記憶
時は緩やかに流れ、気づいたらもう、街はクリスマスセールで溢れかえっていた。ただでさえ、喧噪と人混みとイエローキャブの騒音で、いつも充ち満ちているこの街なのに、今の時期はいつにもまして、どこもかしこも、賑やかなクリスマスカラーで埋め尽くされている。
ほんの少し前の私なら、たった4ヶ月前の私なら、この彩りに溢れた街並みが嫌で、ロンドンの郊外に聳える緑の館に逃げ返っていただろう。
あのころの私も今と変わらずとても愛されていたけれど、何かが違った。
普通の子供なら誰もがごく自然に持っているものが、私には無かった。
母という、存在が。
その事実に、気付かないように、いつもどこかで自分をごまかしていた。
親子ずれが多くなる時期は、わざと練習に忙殺されるか、早めに寄宿舎から逃げ出して緑の館へ駆け込んだ。
そこに行けば、目をつぶってしまえた。
私にも私を無条件に愛してくれる人たちがいたから。
そこではいつも私を愛してくれる優しい祖母と使用人達が、私のために150cmはありそうなもみの木を、館の裏庭の片隅にある林から切り出してきて、豪華な飾り付けをして待っていてくれた。ツリーの下には沢山のプレゼントの山。クリスマスプレゼントも勿論だが、私の誕生日でもあるその日のために、とにかく沢山の、大きさが違う箱が所狭しと広げられた。
その中に、いつも必ず差出人の名前がないプレゼントが複数個あった。
当時の私にはもちろん分かるはずがないが、あれは、母が私に送ってくれていたモノだった。
誕生日がクリスマスという子供にとって、複雑な感情がわき起こる、特別で、どことなく悔しい日。
普通の家の子供なら両親の懐次第では、大幅にプレゼントの数を減らされてしまうのだ。おまけに、誕生会を開いてもらったとしても、どうしても、クリスマスと一緒にされてしまう。プレゼントも、ケーキもきちんとそろっているけど、切っても切れないその行事に、なんだか邪魔されているような気すらするらしい。
私はそんな事は一度も思ったことはなかったけれど、たまたま同じ誕生日だと言っていた寄宿舎で一緒だった友人は、自分の運の無さをいつも大げさに嘆いていた。
私にはそれがなんだか幸せ自慢に聞こえていた。
私は、いつも数え切れないほどのプレゼントに囲まれていたけれど、本当にほしい物はその中にはなかった。本当にほしかったのは、手にすることすら無理とあきらめるしかないものだった。
私がほしかったモノ、それは、母から贈られる毎日のキスだったから。
どんなに家が名家でも、人が羨むような資産家で現在も貴族と呼ばれるような、伝統のある格式高い家の子供だとしても、私には母という存在がいなかった。
私には初めから無い存在が、友人達にはごく当たり前のようにあるのだ。
そのことに、否応なく気づかされるこの日が嫌いで、ただ逃げるしかなかった。普段は完全に忘れていられるのに、この日ばかりはどうあがいても、自分と友人達との違いを確認せざるをえなかった。
だから友人達の、家族だけで開くつつましいクリスマスパーティーの話が、私にはもの凄く羨ましくて妬ましくてしかたないものだった。仮に、どんなに親しい友人でも、クリスマスパーティーの誘いにだけは乗らなかった。
私に母の存在を思い出させる、友人達の母親たちには絶対に会いたくなかったのだ。
そんなクリスマスが、終わろうとしていた。
たった一通のEメールが、まるで奇跡のようにわたしの前に、ずっと願っても祈っても届かないとあきらめていた存在を連れてきたのだ。
そう、あきらめていたはずだった。
私には絶対に届かない願い。どんなに祈っても、けして手の届かない存在。
胸の一番奥に誰にも内緒でずっと隠さないといけないはずの、願望。
母親にキスされる。
だだそれだけの事だったけど、私には、とてつもなく大きくてけして叶わないはずの夢。
そのはずだったのに、今私は、奇跡的にも、欲しくてほしくてしかたがなかった母からの毎日のキスを、普通の子供たちとおなじように受け取っているのだ。
まるで、当たり前のように。
叶わないはずの夢が、たった4ヶ月前に突然叶ってしまった。
しかも、私は普通の子供たちとおなじように、ちゃんと母に愛され生まれてきたのだと、母の腕に抱きしめられながら聞いた。何度もなんどもキスされながら。
想像よりも、もっと優しくて、そのくせ胸が掻きむしられそうな痛みすら感じる、母との出会い。
怖くて、逃げ出しそうなほど、動揺していたのがまるで嘘のようだ。
今は不思議なほど穏やかに、母との時間が流れている。
明日にせまった、初めての母と過ごす特別な日。
私の心は、この幸せに打ち震えていた。