夢だった。今は覚えていない。顔は陰でよく見えない。きっと私は、彼の顔さえも忘れてしまったのだ。それでも。
私は水筒の蓋に注いである方の酒を一口飲んだ。確かに不味い酒であった。
——こんなに不味い酒は初めてだ。もう二度と来るな。
——嫌だ。何度だって来てやる。
何度生まれ変わっても、再び友とこうして飲み交わせるよう、釈迦か閻魔か知らないが、拝み倒してくれよう。
私が大地に張り巡らせた根から吸い続けてきた怨嗟は、自分がこさえた物である。私のことを恨むのも、私のことを忘れるのも、それは友の自由であり、私の与かりの知らぬ事柄で、然しながら、私は恨まれているという呪いで、自分と自分の中の友を縛り、自分自身に赦しを与えていたのである。
友は、やはり私の都合の良い妄想であった。一番欲していた言葉をくれたのだから。御前様の赦しなど要るものか。私が私の儘に生き、私の儘に逝く迄の僅かな間、私が私の儘で在るが為に、また此処を訪れよう。例え痛みを伴うとしても。
宵闇に呑まれし盂蘭盆会。送り火焚いて酒を食み、待たせた故人に暫しの別れを告げる。
雨嵐花。